第三話 切り捨てた過去
暑さの続く日々。
秋は存在しないのか、と思うほど。
日も次第に短くなっていく。そこだけは変わらず秋らしい。
衰え方が酷くなっていくのも最近の日常だ。
綾音様が居ないうちに文章に直しておいた下書きを便箋に写していく。
震える右手を左手で押さえつけながらゆっくり書きすすめる。
ああ、普通の生活ができていたのは幸せなことだったんだな。
起き上がれる時間も短くなった。歩くことも少なくなった。
歩けばドジにも程があるほど転んでしまう。
ただでさえ身体が脆くなっているというのに。綾音様の介抱なしではどうしようもない。
玄関のドアが開く音が耳に入った。
慌てて便箋と下書きをベッド横の引き出しに隠す。
「叶、どうした。そんな顔して」
なんとか隠せた。
あとは自分の過ちで書いているものがバレないようにしないといけない。
そんな顔、つまりなにかを隠している表情を打ち消す。消せているだろうか。
いくら鈍い人相手とはいえバレないとは限らない。
「なにもないですよ。綾音様だーって思って」
「なんだそれ。まあいいや。ほら、土産」
詮索することもない綾音様。とりあえず一安心。
ひとつ忘れていたことがある。新しいペットカメラがこの寝室には置かれていたんだった。
ベッドの上でも作業ができるようにと綾音様が買ってくれたテーブル。
それと同時に現れた新しいペットカメラ。
なにか作業してるんだなくらいに思ってくれていればいいけど、どうだろう。
というか私はペットなのか?そうなのか。
長年と監視カメラ兼ペットカメラが作動している部屋で過ごしてきたせいで感覚が麻痺していた。
いやおかしいな?私も私で順応するな。なんでしていた。
自問自答に溺れながら、差し出された紙袋を開く。
「あれ、これって」
ニッコニコの笑みを見せる綾音様。
紙袋に入っていたのはまさかのフリスビーだった。
何年も前に掃除がてら捨てられてしまったフリスビー、復活。
ただ懸念がある。私は既にこんなのだし、これをどうするのか。
「激しい運動は避けろって言われてるけど多少は動かないとね。早死にしちゃうから」
「え、ここでやる気ですか」
「別にそれでもいいけど公園でもいいよ。涼しい時間帯になってからなら」
謎の二択の選択肢を与えられ、頭を悩ませる。
何十年も前から変わらない。選択肢に頭を悩ませる時間。
優しい今瀬先生は選択を待ってくれた。優しい綾音様は抱きついてくる。いやなんで?
大体答えられずにしょげる自分。そして綾音様がなだめてくれる。
否定も肯定もしない人。死ぬのだけは否定してくれる人。優しい人。
「外行きたいです。ひまわりも終わってしまったけど。なにか咲いてるかも」
「分かった。じゃあ少しは寝ておきな、体力温存だよ」
珍しく選べた。
いつも頭の中がぐるぐるしてああでもないこうでもないとなってしまう。
どれを選んでも不正解なんてないはずなのに。
どれもこれも幼い頃に受けてきたせいだろうか。どうしても正しいものを選ぼうとする。
目を閉じ、羊を無心で数える。
五匹数えた辺りで次は何匹だったか分からなくなる。頭が悪い。
「だからなんでお前はいつもそうなんだ!」
仄暗い家。埃の匂いに混じる血の匂い。
飛び交う怒号と飛んでくる拳。みぞおちに入った一発の蹴り。
ごめんなさいと繰り返し呟いてはまた顔面に拳が入る。
それでもなぜか笑っているのはなんでだろう。
なんで生きているんだろう。なんで要らない人間がまだ息をしているんだろう。なんで……。
「……なえ、叶」
「あれ、先生」
目を開けると先生の姿が映った。
ここは一体。
家だと認識するのに時間がかかった。
綾音様との家。
寝室。
そうか、あれは夢だったんだ。そうだ。もうあんな痣だらけになることはないんだ。
抱きしめたまま綾音様は話す。
「急にうなされ始めるから何事かと思ったよ、叫んだと思えば電池が切れたみたいに動かなくなるし」
何十分と抱きしめては声をかけてくれていたらしい。
何度名前を呼んでも大丈夫だと背中をさすっても起きてくれないから、と涙目で言われた。
久しぶりにあんな夢を見た。あんなにリアルで痛みさえあの頃そっくりに感じたのは初めてだ。
まだ身体が疼くように痛む。
夢だと認識できなかった。夢だと分かるものは分かるのに。
綾音様に助けを求めることもなかった。綾音様の存在を知らないあの頃の自分。
一生徒でしかなかったあの日の。生徒でもなかったあの日々の。
背中をなでられ、呼吸が落ち着くまで考える。
なんであんな夢を見たのか。もう忘れた、塗り替えてきたはずなのに。
忘れられるはずもない。あるわけがない。
全身に残っている傷が鏡に映るたびに思い出す。
ふとした拍子に思い出す。なにが引き金になっていたのかも分からない。
雷の音も風が吹き荒れる音も苦手なのはこういうことだ。
嫌でも思い出してしまうから。
「夢を、見ました。背中もお腹も、顔も蹴られて……。首を掴まれて叩きつけられる」
向き直り、再び抱きしめられる。
はっとしたような表情を私は見た。
すぐに目を逸らされたけれど。その一瞬が脳裏に焼き付く。
一度、綾音様はペットカメラ越しに見たことがある。私が殴られる姿を。
なにを思っていたんだろう、この人は。
あの日は帰った後、すぐに手当てをしてもらった。いつも放置するだけだった自分。あの日だけは違った。
よく覚えている。思い出す。笑ってみせてみても綾音様はぴくりとも口角を上げなかった。
鋭い視線で、真顔で。なにかをこらえるようなあの表情は。
未だに冷房が稼働している部屋。
毛布を肩にかけてもらっても震えは止まらない。心臓は跳ね上がったまま。
「大丈夫。大丈夫だよ。叶はここにちゃんと居る。なにも怖くない、そんなことをする人なんて居ない。私が居る。だから大丈夫」
怖かったね、と何度も繰り返し言ってはごめんねと言われた。
綾音様が謝ることなんてなにもない。ないんだよ。
こんな私のそばにずっと居てくれた。親代わりになってくれた。守ってくれたのは紛れもなくあなたなんだよ。
もう一度眠りにつき、今度は何の夢をみることもなかった。
ずっとつきっきりで隣に居てくれた綾音様。うとうとしながら見守ってくれた。
「どうする?今日はやめておこうか」
「行きたいです。思い出増やせば、うなされないかもしれないし」
でも、とひたすら制止してくる過保護な人の意見をシャットアウトする。
本調子じゃないんだし、とも言われたがそんなことを言っていたら二度と外なんて行けない。
今日は心も体も体力も使ったでしょ、と言われたが二度目の正直で寝られたから大丈夫。
自分の体は無敵だと半分思っている。そこが私のいけないところでもある。自分への過信のせいで実際に倒れたんだ。
なんとか言いくるめて外に出ることができた。
車椅子は同伴どころかなしでは出歩くことが難しくなった。
というのも夏の暑さからなのか、病気のせいなのか全く食事というものを摂れなくなって病院送り。
数値は悪化を辿る一方なのは分かりきっていることなのに念の為一週間入院しろと言われてこの有り様だ。
一週間どころじゃなかった。それなのに外はまだ夏の暑さを纏っている。
入院生活でも人の目を盗んでコンビニまで行ったり中庭に行ったりして色んな人に怒られた。
昼間なら許容でも夜となると話が変わる。抜け出すクセは抜けなかった。いい大人なのに。
入院している子どもたちに勉強を教えていればまだなんとかなったけど。
リハビリだと言い訳をしてもリハビリの時間にしろと言われた。ごもっとも。
屋上は残念ながら入れないし行く元気もなく。随分と長い間、屋上というものに行っていない。
病院のベッドというのはどうも狭くて。抜け出したくなりますよね。
今の家ではベッドを二つ並べているけど、それまでは私のシングルベッドで綾音様と寝ていた。
寝息が間近で聞こえすぎて心臓爆発するかとよく思っていた。
そのおかげもあって狭いのには慣れている。なのに抜き足差し足忍び足をするんですね私は。
なぜかよく綾音様とやっていたフリスビー。
私の運動音痴を考えてなのか選ばれた子だ。
綾音様に当てまくったりあらぬ方向へ飛んでいったりで上達した試しはない。
「久しぶりですね、本当に」
「忙しくてずっとできてなかったからな。叶は休みの日なんてずっと死んだ魚みたいに寝てたし」
仕事に追われていた二十年。仕事以外にやっていたことといえば家事と睡眠。
それでも毎日楽しかった。
公園へ向かいながら雑談を繰り広げる。
「苦しみも辛さも分かってあげられる先生だったね、君は」
「それは言い過ぎですよ。今瀬先生を目指していましたから」
先生みたいな先生になります。雨の降る夜に幼い私は言った。
ずっと憧れだった今瀬先生のような人になりたかった。
他の道を考えてもみたが、やっぱり今瀬先生の背中を追い続けたかった。
テストで零点を連発できるほどにはやる気の欠片もなかった学生時代。
先生みたいな先生になる。その一心で勉学に打ち込んだあの頃の無謀な少女は見事に点数が上がった。
どこかの主人公のようにはなれなくても、綾音様が居てくれるから頑張れた。
頑張れる理由があった。
否定も肯定もしない優しさ。
元気?という一言のなかにある優しさ。
ちゃんと見てくれている人が居るという安心はとてつもなかった。
教師という立場に身を置く中で、今瀬先生はどこにでも居るような先生ではなく今瀬先生だった。
周りに流されない芯があり、自分を見失わない人。
かつて私も自分を見失わない、を目標にした。うまくはいかなかった。
綾音様もそれができたら苦労しないけどな、と苦笑していた。いや綾音様の話ですけどね。
「だから綾音様のおかげなんですよ。いっぱい褒めて伸ばしてくれた」
「中学生のときもそうだったらよかったんだけどな」
笑い飛ばしながら秋の道を行く。
虫の音はどこか寂しさを漂わせていく。
来年も生きているだろうか。無理か。
そうだよな。
あんなに死にたがっていたのに生きたいと思う日が来るなんてな。
「……死なないでね、叶」
「人はいつか死にますよ。泣いても笑っても、同じです」
野原に座り、星空を眺める。
フリスビーを手に持ったままぶんぶんと振り回してみる。
力が入らなければいつもより飛んでいってくれるのかな。
「いつもより飛ばすじゃん」
「天才かもしれません」
綾音様も座ったままフリスビーを飛ばす。
二人でやるだけでドッヂビーと言えるのだろうか。
まあいいや、楽しければなんだって。
この先、私が居なくなったとして。
この人は本当に生きていってくれるんでしょうか。
思い出話をひたすら話すでもいい、なにかに打ち込むでもいい。忘れてくれることはないだろうけど。
綾音様は綾音様の人生を生きていってほしいんですが。
言葉通り二人で暮らして生きてきた。
雪里先生がたまに乱入してくるようになったのは私が成人してからだった。
気を使ってくれていたんだろう、私のために。
知っている人に今瀬先生と一緒に暮らしているなんてバレたと分かれば、学生だった私は卒倒したと思う。
絶対に誰にもバレてはいけなかった恋。
仕舞い込むべきだった恋。
先生、恋人になりませんか。なんて叫んだのがきっかけで完全にバレてしまった。
開き直って恋人に、とひたすらせがむ面倒くさい人間に変身してしまったり。
その甲斐あって今がある。それには感謝する。
雪里先生の気持ちを考えると申し訳なくなる。
一生徒に好きな人を取られるとかあるか。あるわけない。思いもよらないこと。
思い返せばエプロンを一枚で着せられたりもした。これに関しては雪里先生が卒倒してしまう。可哀想な人だ。
今瀬先生がそんな趣味だっただなんてな。別に趣味とか関係なく純粋にやってほしかっただけな綾音様だけど。それはそれで問題か。
「好きでいてくださいね、これからも」
「なに言ってんだ。当たり前でしょ。だから死なないでね」
あまりにも死んでほしくなさすぎる綾音様。
面白い人だな、ほんと。
倒れてから髪を短くした。肩につくくらいまで。今は伸びて髪を結えるくらいになった。
髪のケアなんてもうやってられんので。あと介護には不向きだろうと思い。
あらぬ方向に飛んでいくフリスビーを追いかけている人は当たり前に切るなとうるさかった。
いつまでもあの頃の私じゃないんだよー、分かってるのかな。やっぱロリコンかなこの人どうしよう。
私のことが好きなだけか。
「教師生活はどうだった。私を目指してくれたおバカさん」
「バカじゃないです。そうですねー、大変なことしかなかった気もしますが。成長を見られるっていうのは喜ばしかったな」
出会いと別れの連鎖。
入学当初はまだ幼さの残っていた子も卒業するときには大人へと近付いていて近所のおばさんのような感覚になった。
でもまだ子どもらしさも残っていたり。
作者の考えなんて知らねーよと愚痴っていた子には同情した。そうだよね。私も思う。
生徒と関わることも、大人と関わることも。あんなにできないと思っていたのに随分と人への拒絶反応がマシになった。
歳のせいなのか人生経験のおかげか。
テストの点が上がったと喜ぶ子も、悔しがる子も。まだまだ伸びしろしかない彼らの人生。
学校という場所は私にとって本当は苦手というかなんというか、だった。
居場所を少しでもつくることができたなら。なにか支えにでもなれていたらいいなと思う。おこがましいな。
変な先生だったなと思われているかもしれない。大人の自覚あるのか?とか。
「告白してくれたあの子元気ですかね」
たまに思い出すある少女。
当時はまだ新任だった私に好きだと告白してくれた少女が居た。
少々家庭環境に事情といったらあれだが。あったあの子は誰よりも明るい子だった。
無理をして笑顔を振りまいているときもあった。しんどくてもそれを見せないこともあった。
そんな子に告白されるとは思ってもみなかった。
純粋に伝えてくれた「好き」は未だ胸に残っている。
行き場のない感情を抑えられずに泣きながら、完全下校の後に私の元に走って来たこともあった。
どうしようもないなにかに襲われて蹲ってしまうこともあった。
なにが救いになるかなんて分からないものだ。
今瀬先生がそう思っているように、私もそう思う。
言葉だけでは足りない思い。
何度も好きだと伝えてくれたあの子の弱さも強さも、分かってあげられたわけではない。
「元気で居たらいいね。叶に告白するくらいなら元気で居てもらわないと」
「一人じゃないといいですけど。心から笑えるのは大抵誰かと一緒に居るときですから」
そうだね、と軽く微笑んでトコトコと歩いて隣に座る綾音様。
一人にするのは私の方だ。
綾音様のことを一人にするということは心苦しいっちゃありゃしない。
どうしたら一日でも長く綾音様と居られるだろう。生きられるんだろう。
死という別れ方。
ある意味でらしいっちゃらしい別れ方。
肩にもたれかかり、目を閉じる。
私が入院している間、綾音様は雪里先生の家に転がり込んでいた。
それを聞いたとき、もうびっくりして。寝取られていないことには安心してしまったほど。
どこにでも転がっていく人だということに、この人の知らないところで苦笑いしていた。
決して強くない人。弱いというか、人が一人では生きていけないという現実を一番体を張って教えてくれる人。
私だって綾音様が居なかったらここまで生きていない。病気になることもなく死んでいたはずだ。
初めて今瀬先生の家に行ったとき、あらゆるゴミというゴミが散乱しているのを見た。
下着まで床に放置していたものだから目のやり場に困った。
流石に隠すくらいしてくれよ、と思ったが拾ってくれることもなかった。
おかげで頭から蒸発して消えた。
綾音様もあのまま一人だったら野垂れ死んでいたかもしれない。
そうなる前に雪里先生が救ってくれていたかな。
「長い間任せっぱなしでごめんね。甘えてばかりで」
「なに言ってるんですか。私はあなたを支えることが生きがいでしたから。生きる意味でした」
そっか、と頬に口づけをされる。
どうして綾音様が私を選んでくれたのかは分からない。
親代わりをするつもりだけだったのかもしれない。
でも指輪をくれたときには思考が完全に変わっていたということだし。
私が良くも悪くも変えてしまったんだね、この人のことを。
ただこの人の変わらないところは酒の缶を持って病室に入ってくるという馬鹿らしい行動。
高校生の頃に公園でぶっ倒れて気がついたら片手に缶を持っている綾音様が居た。
状況を理解できた途端に思った。なんだこの人は、と。
最近も変わらない。変なところだけ行動が一緒だ。不思議な人だな全く。
「ずっとあなたのことを支えたかった。いつも無理してるの知ってるから。学費もそうでしたし生活費とかもそうですけど。すべての面において、負担なんてかけたくなかった」
学費も結局自力でなんとかして払い切った。奨学金の返済にも時間はかかったけれど。
夜職だけは許してくれなかったし、喫茶店のバイトしか許してはもらえなかった。おかげで守られた。心身ともに。
綾音様は私が払うよ、と言い続けてくれた。それだけは嫌だった。私のなにかがそれを許さなかった。
綺麗なものは時に残酷なものとなる。
まあ結局、今が一番色々と迷惑に負担をかけてしまっているんだよね。申し訳ない。
「もうちょっとくらい信用してくれてもよかったんだよ?綺麗な姿だけを見せなくたって」
それができたら苦労しない。してこなかった。
綺麗なままでありたかった。
痛みも知らない、傷を負うことも知らない。恐ろしく無知な人であれたなら。
それはそれで問題ではあるけれど、隠せるものは隠しておきたかった。
書き残すような真似も、誰かに話すような真似もしたくなかった。
私の人生は普通から大きく外れたものだ。
先生の立場にあった人と暮らしているのはもちろん。女性同士で居るのももちろん。
包み隠さず話すことはこれからもない。誰かにバレてしまったとしても。
雪里先生だけは例外ではある。あの人は綾音様を心底愛している同類だ。
「話すというのも労力が要りますから。ただの夢物語のほうが安心できますよ」
「そうやって自分を殺してきたから現にこうなってるんだね」
身体を持ち上げられ、車椅子に乗せられる。
見上げた綾音様の顔は寂しそうでもあった。強い口調は涙を押し戻すためのものか。
何年も一緒に居るのにこの人のことを分かっていないのはお互い様だが。好きだからこそ隠しておきたいこともある。
綺麗なままで居ようと取り繕う。好かれたままで居たいから。
幻滅されたくない。嫌われたくない。ずっとそばに居たいだけなのにそれすらも叶わなかったら。そんなの嫌だ。
全部自分のため。分かってはいても考え方を改めるのは難しい。
「冷えたでしょ、上着も着てブランケットも掛けておきな」
「ありがとう、綾音様」
思い出を増やしに行きたかったのはもちろん最大の理由。
綾音様にとっての思い出を増やしておく必要もあると思ったのもまた一つの理由。
過ぎていく時間とともに消えていく残りの時間。
どこまでも献身的に尽くしてくれる綾音様。この人にとっての私って何なんだろう。
家事もほぼできなくなった。洗濯物くらいは畳めるし食洗機にぶち込むくらいならまだできるけど。
料理もできなければなにもできない私に価値はあるのか。
仕事もできない、うなされるか悶え苦しむかの日常。
だからさっさと死んでいればよかったのにな。親と鉢合わせたときに殺してもらっていれば。
今瀬先生に出会う前に――。
「ずっと前から決めてた。出会ったときから。早瀬を守るって」
「それは随分早い決断ですね。普通に考えて今の状況も今までもおかしいですよ」
誰かが決めた普通を突き破ったのは私でもあり今瀬先生でもある。
あの夜に恋人になりませんか、と口走った私は普通なんていうものに縛られていなかった。
こんなことになるとは知らなかったし。自分でも終わったなこれと思ったし。
でもそれでもよかった。気持ちを伝えて砕け散れるなら本望だ。
どうせもう会えないなら。死ぬなら。最期くらいは、なんて。失うものがなかったせいで無双していた。
人生というのは不思議なもので終わってくれなかった。
綾音様はどうなんだろう。
綾音様のご両親に聞けば「今まで本当に恋愛なんていうものに興味もなければそんな話を聞いたこともなかった」と言う。
私は綾音様と綾音様のご両親の縁を切りかけたことのある厄病神。よくそんな話ができるところまで持っていたものだ。
良くも悪くも変えてしまったのは事実で。
好きだと直接言ってくれることは少ないけれど好いてくれているのは分かる。
私の好きには憧れも感謝も入り混じったよく分からない、目に見えない物体だけど。
綾音様が抱えている好きの中身は何なんだろうな。ずっと居ても分からない。居るからこそ分からない。
「好きですか?」
「好きだよ。叶を守るためなら命だって捨てられるくらいにね」
「それはやめてください」
思わず首を後ろにひねり、綾音様を仰ぎ見る。
不器用ながらも好きを伝えてくれるこの人がやっぱりずっと好きだ。
なにも変わらない思い。私も彼女を守り抜きたい。命をかけてでも、捨ててでも。
増えていく思い出に溺れてしまいたい。
明日という日が来るかも分からない毎日も怖いんだ。




