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醒めない夜

 「……おかしい」

 低く落ちた声が、資料室の静寂をわずかに揺らした。ジコウ・サギは、視線を落としたまま言った。手元のタブレットには、同じ形式で並ぶ“解決済み”の文字列。あまりにも整いすぎている。

 「何がだよ、急に」

 同僚は椅子を傾け、気だるそうに返す。ジコウは指先で画面を滑らせた。

 「ここ半年だ。ニュースでも騒いでるだろ。何年も止まってた誘拐事件が、一気に片付いてる」

 「いいことじゃねぇか」

 「数が異常だ」

 間を置かず、言葉を重ねる。

 「全米で五万件以上。しかも――発生件数を上回ってる」

 同僚の眉がわずかに動いた。だがすぐに、肩をすくめる。

 「偶然が重なっただけだ」

 「偶然で説明できる規模じゃない」

 ジコウは顔を上げた。その目には、確信に近い違和感が宿っていた。

 「解決してるのは、長期未解決ばかりだ。最近の事件は、検挙率は例年通り。ここまではまだいい」

 スクロールが止まる。

 「だがな……ニューヨークだけで二百件以上。しかも担当者が、全員バラバラだ」

 空気が、わずかに重くなる。

 「専門外の部署の連中が、どうやって誘拐事件を追う? 時間も権限もないはずだ」

 同僚は黙った。ジコウは続ける。

 「新人が三年以上未解決だった案件を片付けた例もある。――これは“運”じゃない」

 沈黙。その沈黙こそが、答えだった。

 「……で?」

 やがて同僚が口を開く。

 「何か掴んだのか」

 ジコウは首を横に振った。

 「担当した連中に直接聞いた」

 「結果は?」

 「全員同じだ」

 一拍。

 「“別件を追っていたら、たまたま糸口が見つかった”」

 同僚が鼻で笑う。

 「出来すぎだな」

 「ああ」

 ジコウの声は冷えていた。

 「全員が、同じ言葉で、同じように答える」

 それは偶然ではない。――“揃いすぎている”。

 「内部監査にも当たった」

 「Internal Affairsか?」

 「メールログの調査を頼んだ。即、拒否だ。規定違反だとさ」

 当然の判断だ。ジコウはゆっくりと息を吐いた。

 「だから正面から行くことにした」


 定例報告会議。無機質な蛍光灯の下、上官の視線が突き刺さる。

 「……サギの言い分は理解できる」

 重い声だった。

 「だがな。事件が解決していること自体に、疑いをかける必要があるか?」

 静かな圧力。ジコウは、わずかも揺れずに応じる。

 「解決そのものを否定するつもりはありません」

 はっきりと。

 「問題は“方法”です」

 視線が集まる。

 「無関係の部署の人間が、機密情報にアクセスしている可能性がある」

 「……」

 「それが事実なら、別の問題です」

 部屋の空気が凍る。誰も、軽く受け流せる内容ではない。ジコウは続けた。

 「だから調べたい。証明したいんです」

 上官はしばらく沈黙し、やがて低く言った。

 「……上には報告を上げる」

 短い間。

 「だが、期待するな」

 その言葉には、現実が滲んでいた。

 「動かない可能性の方が高い」

 ジコウは頷いた。

 「わかってます」


 ――約一ヵ月後。

 朝一番の日課であるメールチェックをしていたジコウは、思わず目を疑った。アシスタントディレクターからのメールが、個人宛てに届いていたのだ。

 ====================================================

 親愛なる特別捜査官サギ

  最近の誘拐事件の解決速度に関しては、私自身も多少の違和感を抱いていた。

 しかし事件として扱うには至らず、様子を見るに留めていたところ、君からの

 報告が上がってきた。

  私はそれを嬉しく思うと同時に、安心もした。同じようにこの状況に疑問を

 持ち、声を上げてくれる者がいることに。

  これから一週間以内に、君は本件調査において全面的な権限を付与される。

 正式な調査依頼も追って通達されるはずだ。決して悪いことではないが、

 誘拐事件解決の異常な速度の真相を明らかにしてほしい。

 立場上、公には言えないが、個人的には全面的に支援する。

                    ドム・バンクス

                    AD FBI本部

 ====================================================

 ジコウはその場で歓声を上げたい衝動に駆られたが、ぐっと堪え、口元をわずかに緩めるだけに留めた。正式な捜査命令が下るまでは落ち着かず、本来の業務にもどこか集中しきれなかったが、メールを受けて三日後、上長と共に支部長のもとを訪れた。

 「……私も長くこの立場で仕事をしているが、こんなケースは初めてだ」

 支部長は腕を組み、静かに言った。

 「本部のアシスタントディレクターから直々に、サギ宛てに依頼が来ている。内容は――誘拐事件解決の裏を調べろ、というものだ」

 机上の書類に軽く視線を落とす。

 「お前が以前に提出した報告書が発端だろうな」

 ジコウは姿勢を正したまま、黙って聞いている。

 「サギ。心して取りかかれ。この件については、お前の裁量で進めて構わない」

 一拍置き、続ける。

 「必要な人員があれば、直接私に言え。優秀な人材を用意する」

 視線がまっすぐに向けられる。

 「アシスタントディレクターを失望させるな。――頼んだぞ」

 「イエッサー!」

 サギは反射的に声を張り上げた。

 視線をわずかに上げ、右足を踏み鳴らし、右手で敬礼する。その動作はまるで軍人のように正確だった。

 席に戻ると、ジコウはすぐに監査部門へ連絡を入れた。メール調査の依頼について改めて話を通し、自分も直接赴く旨を伝える。通話を終えると、事前にまとめておいた誘拐事件の主要人物リストを上着の内ポケットに収めた。

 紙の感触を確かめるように軽く押さえる。そして立ち上がると、迷うことなく監査部門の部屋へと向かった。


 三日間――。

 ジコウは監査部門のデスクトップに張りつき、記録を一件ずつ洗い直していた。細部まで目を通し、些細な違和感も拾い上げるように。その中で、三人に共通する一点を見つける。内容は微妙に異なっていたが、要旨は同じだった。

 ――誘拐事件に関する情報と証拠を持っている。直接会って話したい。

 送信元はすべてフリーメール。アドレスも形式もばらばらだが、ユーザー名に、共通する文字列があった。

 ――”angel”

 「……三人目か。もう確定だな」

 ジコウは低く呟いた。試しに返信を送る。だが結果は予想通りだった。

 ――送信エラー。宛先不明。

 「だろうな……」

 肩をすくめる。

 「一応、身元が割れないようにはしているらしい」

 送信元のログをさらに追う。使用されていたのは、いずれもネットカフェ。しかも特定の店舗ではない。場所を変えながら、痕跡を残さないようにしている。

 (素人にしては慎重だな)

 だが同時に、

 (サーバーも経由していない……)

 直接送信。隠蔽は中途半端。

 「……プロではないな」

 ジコウは結論づけた。


 実地確認に移る。該当するネットカフェを一軒ずつ回り、メール送信時刻の監視カメラを確認する。そこで、予想外の事実が浮かび上がった。

 「……女か」

 画面の中の人物。つばの大きなフロッピーハット。個性的なサングラス。顔はほとんど隠れているが、仕草と体格は明らかに女性だった。

 しかも――

 毎回、服装が違う。帽子も、衣服も、同じものは一つとしてない。

 「……金はあるな」

 素材感、シルエット、仕立て。安物ではない。学生ではない。少なくとも、経済的に余裕のある大人の女性。歩き方にも無理がない。姿勢、重心、足運び――健康そのもの。

 「若いな……」

 少しずつ、確信に近づいていく。


 支部に戻り、若い女性捜査官たちに協力を仰ぐ。

 「この服、どのブランドだと思う?」

 画像を見せると、すぐに反応が返ってきた。いくつかのメーカー名が挙がる。それを元にWEBで確認。該当する商品と酷似したモデルを特定していく。

 そして――

 サングラス。これは一目だった。

 「……グッチか」

 フレームに刻まれたロゴ。隠す気があるのかないのか分からないほど、はっきりしている。


 対象がニューヨーク近郊に住んでいると仮定する。該当ブランドを扱う店舗を洗い出す。だが数が多すぎた。

 「さすがだな……」

 ニューヨーク。選択肢は無数にある。その中で、共通して複数ブランドを扱う場所を絞り込む。いくつかの候補。その中でジコウが目をつけたのは――

 Nordstrom。

 キャリアウーマン御用達のデパート。条件に最も合致していた。


 だが、問題があった。服や帽子は流行が早い。季節も変わっている。映像に映っていた商品は、すでに店頭にはなく、監視カメラの記録も残っていなかった。

 「……仕方ないか」

 張り込み。最も原始的で、確実な手段。幸い、サングラスは違う。商品の入れ替え頻度は低い。

 「まずは一ヵ月……グッチの前だな」

 ジコウは、サングラス売り場のテーブルを拠点に決めた。


 張り込み開始、最初の週末。人の流れを目で追いながら、時間だけが過ぎていく。ふと、空腹を思い出した。

 「……ホットドッグでも買うか」

 立ち上がろうとした、その時だった。視界の端に――入店してくる女性の姿。足が止まる。

 「……」

 無意識に観察する。身長。髪型。歩き方。身だしなみ。すべてが一致する。

 「……当たりかもな」

 ジコウは自然に動き出した。距離を詰める。そして――声をかける。

 「――ジェリーさん?」

 女性が振り向く。

 「……え?」

 一瞬の動揺。ジコウは間を置かず続けた。

 「ジェリーさんですよね。あの時はお世話になりました」

 女性の表情が揺れる。明らかに、想定外。

 「えっと……申し訳ありませんが、人違いでは?」

 「いえいえ」

 柔らかく笑う。

 「おかげで事件も解決しました。本当に助かりましたよ」

 “当事者”として振る舞う。女性の視線が揺れる。思考が追いついていない。

 「……あぁ、あの時の……」

 ようやく、言葉を合わせてきた。

 (乗ったな)

 ジコウは自然な調子を崩さず続ける。

 「こんなところで会うなんて、奇遇ですね」

 軽く肩をすくめる。

 「お一人のようですし、よかったら昼食でもどうですか。事件の後のお子さんの様子とか、少し聞いてもらえれば」

 女性の空気がわずかに引く。断ろうとしている。その気配を察知し、間を与えない。

 「あ、すぐそこにファーストフードがありますから」

 軽い口調で続ける。

 「ポテトでもつまみながらで十分ですよ。安月給なもので、それくらいしか奢れませんが」

 わざと崩す。圧を抜く。女性は一瞬、黙った。そして――小さく頷いた。

 「……では、ホットコーヒーだけ頂きます」

 ジコウは笑みを崩さなかった。

 (捕まえた)

 だが内側では、確実にスイッチが入っていた。


 店に入り、互いにコーヒーを手にしてテーブル席へ向かう。向かい合って腰を下ろすと、先に口を開いたのは女性だった。

 「……どうして、私だと気づいたのですか」

 ジコウは一瞬だけ間を置き、軽く笑ってみせる。

 「そりゃ、こんな美人を忘れる訳ないでしょう」

 女性は表情を崩さない。

 「いえ。お会いした時は、大きめのサングラスにマスクもしていました。それなのに……どうして分かったのか、気になりまして」

 ジコウは肩をすくめる。

 「私も素人じゃありませんから。耳ですよ」

 自分の耳を軽く指で示す。

 「形と、右の耳たぶのほくろ。あれは特徴的だ」

 女性は一瞬目を瞬かせ、納得したように小さく頷いた。

 「ああ……なるほど。さすがですね」

 「すみません。個人を特定するつもりはありませんが、職業柄、どうしても目に入ってしまう」

 「いえ、怒っているわけではありません。ただ……少し驚いただけです。さすがFBI捜査官、といったところですね」

 ジコウは笑みを保ったまま、コーヒーに口をつけた。

 そして――

 「ジェリーさん。一つ、お伺いしてもいいですか」

 女性の視線がわずかに揺れる。

 「……何でしょうか」

 「最近、誘拐事件の解決率が異常に高い。ニューヨークに限らず、全米でです」

 ゆっくりと、言葉を選ぶ。

 「もしかして――あなたが、私の時のように情報提供をしているのではないかと思いまして」

 沈黙。

 女性はじっとジコウの顔を見つめた。逃げ場を探すような視線ではない。見極める視線。そして、静かに口を開く。

 「……約束しましたよね」

 声は低い。

 「この件は、それ以上詮索しないと。それを条件にお話ししたはずです」

 一拍。

 「口約束とはいえ……規約違反ですよ」

 空気が変わる。ジコウは一度だけ息を整えた。そして、正面からその視線を受け止める。

 「……なるほど。理解しました」

 ゆっくりと。

 「騙すようなことをして、申し訳ない」

 そのまま名刺を取り出し、差し出す。

 「私はこういう者です。メールを受けた本人ではありません」

 女性の表情が一瞬崩れる。

 「……どういうことですか」

 ジコウは笑みを崩さないまま続ける。

 「先ほども言った通り、異常な検挙率の原因を調べていた。その中で、あなたに行き当たった」

 淡々と。

 「最初に言っておきますが、あなたが情報を提供した相手とは一切関係ありません。これは、私個人の調査です」

 女性の視線が鋭くなる。ジコウは続けた。

 「だから……あなたが今、どれだけ怒るのかも、正直わかっていなかった」

 短く間を置く。

 「このやり方でしか、あなたに辿り着けなかった。本当に申し訳ない」

 女性は腕を組み、黙って聞いている。表情は崩れない。だが、完全に拒絶しているわけでもない。ジコウは一歩踏み込む。

 「……やっと会えた」

 声が少しだけ低くなる。

 「あなたを捕まえるつもりはない。むしろ、感謝している」

 そして、静かに続ける。

 「ただ――一つだけ教えてほしい」

 その瞬間、女性が言葉を被せた。

 「いいわ」

 迷いがない。

 「教えてあげる」

 ジコウの動きが止まる。

 「私は、……人を見つける特殊な能力を持っている。それだけ」

 静かな声だった。

 「信じるかどうかは、あなた次第。でも、答えは何度聞かれても同じよ」

 沈黙。ジコウは目を見開いたまま、言葉を失った。女性は続ける。

 「これ以上、私を調べても何も出てこないわ。能力だから」

 わずかに視線を落とす。

 「でも……誰にも迷惑をかけたつもりはない」

 再び、目を上げる。

 「だから、そっとしておいてほしいの。お願い」

 ジコウはゆっくりと口を開いた。

 「……じゃあ、全米の事件解決は」

 一瞬、言葉を選ぶ。

 「すべて、あなたが関与している……そういうこと?」

 女性は迷いなく頷いた。そして、名刺を差し出す。

 「どうせ調べるんでしょ。私は私立探偵。それだけよ」

 ジコウはそれを軽く押し返す。

 「いや、調べない」

 視線を外さない。

 「本当のことが知りたかっただけだ」

 一拍。

 「……本当に、そんな力があるのか?」

 女性は静かに答える。

 「あるから、わかるの」

 「でも、私一人じゃ助けられない」

 言葉に、わずかな揺れが混じる。

 「だから……FBIに情報を渡してる。それだけ」

 ジコウは、もう一度その目を見た。嘘はない。少なくとも――今は。

 「……名前を教えてくれないか」

 短い沈黙。やがて女性は口を開く。

 「……シロエ・モレッツ」

 「ありがとう、モレッツ」

 ジコウは小さく頷いた。そして、少しだけ身を乗り出す。

 「これから、今思いついた話をする」

 静かに、しかし真っ直ぐに。

 「興味がなければ、その場で断ってくれ。ここで完全に終わりにする。今後一切、君に接触しないと約束する」

 間。

 「でも、少しでも考える余地があるなら……時間がかかってもいい。連絡をくれ」

 女性はわずかに目を細める。

 「……いいわ。話は聞く」

 ジコウは頷き、言葉を選びながら話し始めた。

 「俺は、超能力なんて信じていなかった」

 一拍。

 「……今、この瞬間までは」

 視線を外さない。

 「でも、現実にあると知った」

 少しだけ前に傾く。

 「だから考えた。――その力を活かす場所を作る」

 モレッツは黙って聞いている。

 「小さな、秘密の部署だ」

 声が低くなる。

 「上に話せば、間違いなく通る。君の力を見ればな」

 軽く肩をすくめる。

 「もちろん理想論だ。だが、現実にできる」

 彼女の答えが出ないかここで顔をもう一度確認する。

 「……続けて」

 モレッツが促す。

 「君は今の生活を変えない。探偵もそのまま続ける」

 「ただし――守る」

 言葉に重みを乗せる。

 「情報の出所を探る連中から、完全に」

 モレッツがわずかに皮肉めいた笑みを浮かべる。

 「今のあなたみたいな人から?」

 ジコウは口を歪め、頷いた。

 「……そうだな。俺みたいに嗅ぎ回る連中から守る」

 少し間を置き、続ける。

 「だが、四六時中ガードをつけるような真似はしない。デジタル面だ。通信、端末、すべて保護する。不正アクセスは一切通さない」

 さらに言葉を重ねる。

 「情報の受け渡しは、俺が窓口になる。一本化する。出所も、経路も、すべて秘匿だ。しかし、俺が得する事はない。得はモレッツのモノだ」

 女性が静かに言う。

 「……お金ね」

 ジコウは即答した。

 「そうだ。それしか、俺たちにできる感謝の形はない」

 視線を強める。

 「その部署は、FBI内でも完全に秘匿される。選ばれた人間だけで構成する。その部署の結果は……他とは比較にならないものとなるだろう」

 そこで、言葉を切る。

 「どうだろう。君の力は、もっと活かされる。そして――今以上に、多くの命を救える」


 ――五年後。

 アメリカ全土で、誘拐や強盗といった凶悪事件は激減していた。理由は明白だった。

 シロエは毎月、巨額の報酬を受け取っていたが、その大半を匿名でさまざまな機関へ寄付していた。今の自分に、シロエは十二分に満足していた。仕事があり、友人がいて、穏やかで満ち足りた日々がある。それで十分だった。


 ある日の夜。

 「今日もいい顔だな。その顔を見るのも、今日が最後になると思うと辛いよ」

 「何を言ってるのよ。二度と会えないわけじゃないでしょ」

 「まあ、そうなんだがな。時間がある時は、施設にも顔を出してくれよな」

 その日は、プラッドの店――パン屋ビットの、最後の営業日だった。シロエは営業後の店に招かれ、自分のリクエストしたパンを最後に焼いてもらい、それをもって店を閉じることになっていた。

 「今日の……最後のプラッドのパンも美味しかったわ。これが食べられなくなるって、何だか自分の身体の一部が欠けるみたい」

 「今まで本当にありがとうな。シロエには色々世話になった。こんな年寄りの相手をしてくれて、ありがとよ。本当に感謝しかない……」

 そう言って、プラッドの頬を涙が静かに伝った。シロエはそっと寄り添いながら言った。

 「お疲れ様。プラッドには、たくさん相談に乗ってもらったし、私にとって心の拠り所だったわ」

 そして、店の通路に所狭しと並べられた花束を指さす。

 「私だけじゃない。みんなが“お疲れ様”って言ってるのよ。これまでの感謝が、この花束の数に表れてるわね」

 「ああ……本当にありがたいことだ」

 プラッドは花束を見渡し、静かに頷いた。

 「明日、最後の片づけをして、明後日には引っ越しだ。今日はこの店で泊まって、店との最後の夜を楽しむとするよ」


 帰宅したシロエは、泡風呂に浸かりながら、プラッドのことを思い返していた。長い付き合いだった。店の匂い、焼きたてのパンの熱、何気ない会話。その一つひとつが胸の奥に浮かび、静かに沈んでいく。

 その時、ふと思い出した。まだ量子空間と繋がったばかりの頃、プラッドと交わした会話。あの時の、何気ない願い。

 シロエはぱっと目を開くと、すぐに風呂を上がって着替え、ベッドへ飛び込んだ。そのまま意識を沈め、量子空間へ入る。


 セディーは何やらせわしなく作業していたが、シロエは構わず声をかけた。

 「セディー!」

 「うわっ。いきなりどうしたの」

 「今日は忙しいわよ。久しぶりにクリエイター役があるの。手伝って」

 セディーは怪訝そうに眉をひそめる。

 「私が手伝うことなんてある?今のシロエなら大抵のことは一人でできるでしょ」

 「違うの。ちょっと特殊な夢になるのよ。記憶にない遊園地を作る必要があるの」

 セディーが首を傾げた。

 「想像で遊具を作るんじゃ駄目ってこと?実物に近い記憶が必要なの?」

 「そう。三三三時間の五十年くらい前に、ジョージア州にあった遊園地の記憶を持ってきてほしいの」

 シロエは手早く説明する。

 「私は記憶空間で必要な記憶を準備して待ってる。準備できたら呼んで。すぐに呼び出すから」

 セディーは呆れたように小さくつぶやいた。

 「まったく……量子人使いが荒い天使ね」

 「聞こえてるわよ。はっきりね」

 シロエはじろりと見る。

 「最近のセディー、三三三の人間に似てきたわね」

 「そりゃ、これだけ三三三の者と一緒にいれば、似てもくるでしょ」

 「さあ、さあ、早く行って」


 シロエはプラッドの量子空間へ入った。

 そこでは、プラッドが超巨大なパン工場を運営し、千人を超える従業員の前で挨拶をしていた。どうやら、工場長の夢を見ているらしい。しかもその隣には、ノート片手にせわしなく動き回る自分の姿まであった。

 「あら。私は秘書なのかしら」

 思わず苦笑する。

 「自分が出ている夢を見るのは初めてだけど……何だか落ち着かないわね。さ、記憶空間に行かないと」

 シロエは空間を割り、その奥へと滑り込んだ。記憶空間の中を、速度を上げてさらに奥へ、奥へと進む。小さな記憶玉が無数に漂う中、一つだけ小さいながらも力強い輝きを放つ玉があった。

 覗き込む。

 そこにあったのは、プラッドと奥様の結婚式の記憶だった。

 「うーん……この姿で遊園地っていうのも、ちょっとバランスが悪い気がするけど」

 シロエは首を傾げる。

 「でも、一番鮮明な記憶がこの姿なんだものね。……まあ、いいか」

 シロエは記憶の中の奥様をそっと抜き出し、ポケットにしまった。さらに、パン屋ビットがオープンしたばかりの頃の店の記憶など、明るい記憶をいくつか選んで同じように収める。

 そして記憶空間を抜け、セディーからの連絡を待った。やがて、声が響く。

 「シロエー、お待たせー。遊園地、見つかったわよー」

 シロエはすぐにセディーをプラッドの量子空間へ呼び寄せた。

 「遅かったわね」

 「遊園地の記憶が曖昧なものばかりで、まともなのが少なかったのよ」

 セディーは少し肩をすくめる。

 「それでも全部は集めきれてない。遊具は五基分だけど、まともなのは二基ね」

 「OK。それで十分よ」


 シロエは夢の建造を始めた。

 まず、工場長の秘書として傍らにいた自分を、奥様に置き換える。その瞬間、プラッドの様子が明らかに変わった。工場で何かあるたびに、自然と奥様へ話しかけるようになる。その様子を確かめると、シロエは次に遊園地を組み立て始めた。

 だが、まともに形になったのは木製コースターとメリーゴーランドくらいだった。プラッドと奥様が二人きりになった瞬間、シロエは工場の風景を横へ払い、代わりに遊園地を出現させた。

 二人は手を繋ぎ、迷いなく走り出す。用意していなかったはずの音楽が、どこからともなく流れ始めた。それはプラッド自身の想像か、あるいは記憶が呼び起こした音だった。

 木製コースターでは、先頭に座った二人が声を上げて、笑いながら叫ぶ。コースターはいつまでも止まらず、このまま永遠に走り続けるのではないかと思えるほどだった。

 メリーゴーランドでは、心を弾ませるオルガンの旋律が柔らかく空間に満ちた。

 二人は遊園地の中にオープンしたばかりのパン屋ビットでホットドッグを買い、歩き疲れるとベンチに腰を下ろした。手の中のホットドッグを頬張りながら、楽しそうに話している。

 やがて背景は夕暮れへと移り、赤や黄色のカラフルなネオンが灯り始める。二人は手を繋いだまま、いつまでも語り合っていた。

 その様子を見届けると、シロエはセディーを連れて、静かにプラッドの量子空間を抜けた。


 最後の夜となるパン屋ビットでは、簡易ベッドに横たわったプラッドが、満面の笑みを浮かべていた。

 もう覚めてほしくないと願うような、優しい夢の中で。



最後まで読んで頂きありがとうございます。

目覚めた瞬間に忘れる夢。その世界が多元宇宙(量子空間)と繫がってたら面白いなーと思い、そのイメージで書きました。少しでも楽しめたら幸いです。


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