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先生、叶えてくれませんか?!  作者: 雨宮雨霧


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第七話 色のついた景色

 生きているのかも分からない。

 死にたくてたまらない。

 全身に広がる痛みに苦しむ。

 息が切れる。

 息の仕方も段々わからなくなっていく。

「大丈夫だよ、叶。痛いのも言ってくれていいから」

 体中をさすってくれる綾音様。

 抱きしめたままのイルカのクッション。

 あまりに暴れるせいで手にはミトンがつけられた。

 邪魔だと訴えても調子のいいときくらいしか外してもらえない。縛り付けられていないだけマシ。

 そりゃそうか。綾音様を万が一傷つけでもしたら。命を捨てでも償わないと。

 一ヶ月はとうに過ぎた。

 もう冬だ。十一月の終わり。外は随分寒くなったことだろう。

 高熱にうなされる日が続く。

 寒気が全身を満たしたと思えば暑くて仕方がなくなったりの繰り返し。

 生きていたくない。早く死んで楽になりたい。

 そう思ってもこの人には言ってはいけない。怒られるどころの話ではなくなる。

 倒れて半年以上が経った。

 半年以上も気が気じゃない生活を送っている綾音様。

 彼女こそ心労で倒れてしまうんじゃないか。倒れるわけにもいかないから無理をしているだけで。

 だからこそ死んでしまいたい。お互いに楽になるはずだ。

 年内生きられるかどうか、と言われていたからもう覚悟もできていた。

 一ヶ月と言われてもその覚悟のおかげで怖くはなかった。綾音様を一人にすることだけは気がかりだったけど。

 もう今年も終わる。私の今の一つの夢。

 綾音様の誕生日まではどうにか生きたい。

 贈り物をこの手で渡したい。

 最後になってしまうのは、変えられない事実だ。

「あやねさま。すきだよ」

「今それ言うこと?私も好きだよ、叶。クリスマスツリー飾ってくるから待ってて」

 額をなでられる感覚の後、ドアの静かに閉まる音が聞こえた。

 アイマスクで閉ざされた視界。

 今がいつかもよく分からない。何時なのかも。

 クリスマスツリーか。

 そうだ、クリスマス。

 完全に頭から抜けていた。綾音様の誕生日くらいしか頭に残っていなかった。

 期間が詰まっているせいでいつもてんてこ舞いだったっけ。

 クリスマスが終われば仕事納めだしお正月だし。新学期が始まったと思えば綾音様の誕生日というタイトさにいつも悲鳴を上げていた。

 なにをあげよう。こんな調子じゃ買い物にも行けない。

 なにをあげたら喜ぶかな。受け取ってくれるんだろう。

 最後のクリスマスに贈るもの。しばらく考えるか。


 熱も一旦は下がり、目が覚めた。

 痛みが取れることはなさそうだが数時間前よりはよくなった。

 ミトンとアイマスク剥ぎ取って寝室を見渡す。

 眠りこけた綾音様と薄暗い部屋を色とりどりに照らすツリーが映った。

 今は静かにしておこう。ずっと体を冷やしたり毛布をかけてくれたり、さすってくれたりした綾音様はお疲れなんだ。

 ずっとこんな私と居て飽きないのか。

 話もほとんどできていない。話す内容もない。

 一緒に居てくれるという事実を噛みしめるしかできない。

 こんな私をずっと嫌わずに許し続けてくれるこの人の優しさが苦しい。

 クリスマスな。

 なにをあげようかな。

 スマホを手に取り、ぼやけた目で色々周回する。

 ペアのカップ。ペアのぬいぐるみ。ペアの……。そればっかりだな、私もう死ぬぞ。

 お揃いなんて綾音様を呪縛してしまうだけだし雪里先生だって困ってしまう。

 後悔のない選択。後悔の人生を歩む。

 忘れるなんてことは決してないような綾音様。きっと寄り添い続けてくれる人。

 いつか思い出になるといい。もらったんだって言ってくれたときにはもう思い出になっている。

 ペアのものでなくてもいいな。なににしよう。

 ふと目についたロケットペンダント。なんか重いかもしれないけど。私の思いが。

 形見にするにはいいだろう。そういうイメージが私の中にはある。

 こっそり買っておこう。

「叶、起きてたんだ」

「綾音様のほうが病人みたいな顔してますよ。いい加減休んでください」

 顔を手で包み込みながらそうかなと疑問を飛ばす綾音様。そうだよだから早く休め。

 最期くらい元気なあなたを見ていたい。なんて、ああ。私が元気になればこの人も元気になってくれるのか。

 元気一億倍のヒロインにでもなるか。ならないでおこう。なんか私の性には合わない。

「ツリー綺麗です、ありがとうございます」

「今年はでかいツリーも見に行けないからね。見てもいいのはいいんだけど」

 だって最期だから。そんな言葉を飲み込んだように見えた。

 優しい人だな。本当に。優しすぎて女神様に見えてきた。

 決して甘やかし続けるだけではない。できるものを増やして、それを成長させていく力。

 恋人とはいえ恩師でもある。だからたまに生徒の立場に戻ることもある。

 綾音様の気まぐれで即席のテストをやらされたときは悲惨だった。

 仕方ない。元々保体というのは苦手だった。実技も筆記も全滅。

 先生のことが好きでも体育は駄目だ。興味がなければ苦手すぎて撃沈。沈没船。

「見に行きましょう、どうにか調子戻すんで」

「無茶言うな。一週間も熱で寝込んでたら体力とか免疫とか落ちてるよ。家の中を散歩するくらいならね」

 そんなつまらないことってあるか。

 どうせ死ぬのに!

 でも綾音様の誕生日までは生きたい。その後は分からない。

 そういえば仕舞いっぱなしのネックレスがあった。

 夏休みの宿題を終わらせたご褒美にと買ってもらったネックレス。いやいつのだよ、だし年代物だなとは思うがロケットペンダントには合うだろう。

 届いたら雪里先生にペンダントとネックレスのチェーンを繋げてもらおう。私にはもうできない。

 老眼相手に追い討ちをかけている気もしなくもない。綾音様のためだと言えばいいだろう。

 そうしようそうしよう。

「クリスマスも一緒に過ごしてください」

「当たり前だよ。来年も一緒に、ね」

 胸の中に潜りながらまるで猫のマーキングみたいなことをするかわいい私のにゃんこ。

 来年も一緒に。もちろんと言い切りたい。

 梅も見たいし桜も見たい。春を見たい。

 見させてくださいサンタさん。

 あなたはずっと来てくれていないんですから。


 とある今日はまだ調子がいい。

 這いつくばって床を歩いていた最近。それは歩いていたと言えるのだろうか。テレビから出てきた貞子のレベル。

 綾音様の手を借りながら家の中を歩く。

 何年もここで暮らしてここらへんで寝転んだりしていたのに。

 毎日台所に立っていたのに今ではまったくない。代わりに綾音様がよく立っている。こんな時代が来るとはな。

 家具も特に変わったわけではないけれど色々と違う。私が過ごしやすいようにと細かい工夫を施してくれているのはこれまた愛だ。

 クッションカバーもいつの間にかふわふわの生地に変わっているし床にもふわふわのカーペットが敷かれている。

 冬だからというのもあるけど私がふわふわしているものが好きだから用意してくれたんだね、ありがとう大好き愛してる。

 あらゆる角という角には転けて頭を打ってもなんとかなるようにカバーがつけられている。

 心配症な綾音様がなにかをしだすともう止まらない。ずっとあれはこうしたほうが、これはこうするほうがとうるさい。

「ふわふわー」

「ほんと好きだね、そういうの」

 部屋中を散策してソファに転がる。

 クッションに顔を埋めて遊ぶ。大の大人がなにをしているんだか。

 やわらかくてふわふわのクッションは心身にも優しい。心は溶けていくし骨ばった体もいくらか痛みもマシになる。逸材。

 とろけながら思い出す。

 まだ恋人になる前のクリスマス前に一緒にスーパーに行ったときのこと。

 先生になにをあげようか、そんなことを考えながら食材を吟味しながら買い物かごに放り込んでいた。

 先生が好きなもの、なんだろう?一緒に暮らしているのに全然知らないままだ、と謎のショックを受けて綾音様に好きなものを聞いてみた。

 すると「目の前に居る人」と答えを返された。

 いやもう好きだったじゃん絶対。恋人は駄目だとかまだ、とか色々言ってきたくせして好きじゃん。

「好きです、先生」

「え、うん。不意打ちに先生とかやめて、最近呼ばれてないし心の準備が」

 そうなんだよなあ。綾音様ってば私が心配だからって休職しちゃったんだよなあ。

 ああー、私の今瀬先生が。私のせいで先生が先生をやめちゃいそうなんですけどどうすれば。

 夏場はたまに仕事なのか何なのかは知らないが行ったりもしていた。もう全く行かなくなってしまった。行くより私と居たいらしい。

 だからなのかずっと日焼けしていた肌も白くなってきているように思う。

 やっぱり引きこもっていたら白くなるものなのか。

 綾音様は一生外に居るようなお方だから逆に死にそう、なんか心配。

「なんか食べられそうなら食べようか。まともな食事できてないからな」

「一緒に作りましょう、おねがいします」

 薄く笑って仕方ないな、と言われた。

 私にできることなんて綾音様を精一杯応援することくらい。

 なにができるかな。包丁はもう持たせてもらえない気がするし。落としまくられたら怖すぎて隣にも立たせたくないはずだ。

 最近食べていたものといえばゼリーをひとくちとか。綾音様お手製の、野菜をミキサーにかけてスムージー状にしました!っていうのとか。

 緩やかに死に向かっているのは目に見えている。

 管にたくさん繋がれるとか嫌だしそこまでして生きたくない。

 倒れて意識が戻るまでは管に繋がれすぎて誰か分からないほどだったという。それはもう、ちょっと。誰にもそんな姿は見せたくない。

「手際よくなりましたね」

「一応、まあ。うん。ずっと任せっきりだったの後悔したよ」

 千切りもお手の物だね、先生。

 綾音様が雪里先生の家に転がり込んでいたときに多少教え込まれたらしい。

 料理くらい作れよ、と言ったら料理ってなに?状態だったんだと。甘やかしすぎた結果がこれでしたごめんなさいみなさま。

 というか綾音様のご両親が必死に教えていたのは何だったんだし。忘れないでもらえると。

 包丁の持ち方から切り方、その他様々な工程まで。

 ご両親からも私からも指導を受けていたはずの人はやらない期間があると完全に忘れてしまうらしい。

 大分教えたはずなんだけどな。

 その他家事から名もなき家事まで教えていったという雪里先生には感謝だ。成長してますよこの人。

 やっぱり先生に教えてもらうというのがよかったのかな。料理教室の先生にでも転身できるんじゃないか、雪里凪様は。

「椅子に座るのが仕事とか言いませんよね?」

「座るのもリハビリだよ。細い体から枯れ枝になった叶さんは存在してくれてるだけでいいです」

 酷い言われようだなおい。

 細かったのはそうかもしれない。食べるのも自分から拒否していたし生きることをやめていた。

 でも枯れ枝って。食べようとしてるし生きようとしてるのに。

 パワーの欠片もないけどさ。

 枯葉が全部落ちたら死ぬんだー、みたいなベタなものは思わない。

 死んだ試しがないので。

 椅子の座面にも背もたれにも骨が当たって痛まないようにとふわふわのクッションが敷かれている。この人やばいな、気遣いでできてるんじゃないか。

 こんなに素敵な綾音様を私が。私のせいで再起不能に陥らせてしまうんだ。

 雪里先生にはもちろん調子のいい日、一言だけでもなにかしらは言ってある。

 綾音様を死なせたりしたらあなたの前に化けて出て呪ってやりますとか。

 一生彼女にはなれないでしょうけど愛してあげてください、とか。

 後者に関してはなんか酷いが。分かってはいる。綾音様にとっての一番が私じゃなくなるのが嫌なだけ。自分勝手。

 先生からしたら自分なんて一生徒だった。自分一人居なくなろうと、先生の周りには素敵な人がたくさん居る。それなら、きっと大丈夫。

 一生徒のままじゃないから大丈夫じゃない。

 恋人だから?恩師だから?親代わりだったから?

 分からない。

「おかゆなら食べられるかな。潰した梅も混ぜといたから」

「ありがとうございます。湯気上がってるの久しぶりに見た」

 意味もない考え事をしていたらおかゆが出来上がっていた。

 湯気が上がっているというだけでテンションも上がる。気分上々いただきます。

「おいしいです、あったかくて」

 ひとくち食べただけで分かる優しい味。おかゆなんだからそりゃそうかもしれない。

 綾音様お手製なんだからそりゃそうだ。

 でも、なにか。ずっとなにかに囚われていた心がほどけていくような感覚がする。

「なんで泣いてるの、叶」

 おたまを置いて慌てて寄ってきた大好きな人。

 何十年も一緒に生きてきた人が居なくなるなんて、嫌に決まっている。

 嫌に、決まってる。

 特にこの人はそうだ。

 私だってそうだ。

 今まで出会って別れてきた誰かが死ぬなんて嫌だ。

「ごめんなさい、あやねさま。ごめんなさい。死にたくない」

 止まらない涙に震え上がる声。

 途切れ途切れになっていく言葉たち。

 自分の意思に反して込み上げてくる感情に支配されていく。

 いつかは終わる命。

 終わらせようとしてきたもの。

 綾音様に、今瀬先生の前で死ねるなら本望だと本気で思っていたあの日。

 死にたくない。

 思考を支配しだすのはこの言葉だ。

「叶……。死なないよ、死なせない。大丈夫だよ。そう思っているうちは絶対」

 体が痛まないように気を遣って抱きしめてくれる。

 骨ばった身体は白いどころか黒ずんできている。見るに耐えない色をしている箇所もある。

 熱にうなされて暴れて、ぶつけたりした場所には無数のあざができている。

 そんなの、見たくないはずだ。

 愛している人がそんな姿に変貌するなんて嫌なはずだ。

 なのに一人にしてくれるどころか見捨てもしてくれない。ゴミ袋にでも詰めて捨ててくれたらいいのに。

 死にたいのか死にたくないのか分からなかったこの人生。そうやって終わりを迎えるんだな。

 腕を離し、まだ湯気の立っているおかゆに目を映す。

 スプーンを手に取り、少しずつ頬張る。

 生きる理由でも詰まっているような、そんなあたたかい味。

 ふと思い出したあの夜の記憶。

 早瀬は独りじゃない。私が居る。早瀬が死んだら私は悲しいし辛い。win winなんかじゃない。

 そういえばそんなことを言ってくれる人だった。

 確かにあのとき欲していた言葉。だからといってかけてくれるなんて思っていなかった。

 立場も違えば年も離れている。つまりは考え方なんてまるで違う。

 そう思っていた私に、言ってくれてしまうんだ。

 私の好きは先生の思いとは違っていただろう。私がしつこく言い過ぎて洗脳してしまったようなものだ。

 生徒にかけた言葉。

 違う。

 私という人間にかけてくれた言葉。

「どれだけ一緒に居てもね、大切な人は大切なものなんだよ」

 震えるスプーンを奪い、食べさせ始めてくれる綾音様。

 こんな自分と居るのを飽きてくれもしなければ頑張ってなにか伝えようとしてくれる。

 私が安心できるものを、生かせるなにかを。必死で考えてくれる。思えばずっとそうだった。

 まだ中学生だったときも、今瀬先生は言葉を選んでかけてくれた。

 一生徒としてではない。一人の人間として接してくれていた。

 初めて存在を認めてくれた人。

 初めてだった。空気になりたがっていた私を招き入れてくれたのは。

 ゆっくりと食べ進め、また食べさせてくれる。

 時間はかかったが完食できた。

 久しぶりに食べることができた。ちゃんと食べられた。美味しかった、ああ。あと何回だけなら許してくれますか。

「ごちそうさまでした。美味しかったです」

「完食なんていつ振り?途中で泣かれるとは思ってなかったけど」

 えらいえらいとなでられる。

 綾音様を好きになったのは当たり前のことだった。

 彼女が私のなにが好きなのかは分からないけれど。

 生きていたい。もう少しだけでも。


「だからお願いします」

「だからじゃないって。私をなんだと思ってる?」

「やってくれたら綾音様との水族園の写真あげますよ」

 しばらく無言が続いた後、了承が出た。

 これでロケットペンダントをあげられる。ネックレスの飾りはオルゴールの飾りに足しておこう。

 明日の仕事帰りに寄ってもらえることになった。綾音様は嫌がるだろうな。

 雪里先生のことが嫌いなわけじゃないだろうに。なんであんなに嫌がるんだか。

 家に転がり込めるくらい心を許しているくせして、本当にツンデレというか素直じゃないというか。

 どちらにせよ綾音様が雪里先生と仲良くしているのを見ていると嫉妬している自分ももちろん居る。だから今の状態でいいや。

 電話を切り、ベッドに転がる。

 お似合いのカップルにでもなってくれ、なんて。

「クリスマスなにがほしい?」

「そうですね。綾音様の愛情ですかね」

 なにかをもらっても、な。どうせ死ぬんだ。

 物をもらっても大切にできるほどの時間は残されていない。

 食べ物、消費系をもらっても私はもう使えない。

 困ったものだ。なにがと言われても、クリスマスまで生きている保証なんてどこにもない。

 人の優しさが再び怖くなる。

 なにも返せないのに。傷つけて、苦しめてしまうだけなのに。

「もっと他にあるだろ」

 笑ってそう言ってくれるこの人がどこまでも好きで。

 好きだからこそ傷つけたくなくて。

「じゃあ、やっぱり。どこか連れて行ってください」

「それは、そうだな。考えておくよ」

 無理なお願いをしたことが分かる。

 泳ぐ視線を追いながら思う。言うこと間違えたなあ。

 もう少しなにかいいお願いなかったか。ないからこれになったんだけど。

 そんなに考え込まなくてもいいよ。

 無理、で一掃してくれたら私も諦めくらいつく。大人になったんだ、もう死ぬんだ。

 死ぬんだからもうなにも怖くないよ。

 後悔なんてしない、ことはない。

「未練なんてないほうがいいもんな」

「ひとつでも少なくしてくれたらいいなって思ってます」

 制限時間は刻一刻と迫ってきている。

 こうしている間に流れていく一秒、一分を大切にできているかと問われるとできていないのかもしれない。

 どうしても当たり前ではないことを当たり前にしようとする。

 そして失ったそのとき、当たり前じゃないんだ、ということに気付く。

 そうやって生きた。

 後悔とも結びつかないなにか。気付きというのは成長を促してくれるもの。

 名前をつけることもできないなにかに、よく踊らされる。

 どうしようもないのに。

 正解があるわけでもない。不正解があるわけもない。

 それが人生なんだと、そのまま受け止めてあげられたら。悔いもなく死ねるだろう。

「そうだ、テストでもしよう。合格点越えたらどこか連れて行ってあげる」

 思いもよらぬ回答に思わず目が丸くなる。

 お願いした本人はなにか後悔しだすし提案者は爛々としている。

 テストな、うーん。この人のテスト難しいんだよな。いい点数を取れた試しがないし全部解けた試しもない。

 最期くらいやるか。やらなかったらそれこそ後悔ものだ。

「やります。やらせてください」

「よし。じゃあ叶のことが一番好きなのは誰か、答えよ」

 思っていた問題と違う。身構えていたのに一気に力が抜けた。

 一番好きなのは誰かって。そんな問題出しちゃうくらい好いてくれてる人なんて。

 シラフで言えてしまうんだ、感心するし自然と笑みがこぼれる。頬が緩みきってしまう。

 暖房をかけて体を拭いてもらいながらのテストなんて。これはテストと言えるのか。

「綾音様ですね」

「正解。叶が一番好きなのは誰か、答えて」

 問題を言っているうちに恥ずかしくなってきたのか、出題者の声が上ずる。

 面白い人だなほんと。

 高校生の頃の綾音様とのテストの対策も結構面白かったというか。私のやる気がなさすぎてよく呆れられて怒られもした。

「綾音様ですよ」

「そうだな。叶の憧れは?」

 なんでこういう問題ばかりなんだろう。面白いというかもう愛しくてたまらない。

 どこまでこの人はかわいいんだろう。

「綾音様です。誠実で優しいだけじゃない、そんな人が」

「そうか。叶の料理が一番好きなのは誰ですか」

 もうここまで来ると笑いすぎてしんどい。

 表情を作るというのも疲れるんだな。筋力の衰えを感じる。

 拭き終わった後は体全体を保湿されていく。

 傷だらけの体なんて見慣れるはずもない。なんでそんなに目を逸らさずに居てくれるのか。

 骨の浮いた体なんて、誰がそんな。

「綾音様ですよね」

「そうだよ。叶の傷も全部。私は」

 保湿とマッサージをしていく綾音様の手が止まる。

 私からすれば傷に覆われているのが普通だし当たり前で。隠し通すのが日常だった。

 愛してくれているのは目に見えて分かる。

 分かっていてもこんな私が彼女の隣に居ることで苦しめてしまっているんじゃないかと思ってしまう。

「誰よりも君を知っているのは私だから。いいんだよ、なにも気に病まなくて」

 新しいパジャマに着せ替えられ、疲れがどっと襲ってくる。部屋中を歩いただけなのにな。

 一気に遠のいていく意識。

 視界がぐるぐるしていく。

 声ももう頭に入ってこない。

 テストという名のただの惚気に、なにか意味はあったのか。

 きっとどこかに連れて行ってもらうことはない。

 こんな状態で、リスクを冒して負ってまで行けるわけが。馬鹿なことを言ったものだ。

「合格だよ。ちゃんと連れて行ってあげるからさ。今日は疲れたね、おやすみ。いい夢みなね」


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