第六話 交わり
余命一ヶ月。そう言われたけれど全然生きている今。
もしかして一生生きられるのでは?と思わないこともない。
ただ確実に刻一刻と迫ってきているのは事実。
年内生きられたら奇跡なら、それ以上の奇跡を起こしてやろう。
愛しい人が少しでも長く笑ってくれるように。
天井を眺めて過ごす時間の長さに嫌気が差す。寝ても覚めても代わり映えのない毎日。
先生としての時間は退屈する暇もなく動き回っていたのに。忙しなささえ今では恋しい。
すっかり筋力も落ちてしまって。夏よりもない。
生徒にもしどこかで会ったとしても気付いてはもらえないくらいには変わった。
笑うことも泣くことも少なくなった。感情の起伏もなければそれを感じる力もさほど残っていない。
綾音様に贈る最期のものは、寂し気な音色を纏ってくれる。まるで今の心情みたいだ。
これから先の恋人の心情でもある。
もし間に合わなかったら恋人様の元同僚にでも渡しておいてもらおう。頼んでばっかりだな。
「あやね様、だっこ」
「はいはい。甘えたさんだね」
一瞬たりとも目を離したくない、そんな彼女に私はなにができるだろう。もういっそのこと世界が終わってくれたらいいのに。
人の力ではどうすることもできない事柄が起きてくれれば。なんて物騒過ぎることを考えるのもよろしくはない。
ずっと甘えたい。安心できるものが綾音様だけだから。
「どこか行こうか、叶」
行かせてくれるのか。まさか、この綾音様が自分から行かせてくれるとは。
よく外に行けと怒られていたのも遠い昔のこと。今では駄目だとばかり言ってくる。耳にタコができた。できてないけど。
どこに行こう。行きたい場所くらいある気もするが、出てこない。行きたい場所、逝きたい場所?いや違う。
「水族園」
「それはまた随分な。まあいいか、叶のお願いなら」
ふと思い出した景色がある。
いつもより綺麗めなワンピースに三つ編みを施して気合い充分だった初々しい頃。
着せたいものを着せて、着せ替え人形になってくれた綾音様もあの頃は本当に若かったな。いや違う、今も超若い。
あんまり言ってたらしばかれるので強制終了。
十年に一度くらいは行っていた。だからこれで四回目くらいか、愛しい人と行くのは。
ということでレッツゴーです。ああ、楽しみだ。浮足立っている。
楽ちんなワンピースに着替える。
思うように動かない指先のせいでパジャマのボタンを外していくのには苦労する。全部ブチブチと千切ってやりたい。そんなことしたら縫える人が居なくなるから駄目だけど。
久しぶりのデートなんだから指輪もつけよう。デートにはいつも指輪とリングホルダーをつけるのが鉄則。
どちらとも綾音様がくれたもの。大切な思い出が詰まった一級品。
「見てください!」
「おお、分かった分かった。分かったから。一回転するのはやめなさい」
筋力が落ちているだの危ないだの、そんな言い訳よりも一回転して見せるほうが楽しい。
手を借りて家中を歩き回る。行く前からこんなことをしていたら絶対疲れるのに。そんな細かいことはどうでもよくなっている。
窓の向こうはいい天気。涼しいを通り越して肌寒いくらいの季節になった。
カーディガンを羽織って、ブランケットも用意しておく。
「はしゃぐのはいいけど気を付けてね。怪我するよ」
「怪我も上等です」
アホなこと言うな、と一喝を入れられ車椅子に乗せられる。
綾音様が許してくれたのも残りが短いからか。
秋の空気を吸い込みながら見上げる空はどこまでも広かった。
「わー、久しぶりですね。また来れた」
「よかったな来れて。行く相手居ないもんな」
またそういうこと言う。毎度のごとく要らんことを言う。それがうちの綾音様。
一緒に行ってくれるのはうれしいですよもちろん。行く相手が居ないって最初から分かってるなら言わないでくれ。と毎度のごとく思う。
久しぶりの外出。
公園には連れ出してもらっても遠い場所までは行けやしない。
行きたいと駄々をこねても無視を決められることもある。その間にこの人は泣いている。だからなにも言えない。文句を垂らしても、ずっと背を向けてくる。
こういうときに私以外の人間が必要になってくる。
都合よく使っているみたいだけど雪里先生は綾音様の理解人だ。重宝している。お宝。
大きな水槽の中で泳ぐ魚たちのなかに紛れ込む。幻想的で綺麗な世界に吸い込まれていく。
魚みたいに泳げたら楽しかったかもな。私は泳げないまま生涯を終えることになる。生粋のカナヅチだった。
綾音様も案外泳げない人なのがせめてもの救い。分かり合えるというのは心強い。
「魚と魚で食い合ったりしないのかな」
「だから綾音様。ロマンチックな舞台を壊すのやめてください」
毎回のようにこのやり取りをしている。
そんなにお腹空いてるの?今夜は私がなにか作るか。食べさせてやる、嫌がられても。意地でも美味しいもの作ってやるからな、覚えてろ。
ふわふわと漂うくらげ。
ぼーっと見ていると眠くなってくる。
平日の昼間とあって、人はまばらで過ごしやすい。
いつも土日のどっちか、それか祝日だったからな。一度だけ夕方にも行ったことがあったけど眠くて仕方なかった。
ベニクラゲにでもなれば綾音様とずっと一緒に居られるのかな。そんなわけないな。
生まれ変わったらくらげにでもなりたかった、強いて言えばだが。
生まれ変わるとか嫌だし、どうせ人間じゃないなにかに生まれても私は私だ。きっとドジで馬鹿なんだ。
「起きてますか」
えらく静かな恋人。生きてるのか不安になるほどには。後ろに居るのか横に居るのかも分からないくらいには。
「ああ、うん。起きてるよ」
震える声色。動揺を隠しきれていない。
この人こんなに泣き虫だっけ。ついに場所も気にせず泣くようになったらしい。
気持ちは分からんでもない。薄暗くて、人も少ない。
感情が動くには最適な場所。
仕方ない、一肌脱ぐか。
「綾音様、こっち来てください」
袖で顔を拭いながら私の前に立つ彼女を引き寄せる。
やわらかい唇。キスというものは何度しても慣れることがない。
脳がとろけてなくなってしまいそう。ただただ快楽に溺れてしまいそうな、しあわせに溺れて沈んでしまいそうな。
このまま死ねたらいいのに。
最期というのは一体どんなものなんだろう。苦しいのか、痛みから報われるのか。
笑って終わりたい。ありがとう、だけは伝えたい。
「予想の斜め上を行くのがお前だな」
「あなたの生徒であり恋人ですからね」
初めてキスをしたのも、恋人になってからだった。
午前零時を指す時計と覚悟を決めた過去と。先生、恋人になりませんか?!なんていう直球な言葉も。
当たって砕けろの精神は役に立つ。失うものがないときは余計に。
一緒に暮らして三年が経つ頃に失うものがなかったなんてあり得ないけれど。もちろん振られる覚悟の上。
振られたら振られたでいい。この人のことが大好きなことには何の変わりもないし、この人の決断を否定するような真似はしたくない。
優しさというよりは自分の心を守るための考えだった。
優雅という言葉しか見つからない魚の泳ぎを見ながら、綾音様を抱きしめる。
ずっと不安なはずだ。いつ死ぬか分からない人と一緒に暮らすだなんて。私なら耐えられないかもしれない。それが世界で一番愛している人なら余計に。
深呼吸をしながら、言葉を探す。何の言葉をあげられるか。この人を生かすものは一体何だというのか。
「さて、なに見ようか」
「一通りですよ」
全部見るのは疲れるだろ、と咎められたがお構い無し。連れて行かせた。
カクレクマノミに癒やされながら、ペンギンを見ながら。
食えるのかな、とぼそっと呟く彼女に呆れながら過ごす時間は幸せそのものだった。
ああ、ずっと馬鹿げたことを呟いてくれる人であってほしい。
私のために泣いてくれるのなら、自分のために生きていってほしい。
「イルカはすごいですね。私なら芸やれって言われたら反発しますよ」
「そうだろうな。やってられるか!って飛び出していく姿が想像できる」
ディスられたような気もするが、それは事実なのでまあいい。
いくらご褒美をもらっても、私はきっと家出するだろうな。
がんばる度に綾音様がもらえます、って言うなら考えなくもない。いや怖いな、そんなに綾音様がずらーって並んでいたらと思うとおぞましい。
酷い言いようだ、勝手に想像しておきながら。
空中にあれほど飛べて、泳げて、愛されるなら。来世はイルカでもいいかもしれない。溺れて死んだら笑えないけど。
「一通り回ったけどどう?疲れたでしょ」
「疲れてなんかないです。海、連れて行ってください」
わがままばかりを、と愚痴をこぼして考え込む彼女様。
どうせ死ぬんだからわがままばっかり言わせろ。言いたいお年頃なんだ。
海はある意味、思い出の地でもある。
私が教師になって三年が経ったくらいだっただろうか。
嫌な予感がして急いで学校を飛び出した記憶がある。
嫌な予感というのは案外当たるもの。
綾音様もそうやって私を見つけ出してくれたのかな。この人にはチートアイテムがあったけれど。
ずっと家に居ると息が詰まるからよく海に行ってぼんやりしているんだと、遠い過去に聞いていた。
なにも考えず、囚われず。無意味に海風を浴びるのが好きなんだと。
二回くらい綾音様と行った海を目指して電車に揺られた。
死なれたら困る。私を置いていくとかありえない。今瀬先生が、綾音様が。大切な人がひとりで居なくなるなんてそんなの。
勘違いだったならそれでいい。家に帰ってどこに行っていたんだと怒られるほうがいい。
ひとりで抱え込んで潰れてしまうよりよっぽど。
砂浜に足を取られながら見つけた愛しい人の背中は小さくて寂しそうで。どう声をかけたらいいのか分からなくなった。
「海と空は交わらない」
無理を言って連れてきてもらった海の前。
無意識に呟いていた言葉。
車椅子を砂浜の向こうに置き、転けそうになりながら自力でさざなみの立つ場所まで歩いた。
隣を見てみると怪訝な顔をする人が目に入った。
こういう種の言葉は嫌いらしい、ずっと。それもそのはず。
ずっと死を追い求めてきた人間が変なことを言えばそういう意味合いに取られてしまう。
言葉選びには気を付けても、つい。口を滑らせるのだけは得意だ。
「海には空が映る」
懐かしい返答に思いを焦がす。
飛び出しても見つけてくれる。そんな優しいこの人に甘えてばかりいて、私は。
「君はたくさん家から飛び出して行ったけどさ。……居場所にはなれなかった?」
心が揺らぐ。
この海のもっと深いところまで沈んでいくようだ。
そんなはずはない。わけがない。
だって今瀬先生のおかげで学校に行けたんだ。綾音様のおかげで衣食住も立て直すことができて、幸せを知れたんだ。
私はずっとこの人を苦しめてきた。軽率な行動で何度も傷を負わせていた。
ごめんね。そんな言葉では足りないくらい。ごめんなさい。
「そんなわけないじゃないですか。あなたのおかげで、学校に行けて。努力を覚えて。愛というものを知って。ごめんなさい、言葉がまとまらない」
溢れ出す涙が頬を伝って顎へと流れる。
羽織ったカーディガンさえ湿らしていく。
分かっていた。知っていた。だから私はあのとき、この人の前から身を引こうとした。連絡先だって悩んだ挙げ句に書かなかった。
なのにばったり夜道で再会してしまって。あんな馬鹿げた言葉を浴びせてしまって。
もう終わった、本当に終わったと思った。
先生相手に恋だなんて。伝えるつもりなんてなかったのに。
絶対に引かれた、駄目だって言ってくれる。立場を分からせてくれる。一秒の間に何度も色々な感情が交錯していたのを思い出す。
立場を分からせてくれるどころか、変えてくれてしまった。
親代わりなら一緒に居たっていいじゃん、と。
「居場所がないなら私は帰るところなんてない。連れ戻してくれる人なんて居ない。綾音様が居なかったら私は、私は」
日の暮れた海辺。冷たい海風が体を包む。
それに覆いかぶさるようにして抱きしめてくれるのは紛れもなく私の大切な人。
居場所になってくれた、作ってくれたのはこの人だ。
唯一の生きる意味。理由。希望。
嘘を真実にする人じゃなかったから。信用できて、信頼できた。好きになれた。
大好きと伝えても、私が居なければ意味をなさない。
「ごめん、叶。居場所になれたならよかった。分かったから、ごめんね」
「謝るのは私の方です。ごめんなさい。ずっとあなたを苦しめてきた。狭い世界に閉じ込めてた」
涙とともにこぼれる言葉。
綾音様を人生のなかで一番大切なものにすることで自分を保っていた。
この人を抜いたら全部ばらばらになってしまう。心も骨さえも。
なにを積み上げてきていたとしても、全てジェンガのように崩れ去ってしまう。
ごめんなさいと何度呟いても過ちが消えるわけではない。贖罪にはならない。ただ自分のため。
「いいよ、もう。泣かないでよ。元気になってまた飛び出しな。絶対連れ戻すから」
元気になっても私は飛び出す運命なのか。
もうそれが私という人間なのか。
腕をほどいて、顔を見合わせる。
潮騒がこびりつくようにして耳に入っていく。
ずっと好きだよ、綾音様。
単純な恋でもなく、愛でもない。
私達にだけ分かるなにかがそこにある気がした。
「楽しかったです。またどこか行きましょうね」
「楽しかったならよかったよ。久しぶりだったもんね、遠出するのも」
次は保証できないけどな、と無理をした元気な声で言われた。
保証なら私がする。一生元気でいる。だから色んなところに連れ回してやる。
なんて思っても、綾音様の言う通り保証はできない。
誰が大丈夫だと証明してくれるだろう。してくれたらそれを鵜呑みにして連れ回すのに。
「ほら、おみやげ」
そう手渡された大きな袋。
袋越しにも分かるやわらかいなにか。
開いてみるとイルカの形をしたクッションが顔を出した。
「かわいい。ずっと見てたから買ってくれたんですか」
「そうかもね。これで一人で寝てても寂しいのはマシでしょ」
気遣いの塊に思わず頬が緩む。
ふわふわしていてもちもちしているイルカ。
なにかが足りない。一人で寝るにはほんの少し寂しさが残る。
「な、なに」
口元を手で覆い隠し、動揺を抑えることもなく目を見開く彼女。
イルカとキスをしてもらった。不同意わいせつですごめんなさい。
でもこれでいつでも綾音様を感じることができる。これで足りた。
「お風呂沸かしてくるからいい子にしてな」
「子どもじゃないんですけど」
お前はいつまで経っても子どもだと言われてしまった。
そうか?随分大人になれたと思うんだが。
親代わりが抜けきってないのか、未だ昔の生徒に見えているのか。子どもに見えるフィルターでもかかっているんじゃないか。
ぶつくさと文句を呟きながら今日撮った写真を見返す。
もちろん今日も行く前から撮っていた。綾音様を。あんな写真やこんな写真も。
肩を並べて歩けたらもっと撮れるんだけどな。その分貴重な一枚になってくれると思っておく。
水槽を静かに見つめる姿。指を差してあれ綺麗と教えてくれる愛しい姿。
疲れてないか確認してくれる姿はなぜか録画で録れていた。ホームビデオにでもするか。
これもまた印刷でもしよう。雪里先生にでも頼んで。
便利屋の感覚で考えてしまっているがそれなりの報酬は渡す予定だ。とびっきり儚い姿の写真をあげよう。
「またこんなに撮ってたのか。好きだな、ほんと」
「あなたには言われたくないです。今後の思い出にってどれだけ撮ったと思ってるんですか」
いつでも見返せるようにしないとと張り切って写真を撮って動画をまわしてきたこの人に言われる筋合いはない。
私が死んでも、この人の中にはちゃんと思い出が残る。生きている、この人が思い出してくれる限り。
なのに!気持ちは分かるけど。私なんて墓に写真なんて持っていけないのに撮りまくってるけど。
しょうもない争いはここらで終わりにしておこう。キリがなくなってしまう。
お風呂に浸かりながら今日を振り返る。
こんなに楽しめたのも久しぶりだ。このなんとも言えない高揚と幸せが一番の至福。
お風呂といえばそうだ、今瀬先生が初めてうちに来たときのお風呂事件。
ん?先生が入った後のお風呂?と思ったアホンダラな私はなぜか恥ずかしすぎて頭がパンクしそうになった。
潔癖とかじゃない。何ならお風呂のお湯飲みたかった。流石に飲まなかったし飲んだことはない。流石に変態すぎる。
そんな馬鹿げた天使と悪魔の戦い変態バージョンを一人で繰り広げていた思い出。これは墓まで持っていくか。
「久しぶりに叶のご飯食べれてよかったよ」
「ご飯って言ってもお鍋ですよ」
「美味しかった。お鍋も立派な料理だからね」
こんなに純粋に美味しかったと伝えてくれる人なのに、私は。私という愚か者はお風呂の残り湯を飲みたいと思っていただなんて。合わせる顔もない。
帰った後、綾音様の心配を振り切り鍋を作った。
野菜を切るくらいできる。やっていないうちに不器用になっていたり力が入らなくて包丁を墜落させたりもしたが。あと震えすぎて話にならなかったり。
包丁の落下事件は今までもよく起きていた。月に一回くらいは。
寒い時期の料理はお鍋に頼ることが多かった。
なにも考えずに野菜やら肉やら、たまに魚をぶち込めば栄養満点の食事になってくれる。
家事に勉強にと追われていた学生時代から職員室に缶詰状態になっていたときまで、そして今もお世話になっている。
献立を考えるのを放棄したかったからという理由が半分の割合を占めているのは内緒。
なので鍋の登場率は高かった。嫌な顔せず、飽きもせず食べてくれた綾音様はやっぱ神だ。
「綾音様はいつも美味しいって言ってくれるから。うれしいんです、だからがんばれる」
「本当のこと言ってるだけだよ。叶も私のめちゃくちゃな料理美味しいって言ってくれるの、ありがたくって。うれしいもんなんだね」
どこがめちゃくちゃだと言うんだ。
短期間でここまで上達させてきたのに謙遜するなんて、逆に私の恋人に失礼なんですが。
もっと自分を褒めて讃えてくれ。トロフィーでもあげたいくらい。
お風呂に入ってもどこでもいつでも綾音様がついてくる。
死なれたら困るというよりただ一緒に居たいだけだよね。
いいんだけどね。自力で洗うのも腕が震えて仕方ないし自力で立てば簡単に転んでしまう。
風呂場で転んだら危ないどころの話じゃなくなる。
どこまでも頼ってばかりで申し訳ない気持ちが募りに募る。これもある意味試練だ。
「コーヒーでも淹れますよ」
「火傷しそうで怖いな」
お風呂上がりにコーヒーでも、と思ったがお湯の管理が怖いと注意の視線にさらされる。
パジャマに着替えて寝る体制抜群。なのにコーヒーを淹れようとする変な人。
秋の夜はまだ長いんだ。ゆっくりしよう。
喫茶店の元バイトの自分。
マスターに色々教わりながらコーヒーも一応美味しく淹れられるようになった。
そんなマスターも今は。
死によって別れるしか道はないのかもしれない。それでも、その分思い出を大切にすることができる。
教わったものを、もらったものを大切にしてまた誰かに伝えることができる。
道はこれからも続いていく。必ず。
「一緒に持ってください」
「お安い御用」
お湯の入ったドリップケトルを一人で持つには確かに怖いどころか重くて持てやしなかった。
両手で持ち上げることもできなければひっくり返して綾音様を巻き込んでしまう可能性さえある。
二人で持つのもなにか危ない気がするが、気の所為ということで。
「なんかこうやって過ごすのもいいですね」
そうだな、と後ろから声がかかる。
一緒に持ってと言った自分が悪い。後ろに綾音様が居るという独特の緊張感と幸福に打ちひしがれる。多幸感とはこのこと。
気を抜いたら手を滑らせそうだ。いくら一緒に持ってもらっていると言っても危ないものは危ない。
じゃあ最初からやるなという話なんだけど。
「はー、心臓バクバクです」
「なんでそんなに。私ちゃんと持ってたよ、離したって落としはしなかったし」
そういう問題もあるけど違うんですよ綾音様。
後ろにあなたが居るということ自体が緊張なんですよ。好きな人が目の前にいるというだけでも悶絶できるのに。背後なんて、そんな。
「ん、おいし。久しぶりに飲んだ、叶の」
「それはよかったです。ご要望とあらばどれだけでも」
「大丈夫。そんなに飲んだら寝れなくなるから」
リビングで過ごす静かな秋。
イルカさんを抱いてソファに座る。隣には綾音様。コーヒーを飲む姿さえ様になる。
夜が明けなければ、時が止まってくれたら。
この命も永遠なのだろうか。




