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先生、叶えてくれませんか?!  作者: 雨宮雨霧


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第四話 笑ってて

 今日も今日とて通院日和。

 天気が悪かろうと暑かろうと関係無しに通院だ。

 リハビリももちろん、一通りの検査もあったりなかったり。

 病院嫌いがなんでこんなにも通院しないといけないのか。

 行かなくていいなら行かないし。綾音様が居なければもっと行くことはなかったし。

 これも運命なんだと腹をくくるしか方法はない。

「行かなくてもいいですか。どうせ死ぬのに」

「死なないために行くんだよ」

 テキパキと準備を進めていく綾音様を横目にうなだれる自分。

 荷物もどうしても多くなる。色々な想定の上で用意をしなければならない。

 入院になったらーだとか。行く途中でなにかあったらーとか。

 心配症過ぎて綾音様が死んじゃうんじゃないかくらいのレベルの人。大丈夫だと思うんだけどな。

 今までなら手ぶらで家を飛び出すところなのにな。できないことはないけどそんなことをすれば四方八方からブーイングの嵐を浴びることになる。

 刺激というものもこれといってない日々。ネットを見るのも体力がいることに気付いた。

 検索履歴をよく探られて叱られていた昔が懐かしい。この人は本当にずっと私のことを見てくれている。

 管理されているのか監視されているのか。

 恋愛とかそういうものに普通という概念すら持っていないような二人のせいでなにが普通なのかも分からない。

 大人としての普通はわきまえているが。二人きりの家は無法地帯も同然になっている。

 狭い家にペットカメラがこれでもかというほどに仕掛けられてあるのが高校生のときの当たり前だったし。本当に死角という死角を潰すように置かれていた。

 暇になるとそのカメラに向かって手を振ってみたり手でハートを作ってみたりしたものだ。

 若さ故の無敵。若いというだけでそれは財産になる。

 たまにカメラとにらめっこの耐久戦を繰り広げたりもした。意味のない時間が一番楽しい。


 椅子に座ってテーブルに顔を突っ伏していると痛みがじわじわと広がってきた。

 痛いのが好きな人なんて居ないとは思うけど私だって嫌いだ。

 体の内側が痛いのと外側が痛いのとではわけが違う。痛いというだけで体力も心も蝕まれていく。

 バレないように息を殺す。こんなの絶対病院送りじゃないか。

 椅子から転げ落ちて悶える。痛い。息を殺しても強くなっていく。

「どうした、痛い?大丈夫だから。ゆっくり息して」

 遠くなっていく意識が気持ち悪い。目を閉じれば死んでしまうような、そんな感覚。

 適温に調節された部屋の中に居ても凍えるように寒い。

 床からソファに移され、視界をアイマスクで塞がれる。

 視界からの情報量さえしんどい。

 暗闇に閉ざされた世界で苦しむのももう懲り懲りだけど。

 それでも生きていたいし、仕方もない。死とどれだけ向き合おうと怖いものは怖いまま。

 さすられながら思い出す。

 綾音様の声を、数多くある思い出を。

 気を紛らわせるのもしんどい。しないともっと苦しい。


 脳は酸素を求め、身体もそれに応じる。混濁する意識の中、脳裏に誰かの姿が過った。

「叶が誰かの願いを叶えてあげられるようになりな。そうすれば叶の願いも叶うから」

 思い出してもこなかった実母の姿。

 記憶の一番最初にある母はまだ優しかった。いつから変わってしまったんだろう。

 お前なんか居なければなんて。お前さえ死んでくれればなんて。

 母の願いはいつもそれだった。叶えることはできなかった。

 髪を掴まれても壁に叩きつけられても、私は母が帰ってこなくなるまで好きだった。すがりついていた。好きだから。だったから。

 純粋な言葉でさえも呆気なくバラバラに砕かれてしまった。

 泣きながら謝って、へつらいの笑みを見せ。キモがられるのもそりゃそうで。

 子どもというのはいつまでもかわいいと言う。私からすればそうだ。

 皆が皆同じ意見を持っているとは限らない。母も父も向こう側の人だった。

 完全に消し去った記憶が蘇る。

 寒い冬の日に見たイルミネーション。木々が宝石のようで見入っていた小さい命。

 そんなのどうでもいいからと家にさっさと引き戻されて泣き喚いた。

 もちろんそんな態度が気に入るはずもない。聖なる夜は床に転がったまま過ごした。

 お母さんなんていう単語を最後口にしたのはいつだったか。

 追い出されて夜の公園で一人遊んだときも、ずっとお母さんと口にしていた。

 抱きしめてあげても癒えない傷。遠い過去でもその記憶は鮮明に思い出せてしまうものなんだな。


 重たいまぶたを開けると、今では見慣れてしまった天井が見えた。

 点滴の冷たさを感じる。痛みはどこかに消え去った。最初から痛みなんてなかったかのように。

「叶、検査も終わったよ。あとはリハビリだね」

 疲れ切った顔に優しい笑みを浮かべる綾音様。

 ずっとお母さん、と呟いていたのだと教えられた。

 変な夢を見たせいだろうか。

 綾音様も一度は出くわしたことのある母親。生活費を手渡されて足早に立ち去られたことがあるレアな人。

 お母さんなんて私の口から聞いたこともなかったこの人はよからぬ想像に頭を悩ませたらしい。

 どんな仕打ちをしてきたのか、体を見れば分かる話。

 それでもすがるように言っていたものだから一体全体どんなものをその体で見てきたんだって思って。泣いてもいたんだからと聞いた。

 痛み止めを打たれるまで永遠と呟いていたなんて自分でも信じたくもないが。

 それ以上に綾音様は辛かっただろう。親代わりでもある人だから。

 私は綾音様をお母さんなんて言ったこともないし言おうとも思わなかった。

 恋人になりたかったしそんな選択肢はない!誰が恋人にお母さんなんて言うんだ。

 先生に間違えて言うっていうんなら分かるけど。実際に言われたこともあったけど。本当に言う子居るんだなあ、としみじみした記憶。

 代わりなんてないんだと思わせたのは確かっぽい。ごめんね綾音様。

 世界で一番美しいのも優しいのもかわいいのも全部全部あなただからね。

 いくら声をかけても沈痛な面持ちは変わってくれない恋人様。そんなにショックだったのかなんなのか。

 考えているうちにリハビリに連れて行かれた。


「話すくらいの体力残ってる?」

「残ってるもなにも。綾音様と話せるなら三日三晩続けてでも大歓迎ですよ」

 そうか、と無理に作った笑顔とも言えない表情を向けられ、視線を床に下ろされる。

 家に帰ってからもずっとこんな調子だ。

 私を見るなり目を離される。背を向けられる。蹲られる。

 この人のほうが調子悪いんじゃないか。

 深呼吸をして、意を決した様子。

 一体なにを言われるのか。

 別れ話くらいならどんとこいだし介護に疲れたならごめんなさいだし。絶対どれも違いそうだけども。

「年内、って言ってたけど。一ヶ月持ったらいいほうだって。年内持ったらそれは奇跡だって。それで、それで……」

 服を捕まれ引き寄せられた。これでもかというくらいに強い力で抱きしめられる。

 それを先に、一人で聞いていたからこんな調子だったのか。そうか、そうだよな。

 私からすれば恩師であり憧れであり。親代わりでもあって恋人で。

 綾音様にとって私は生徒で、親代わりの期間が短いとはいえ実の子どものようで。恋人で。

 元生徒を看取るとかいう最悪なシチュエーション。なにそれ普通はないからね。ありえない。

 何気に複雑な関係性でだからこその想いがある。

 三十年前の私を知ってくれている人。私も知っている三十年前の今瀬先生。

 そんな簡単に死を受け入れられるはずもない。

 なんせこの人は結構弱い。人が思っている以上に繊細で脆い。まるでガラス玉だ。

 今は十月の始め。あと一ヶ月と言われてもそんなにあるんだ?という感じ。

 年内という指標はあまりにも曖昧だ。明日かもしれないし年末かもしれない。

 死期が近付いてくるのは生きているということだから。別にいいとも思う。なにがいいのかは分からないけど。

 肩が冷たい。泣いている。湖でもつくれてしまいそうな総量。

「泣かないでよー、ねえ。大丈夫ですよ、まだまだ生きれます」

 声色を明るくして慰めてみる。

 効果はイマイチ。何なら肩をバシバシ叩かれている。なんでだよ。

「生意気だな、お前は。先に死ぬとか許すわけないから。恋人になりませんかなんて言った大馬鹿者」

 罵倒に罵倒を重ねられる。

 大馬鹿者なのは認めてやろう。許さないのも当たり前のことと捉えてやろう。

 でも綾音様だって、今瀬先生だって馬鹿だ。こんなへんてこな一生徒に言い寄られてそれを承諾してしまうんだから。

「あなたもですよ。死ぬとか許しませんから。後追いとか絶対に許しませんから。殺しますよそんな真似を起こすなら」

 豆鉄砲を食らったような顔を向け、内心からこぼれた笑みが目に映った。

「自分の意見を言えるようになったな、早瀬。後追いして殺されるとか、結構嫌だよ」

 やっと伝えることができた。後追いは許さない。

 直接言うのはまだ早いか、と口をつぐんでいた。そしてできれば言いたくなかった。

 ただもう本当に終わりが見えてきてしまった。

 まだ動けるし話せる。生物として在れている。

 日に日にできなくなっていく事柄。ついに死ぬんだな。

 あれほどまでに望んでいたはずの死。死が希望だった。願いだった。あの日までは。

「……私、思うんです。先生と自分だけが知っている思い出。歴史にもならなければ残りもしない。今瀬先生の、先生としての時間に。先生以前に、一人の人として一緒に居られたこと。ありがたいなって。綾音様と過ごした時間も全部。大事な宝物です」

「私も思うよ。早瀬との時間だけでは見えなかった君の姿。叶はいつも真っすぐで、努力家で。危ないこともいっぱいしてたね、でもどれかが欠けたら意味がない。人生じゃない。ありがたいよ、君と生きた人生は」

 ソファに腰をかけたまま合わせる唇。

 今だからこそ思える。人生は確かに、私が思っていた以上に絶大な力を持っている。

 誰かを生かす力も、愛し合うという結びつきも。どれもこれも抜け落ちてしまえばひとつの物語にはならない。人生にはなってくれない。

 馬鹿な言葉から始まった物語。それ以上前から始まっていた人生。

 母と父を許すことはできないし、それに付随してきた者たちも許してはいない。

 無駄ではなかったんだと思えるのが最後の喜び。凄惨ではあったものの、私を構成してくれたものたちだ。

「濁して濁されてきたから全然聞けずじまいになりそうだな。教えて、どんな夢を見てたのか。なにを見てきたのか」

 毛布に二人で包まって流れる夜。

 あと何回こうして話せるかも分からない。生きていたとしても話せる状態ではなくなるかもしれない。

 明日生きているかどうかも分からない。今日寝たらもう目が覚めないかもしれない。

 ずっと隠してきたこと。胸に秘めてきたこと。多少は話してきたつもりだが、全てではない。

 知りたがってくれているんだから話すべきなんだろう。

 大抵は嫌がられる話だけど。信用も信頼も綾音様だけなら、この人だけには。

「私もあまり覚えてるっていうわけではないんです。ほとんど一人だった記憶が残っているだけで」

 目を閉じて回想する。

 思い出してこなかったのは、思い出したくなかったから。

 綾音様との思い出はメリーゴーランドのように回し続けていたいくらいなのに。

 あまりの人生の落差に耳鳴りがする。

 きっとこの人にとっても辛い話になってしまう。苦しめるかもしれない。

 何度も言われてきた。その苦しみを一人で抱えなくていいんだよって。

「父はずっと怖かった。いつも怖い顔してる。記憶にあるのはそんな顔。酒瓶で殴られたときは流血でしたよ、手にドロってついたときは流石に」

 震える身体を抱きしめてくれる綾音様でさえ小刻みに震えている。だから嫌だったんだ。苦しめてしまうから。

 かき混ぜられていく心の奥深く。仕舞い込んでいた記憶が大波を立てて襲ってくる。

「母は、物心がつくまで優しかった。でも父があんなだったからなのか、段々同じようになってきて。でも好きだった。好きだったんです」

 息の仕方が分からない。心の痛みは痛み止めでは取れない。

 空気を吸っても吸えない。干上がった海の上で魚が息もできずにピチピチとはねているような。

 家庭を知らないからこそ綾音様のご両親に優しくされてびっくりした。

 最初は同性同士なんて、と追い出されてしまった。気の迷いだとも言われた。それは私が悪かった。付き合ってます!なんて普通に言ってしまったから。

 何年か経って、綾音様の元に連絡が来た。

 話がしたい、と。

 嫌がる綾音様を連行して家に伺った。いつ見てもでっかい家。

 そこからはトントン拍子で話が進んで、気付けばなかよくなれた。綾音様はすごく嫌そうだった。

 いつも一人で物事を完結させてしまうから、と心配されていたことも知らない恋人。愛されてるじゃんか、ちゃんと。

「綾音様と暮らすまでの十五年間は長かったです。殴られて追い出されるのは日常茶飯事だし。父と母の喧嘩も絶えなかった。気付いたらお互いに色んな人を家に連れ込んできて。家庭崩壊どころじゃなくて」

 痛みを共有するのは好きじゃない。

 大切な人にそんなものを植えてどうする。

 ずっと抱きしめてくれる綾音様。膝に乗せてもらっているから表情がイマイチ分からない。

 親代わりになってくれた綾音様が、私の本当の親であり恋人だ。それに変わりはない。

「連れ込む頻度も減ってきて、二人とも帰ってこなくなって。完全に一人になって。殴ってくれていいから帰ってきてほしかったな、最初は。食べられる草とか図書館で調べたりして。食べたはいいけど感覚が消えたこともあって。それは結構死んだなって思いましたね」

 まだ幼かったことも相まってお金の使い方もまともに分からなければお金すらなかったりした。

 電気も水道もガスも止まったこともあった。

 色んな場所を歩き回って、公園で寝泊まりすることも度々あった。

 どこかの森に入って草を引っこ抜いて口にしてみた後からはどれが食べられる草なのか考えて抜くようになった。

 仄暗い森の中で幼子が一人倒れるというのはまあ可哀想な話だ。自分も悪かったんだ、何でもかんでも食えりゃいいってものじゃない。

 膝に座らせてもらっていたはずが、いつのまにか膝枕の状態になっている。

 このほうが綾音様の顔がよく見える。私のかわいい恋人様。

「お金置かれるようになったのって私が転がり込んだからだったりするの?」

 まるで猫を撫でるように頭を撫でつけてくる綾音様。

 私はいつからにゃんこになったんだろう。しあわせだけど。

「それはあると思いますよ。あとは付随してきた人になんか言われたか?綾音様が居てくれたからっていうのが一番でかそうですが」

 インフラのどれかが止まるのは普通だったしお金がないのも日常だった。

 今瀬先生がうちに住み着いてからは、電気は点くし水も出るし火も出るという最強の空間が出来上がった。

 早瀬の友達だと嘘を吐いた綾音様。友達だろうが教師だろうがうちの親からすればどうでもいい話。

 長い間一緒に居るものだから何かしら察されたのかもしれない。私も途中から家に戻らなくなったし。

 邪魔をしようとはしてこなかった。自分たちになにか不利益なことが降り注ぐほうが嫌だったんだろう、だから私の高校卒業まで家を残してくれた。

「あなたとの時間は本当に思い出せる。ずっと。そういうことですよね、きっと。今瀬先生との時間は全部、自分で在れた。綾音様との時間はこれ以上ない幸せだった」

 願ってきたものが叶わなければいいと、今なら思える。

 この人の幸せを願っている。それが叶ってくれるならなんでもいい。

 今までの人生が無駄ではなかったのなら、それでいい。

 私なんかに優しくするより、自分自身を優しくしてあげたらいいのに。ずっとこの人に対して思ってきた。

 年の差は縮まることはないし、その分綾音様はいろんな景色を見てきている。

 この底なしの優しさも、不器用なところも全部。綾音様が培ってきた人生。

 そこにへんてこりんが迷い込んできて?子犬を拾う感覚で拾ってくれたどこか変な人。

 傷を初めて見せたのは綾音様だった。見られたくないからずっと逃げ回ってきた人生だったのに。

 自分でつくった傷もある。ヒーターを押し付けられてできた火傷の跡もある。

 決して消えることのないものたちを、この人は丸ごと抱きしめてくれた。

 痛みに寄り添い、そして自分の心さえも痛めてくれる。私が好きになったのはどこまでも受け止めてくれる神様だった。

「ごめんね。疲れてるのに、辛いはずなのにこんな話をさせて。叶が私を持ち上げてくれるのは心からそう思ってるからだもんね」

「なかったことにはしたくない、ってあなたがよく言いますから。いいんです。持ち上げてるんじゃなくて本心です。分かってくださいね」

 私が話している間ずっと顔をしかめていた綾音様。

 私の願いとは程遠い表情だった。笑っていてほしいのに。そんな話を聞きたいなんて、自虐趣味でもあるのか。

 自虐趣味があるのは自分のほうか。

 生きている意味なんてなかった自分が唯一見出だせたのが「今瀬先生に会いたいから生きる」だった。

 学校なんか行きたくなかった。家も学校も居場所はなかった。

 いくらか学校のほうがマシだった、でも。

 今瀬先生に初めて話しかけられたときは心臓が頭から突き抜けて出てくるかと思った。

 シワシワの制服を指摘されたのが始まりだったせいでしばらくは警戒していた。怒られるのは好きじゃなかった。体罰なんて今どきあるはずないのに。

 厳しそうで優しくもあって。成績には容赦なくて。

 すれ違えば「元気?」と声をかけてくれた先生。挨拶みたいなものだったのかもしれないけど、私からすればそれが救いで楽しみだった。

 私とわざと二人組みを組んでいた結構が問題ある先生。私のためだもんね、ありがとうだよ。

 なんでもよかった。気付いたときには好きになっていた。会いたいから生きていた。死んだら会えないから。

 中学を卒業した日にはもう死んでやろうと思っていたものだ。生きる意味がなくなってしまったから。

 生きていたらまた逢えるかもしれない。よく行っていた屋上に寝転がりながら思い込んで刷り込んだ。

 本当に会えた。綾音様と呼び慣れるのには時間はかかった。

 生きていてよかったと、この人のおかげで思えた。

「先生呼びやめてって言ってくれたのってなんでだったんですか」

 今ではプログラムされたロボットのように綾音様とか大好きとか言いまくっている。

 叶と呼ばれるのも慣れたものだ。たまにびっくりして昇天しそうになるけど。

「なにも考えずに、その。家くらい先生やめたいし。でもなんて呼ばれるかなんて考えてなくて、叶って呼ぶとか思ってなくて。言った後で混乱したよ」

 家くらいって言ってるけど先生の家じゃなかったからね一応。私の、元生徒の家だからね。

 いつから先生の家になってたんだか。結構初期の段階で好いてくれただろ絶対。

「叶って呼ぶの緊張したな。当たり前に生徒を名前で呼ぶとかないしさ。特別な子だよ、君は」

「私もです。綾音様がしっくりきます。先生、恋人になりませんか」

 なに言ってんだと笑われた。

 何百回、何千回と言ってきた言葉。突拍子に出たこの言葉で紡がれてきた物語。

 作り笑いも先生の前でならしなくて済んだ。する必要もなかった。ひと目見ることができるだけで幸せだった。

 叶と呼ばれたのは本当に久しぶりのことだったし、恥ずかしさもあった。それ以上に好きが溢れた。

「色々私のためにしてくれたの、感謝してます。コスモスも綺麗ですね」

「喜んでくれるから、ついね」

 私のために色々なものを持ち帰ってくれた綾音様。ミニトマトにひまわりに。果てはクリスマスツリーまで。

 互いに多忙を極めるようになってから植物を育てる余裕もなくなった。

 どれもこれも病に倒れたおかげで。そんなことを言っていいのか分からないが。綾音様はまた色々持ち帰ってくるようになった。

 今はコスモスが植えられている。夏は朝顔。切ったあじさいも少しの間飾られていた。

 入院している間も色んな花をくれた。私のために選んでくれたということが何より嬉しくて。幸せで。

 これからはなんだろう。いや、あと一ヶ月とか言うなら。自分的には一ヶ月以上は生き延びれると思う。まだ死ぬわけにはいかないし。

 綾音様の誕生日までは生きたい。生きないといけない。絶対に。

「桜、また見たいな。梅の花も。菜の花も。命の芽吹く季節に」

「見よう。見ようよ、一緒に。叶が見たい景色は私も見る」

 濡れた肩の冷たさも、寄り掛かってくれる彼女のぬくもりも全部独り占めだ。

 泣いては泣いて、もうそれは大変な綾音様をなだめるのも愛しくて楽しくて幸せで。

 笑っていれば元気になれるとどこかで聞いた。それならずっと笑っていよう、この人のためにも。


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