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先生、叶えてくれませんか?!  作者: 雨宮雨霧


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第二話 ご縁

「だからよろしくお願いしますって言ってるじゃないですか」

「よろしくじゃないよ。無理難題押し付けんなって」

 綾音様が買い出しに行っている間に電話をかける。

 今瀬先生の元同僚である雪里先生は綾音様のことが好きだ。見れば分かるほどにデレている。

 結局私が何故か恋人になっているわけだが。

 せっかくだから間に挟んでやろうと思っている。

「だから綾音様を生かせって言ってるんです。死なれたら嫌でしょ」

「そりゃそうだ、嫌に決まってる。というかお前が死ぬのも結構嫌なんだけど」

 予想外に私を心配してくれるらしい。

 それもそうか、教え子が自分よりも先に死ぬなんて私も嫌だ。嫌すぎて死ぬ。

「で、どうなの。体調の方は」

「あんまりですねー、やっぱり。年内生きられたら奇跡だって言われるくらいですし。元気なほうなんでしょうね」

 そうか、と文脈を濁された。

 何度も電話やらメールやらを送りつけて申し訳ない気持ちもある。

 それでも、綾音様を生かしてくれるのはこの人しか居ない。

 今瀬先生のことを心から愛している一途な人。

 大学時代のバイト先のマスターも苦笑いしていたほど雪里先生は綾音様が好きだし、当の本人は気付くどころか私を溺愛している。

 変なこともあるもんだなと謎の感慨に浸りながら、お願いを重ねる。

「いいですか、送ったレシピくらいは作ってあげてください。先生の匙加減でも全然いいので。ガン無視してもいいので」

「分かった分かった、分かったから。大方同じように作れるようにするよ」

「また来てくださいね。綾音様の相手をしてあげてください」

 何十分と通話する元気もない。長くて十分、短くて三分。

 こんな私にお願いされ、綾音様も綾音様で色々と嘆いているようだから雪里先生は人気者だ。

 信頼しているからこそ頼むことができる。だからどうかよろしくを受け止めてくれ。

 あの人は後追いしてきそうで怖い。それだけはやめてくれと思う。

 直接言うのはまだ早い気もするし、できれば言いたくない。

 私が死んだ後、心配なのが綾音様になるとは思っていなかった。

 心配する事柄なんてなにもなかったはずなのに。

 まさかのまさかだ。成仏どころの話ではない。

「ただいま、叶。起きてたんだ」

「おかえりなさい。雪里先生と電話してたんで」

 なんで雪里なんだ、と怪訝な顔を向けられてしまった。

 なんでかは知らないが綾音様は雪里先生を毛嫌いしている。愛情故の絡みがうざいのかもしれない。

 この人の友達なんてあの人くらいなんだしもうちょっとくらい扱いをマシにしてあげてもいいと思う。可哀想だし。

 私は友達ゼロ人で学生生活を過ごして、大学でできたにはできたけど忙しくなってから会わなくなって……。

 働き出して友人と言えるくらいの人はできたにはできた。せっかくの御縁を切ったのがこの私だ。

 病床に伏してから大方の連絡先を抹消した。薄情者というかなんというか。クズって言われるならその通りだと開き直ってやる。

「友人くらい大切にしておいたほうがいいですよ」

「どの口が言う。連絡先ほとんど消すとかありえないよ、それもなにも言わずに」

 最近はほとんどの人と疎遠だった。ならいいか!と思ったまでで。

 判断能力が鈍る前になんとかしたかった。ただそれだけで。

 なにも言い返せない。私も私でどうかしている。

「私はいいんです。いつかは切れる関係ですし丁度よかった」

 ため息を吐かれ、鋭利な視線を向けられる。

 見えない心まで引き裂いてしまいそうなほどの目つき。怖い。

「お前がよくても切られた方はなにを思うんだろうな。倒れたなんて風の噂を聞いてたらどうする。余計に心配かけてるよ」

 それはそうだ。それも少しは脳裏をよぎった。

 もう取り返しはつかない。割り切ってくれ、あんな奴友人だったなんてありえない、って。

 否定されたほうが楽だ。そのほうが息をしやすい。

 誰かに大切にされるなんて、思われるなんてしんどいだけだ。生きにくい。

 なにも返せないのに。なにもしてあげられないのに。

 ここに居る人も、今まで出会ってきた大切ではある人たちも。みんなおかしいとさえ思えてきてしまう。

「雪里は大切だよ、一応ね。だからお前もさ、切らなくてよかったんだよ。誰も得しない犠牲なんかやめて」

 じゃあお昼作るから、と言い残して寝室から去って行かれた。

 あの子もあの人も大切だった。大切だから縁を勝手に切った。つもりでいるだけかもしれない。

 もし心配してくれているなら、それは縁を切ったとは言えない。一方的に切り捨てただけだ。

 贖罪なんてしても意味もない。償ってもそれは永遠に続く。

 赦してもらうことなんて二度とできないんだから。

 一教師だったはずなのに、今までなにを教えてきたんだろう。

 なにも分かっちゃいない。変わることもできない。あの日の自分はずっと、すぐ隣に居るようだ。


「琥珀糖でも食べる?」

 目の前に差し出されたのはまるで宝石のような、日に照らされる海のように美しい琥珀糖。

 何度か贈り物として綾音様に渡したことはある。作ったこともあるけれど上手くはできなかった。

 久しぶりに言葉にできない儚さを目にしている。それが生きている実感に変わっていく。

 指先で掴んだ宝石をしばらく眺めてから口に放り込む。

 甘く、優しい味。

「よくくれてたなって思って。懐かしがってたら買ってた」

 なんだそりゃ、と笑う。

 気持ちは分かる。懐かしいものにはつい手が出てしまう。

「ありがとうございます。小さな幸せ、私からもお返ししますね」

 黄色い琥珀糖を綾音様の口に放り込んでやる。

 微笑み合いながらゆっくり流れる夏の終わりが近付く夜。

 今年は綾音様と一緒に桜を見ることができなかった。

 桜の咲く時期に丁度倒れてしまったおかげで。全ては私のせいなわけだが。

 まだ新学期が始まる前でよかったと思う。

 大事な時期の前後に倒れるなんて迷惑極まりないのは分かっている。重々承知だ。

 担任を持つ予定もなかっただけマシだと思っておくべきか。

 それでも多方に迷惑をかけてしまった。申し訳ない。

 担任を持たなくとも責任は一生つきまとってくる。行事も部活も、色々とやることはあるし。生徒のことも、なにもかも。

 この仕事に限らず、他の場所で働いていたとしても。私は迷惑人だ。

 しばらく意識を失っていたせいで、世界で一番大切な人に絶望までさせてしまった私は地獄に落ちるべきだろう。

 もう目を覚ましてくれないかと思ったと、もう話せないかと思ったと。一緒にご飯を食べることもできない、笑うこともできないのかと思ったんだと耳にタコができるくらいに云われた。

 雪里先生からも云われた。綾音から聞いて駆けつけてみれば泣き崩れられたと。

 歩けるまでに回復したのもつつじが枯れて、梅雨に差し掛かる頃だった。長い入院生活だったなと思う。

 こんなに長く家を空けることなんてなかったわけだ。せいぜい三日くらいだった。

 あんなに長く眠りこけることもなかったわけだ、当たり前だが。

 見舞いに来てくれるたびにやつれ方が酷くなっていた私の恋人。

 どっちが病人だよ、と思うほど。

 最終的に私が圧倒的に病人だったみたいです。

 頼む前に雪里先生が先手を打って色々施してくれていた。

 だからこの人は私に琥珀糖を与えてくれるまでに回復したんだ。感謝しないと。

 好きな人が転がり込んできたと思えば家事が壊滅状態で唖然とした先生がどこか哀れで面白くて。

 ごめんなさいとありがとうの両方を伝えなくては。

 家に帰れたときはうれしかった。死ぬのもこの家がいいと思った。綾音様との思い出が詰まったこの場所で。

「もっと早く病院行ってればさ」

「健康診断はちゃーんと受けてましたから。大丈夫だって思ってた。思い込みでもなんとかなるって思ってた。思ってたんです」

 頭を撫でられているようで押し付けられている謎の時間。背が縮んでしまいそう、ただでさえ低いというのに。

 綾音様も背が高いというわけではない。でも八センチは違う。生粋のチビだ、私は。

「少しくらいなんか気付かなかったの、しんどいとか」

「分かんないですよ。健康体だったわけでもないし」

 何回も繰り広げられる言い訳戦。

 薬を乱用していた学生時代のせいで健康診断の結果なんてたかが知れていた。

 身体の内側から終わってくれるなら本望だった。あの頃は。

 体調がいいときなんて早々なかった。どこかしらの不調はあったし。それも気にしてはいなかった。いつものことだったから。

 階段で倒れて、数段落っこちて今がある。馬鹿みたいな行動をしなければもっと違ったかもしれない。

 多少なりとも違和感だったり体調不良だったりはあったはずだと医者にも言われたけれど。そんなの知らない。

「酒飲んどけばなんとかなると思ったんですけど」

「変な持論はやめろ」

 お酒を飲めば体内が消毒されるはずだから健康まっしぐら、という持論をよく持ち込んでいた。

 我ながら思考回路がおかしい。よく綾音様にチョップを食らっていた。

「順番間違えんなって言ってんのに。倒れんの趣味なの?」

「なわけ。久しぶりに言われたな、それ」

 先生が生きている限り死なないと思っていた。死ぬわけにいかなかった。だから生きている、ずっと。

 隠れてコソコソ、隠れて色々。

 迷惑ばかりをかけて生きている、ずっと。いつまで心配をかけたら気が済むのか、と自問自答する。

 飛び込みそうになったこともあった。何度も家を抜け出して、その度に連れ戻された。見つけてくれた。

 文明の利器を使いながらでも。

「ずっと生きててほしいよ。一緒に生きてほしい。……叶えてよ、叶なのに」

 しがみつかれてわんわん泣かれてしまった。

 叶という名前のくせになにも叶えてあげられないという矛盾。

「ごめんね綾音様。大丈夫、生きてるから。ひとりになんてしないよ」

 背中を撫でても一向に泣き止む気配がない。

 一人で泣かれるよりは全然いい。共有してくれるほうが私はうれしい。

 残り少ない時間を、綾音様とできるだけ過ごしたい。

 一人で苦しむのはよくないよ。別に泣いてもいいし。そう慰めてくれた人はどうしようもないほどに湖をつくる。

 湖といえば、高校時代によく中庭の鯉と戯れていた。

 この子みたいに泳げるようになりたかったと、くだらないことを思っていた受験の時期。

 あの鯉はまだ泳いでいるのかな。鯉の寿命は長いと聞いた。理科の先生が言っていたと生徒たちから聞いた。あまりに人づて。

 もしかすれば私のほうが先に命を返すことになるのかもな。それはそれでいい。それが生命というものだろう。

「もう泣かないでくださいよ、まだ生きてるんですから」

 過保護すぎた分の代償なのか、私が甘やかしたせいなのか。死ぬなら自分も死ぬ、と泣きじゃくる人になにを言えばいいのか。

「五百歳まで生きろって言ったじゃないですか。生きてください」

「むり。むりに決まってんだろ、そんなの」

 泣き腫らした目が、赤く染めた頬が眼前に提示される。

 七夕に願ったあの短冊は意味をなしてくれない。

 自分でもなんで五百歳にしたのか疑問に思う。ずっと生きていてほしいからそう書いた。度が過ぎただけで。

 どうせなら一光年くらい生きていてほしいくらいだ。

 何度もむりだと呟く子どもに戻ったような綾音様を抱きしめる。

 嗚咽が身体に響く。痛みなんて忘れてしまえれば楽なのに。そうもいかない現実がこの場所に溢れかえっている。

「一回寝ましょう。泣くのも疲れるでしょう」

 あっさりと腕のなかで眠ってしまった綾音様。

 明日は雪里先生に来てもらおう。そうでもしないとどうしようもない。状況が好転することはない。


「やっほ、家出してきた」

「なんで家出なんだよ」

 事前にメールで来てくれるように頼んでおいたことを私の恋人は知らない。

 いつもと変わらず家出してきたと笑う雪里先生。

 ただ単に遊びに来た、と口にするのは恥ずかしいらしい。

「雪里先生、これお願いしていいですか」

「了解。にしても多い本だな。まあどっちも任せて」

 車でやってきた雪里先生は綾音様を拐って消えていった。

 綾音様のなにも理解できていない表情が面白かった。あんな顔するんだな。

 叶はどうするんだ、と玄関のドアが閉まる直前に聞こえた。

 どうするもこうするもない。外に出ないと息が詰まると言っていたのは綾音様じゃないか。

 誰も居なくなったリビングを見渡し、ソファに寝転ぶ。

 綾音様の家に住み着いたとき、今はなき私の実家から色々と運び出した。

 ベッドは解体されて綾音様の友達、つまり雪里先生が運んでくれた。

 後で知ったこと、というか最近知ったこと。私は知らなかった。

 まさか私の家から先生二人が出入りすることがあるとは。

 なんで早瀬と住んでるのバレたんだろう、と頭の上にはてなを飛ばしていたがこっちからしたらなんで気付かないと思っていたのか不思議だ。

 表札はなかったけど。私も顔を合わせたわけではないけど。

 雪里先生も呆れ顔だった。あのロリコンは馬と鹿すぎるんじゃないかと。

 もう自分はロリではないけれど、共感の嵐だ。

 当時十五歳だった私の家にどういうわけか転がり込んできた今瀬先生。

 ここから行くほうが学校近いじゃん、ということだった。

 納得してしまった私も馬鹿だ。バカ同士お似合いかもしれない。

 料理も家事も、できるはできていたおかげで私がやっていた。

 雪里先生と連絡先を交換してからそんな話をしていたが、なんでそんな人のことをそこまで好きなんだと問い詰められた。

 この人も綾音様のこと好きだったよな?そういうことなんじゃないのか、と思う。

 たまには少し考えてみよう。なんで私は綾音様が好きなのか。

 出会いは中学生のとき。

 ただの教師と生徒の関係だった。

 ブラウスにアイロンをかけろ、リボン曲がってるし。と指摘されたのが最初の出会い。

 一々そんなことをやろうと思ったこともなかったしやらなければいけないことも知らなかった世間知らず。

 教えられたことがなければ服なんてボロ切れと同等だと思っていた。そんなことがあるはずもない。あのときは本当にそう思っていた。

 今瀬先生は保体の先生だった。

 意味が分からないが二人一組を作らせては私を余らせて、いつも今瀬先生と組まされた。

 今思えば酷い話だ。今思わなくてもなんか酷くね?とは思っていた。

 わざわざ作らせてたんだよ、と雪里先生は言っていた。

 もしそうならば、あからさますぎないか。

 誰にでも優しく、平等に接している今瀬先生が好きだったのに。

 私とやりたかっただけだったんですか今瀬先生。別にいいけども。

 どうせ陰キャだしコミュ障だし、話せるのは今瀬先生だけだったけども。気が付かなかった私も私だし、何ならうれしかったけど。

 一体全体どこが好きなんだろう、とふと疑問が過った。

 ただただ濃度が濃すぎるフィルターがかかっていただけなのかもしれない。

 それでも色眼鏡で見る人ではないし、叱るところは叱って褒めるところは褒めてくれる優しい人。

 突っぱねるような言動を取ったときも、頭ごなしに怒ったりはしてこなかった。それもそうだ、と云われてこっちがたじろいだまである。

 そうやって過ごしてきた学生時代。先生なしではとっくに死んでいたとよく思う。

 先生、恋人になりませんか?!なんて言った私の家にやってきた今瀬先生。

 それから何度か仕事終わりに休みの日にやってきた今瀬先生。

 ボストンバッグにスーツケース。旅行かな?ってくらいの荷物を持ってやってきた今瀬先生。

 泊まるだけかと思いきや住み着かれてしまった。恋人は保留でも一緒に住むのはいいのかよ、と思っていた私も気付けば恋人どころか親子みたいになっていっていた。

 馬鹿げた話だ。本当に馬鹿だ。

 そろそろ結論を出そう。

 どこまでも優しくて向き合ってくれる綾音様が、見捨てるようなこともしてくれない綾音様が。

 別に料理ができなかろうと家事ができなかろうとよかった。好きだからこそなんでもしたかった。

 今はもう家事も大分できるようになった綾音様だし。いい子なんですうちの彼女は。

 疑問が過ってもそれすら愛に変わる。これが恋というものなんだろう。人を馬鹿にさせてくる。

 幸せならなんでもいい。なんでもいいんだ。

 辛いときに求めていた言葉をさり気なくかけてくれるあの人が、私は好きだ。

 ソファから起きて、自室に入る。

 雪里先生に本を持っていってもらったおかげで本棚は空いた。

 書類も大体処分できた。

 調度品も残しておきたいものだけにした。

 便箋と封筒も買っておいた。

 家から出るのは番犬のせいで難しすぎる。そこで現代の必殺技、ネットショッピング。現代に生まれてよかったと心から思う。

 手紙に書きたいことをメモに書き溜めて、それを文章にしていくのがいつものやり方。書けるうちに書かないとな。そう気楽に過ごしてはいられない。

 本棚に置いてあるアルバム。綾音様のご両親から譲り受けた綾音様の幼少期のアルバムもこっそり置いてある。

 かわいいなあ。かわいい。決して教えようとしない綾音様にしびれを切らしてご両親に聞きに行くなんていう行動も起こした。

 嬉しそうに話してくれるあの二人に私も癒やされた。家族というものはあたたかい。

 雪里先生は好きになった相手がロリコンだったんだけど、とよく愚痴をこぼす。それかひたすら惚気てくる。

 もうロリとかそんなの違いますよ、と言っても頑なにそこは批判される。

 気持ちは分からんでもない。私だって好きになった相手が高校生の家に転がり込んで数年後には結婚したも同然だと聞いたら、意味が分からないし理解したくない。


「叶のせいで酷い目にあったじゃん」

「おかえりなさい、綾音様。たまには外の空気もいいもんですよ」

「綾音ってばずっとぴーちくぱーちく言うの。ノイローゼなるわ」

 綾音様の頭をなでる。

 そうだよね、心配だったね。させてごめんね。

 休日は一人でよくどこかに行っていた綾音様。今ではそんなこともしなくなった。

 買い物に行くとき以外は私と一緒だ。心配症がすぎるのがこの人の悪いところでもある。度が行き過ぎなんだ、いつも。

 どこに行ったとか、なにを見てきたとか。教えてくれるほうが私からしても楽しいんだけどな。

 免疫が落ちたせいで人混みの中には行きづらい。それならこの人に見てきてもらいたい。

 教えてくれ、世界を。

「早瀬のことも大事だけどさ。綾音も自分のことくらい気にしろよ?」

「分かってるけど」

「だから雪里先生のこと大切にしろって言ってるんですよ」

「それは分からん」

 軽い口論をしながら過ぎていく時間。

 綾音様は私のことをよからぬことをする人間だと思っている。

 学生のときは自傷行為に分類されるものをしていた。確かにこれはよからぬことだ。

 大人になってからは綾音様を綾音様のご両親が居る実家に連れていき、雪里先生を家にあげるようになった。

 この先生とは花いちもんめで今瀬綾音を取り合う仲。これもよからぬことらしい。

 私からすれば間に挟まれてくれる雪里先生に感謝しかない。

 綾音様のことをよく知っている一人でもあるし、なにかあれば相談にも乗ってくれる懐の深いお方。

 それに比べて鈍感な綾音様といったら。

 自分のやりたくないことはちゃんとNOと言える人だ。それはそれで褒めるべきところ。NOと言える人であれ。

「売った金、足しにできるなら」

「手数料は手元に残しておいてくださいね。ありがとうございます」

 売り飛ばされた本が残したお金。

 綾音様がよそ見をしているうちにコソコソと、声を潜めて手早く受け取りを済ませる。

 売り飛ばされた本も雪里先生のものだという見え透いた嘘を吐いている。

 意外にも気付かない私の恋人。いや気付けよ。恋人の私物と元同僚の私物が同じなわけないだろう。趣味も全く違うし。

 内心ではそう思っている。鈍感どころかお前の目は節穴か!とも思う。

 本当に気付いていないのか?気付いているけど表に出さないようにしているのか?

 嘘を建前にしている以上、訊くこともできない。

 気を取り直して。売り飛ばされた分のこのお金の使い道は綾音様に使う。

 いつも私の世話で忙しないから。ただでさえ働き者過ぎるのに。

 ということでできるだけ労ってやろうという意を込めて。まあ今はまだ、だが。

 貯まったお金でオルゴールを買おうと思っている。綾音様への最期の贈り物のつもり。

 最期にならなければそりゃいい話だが。年内生き延びられるかどうかではな。

 残りの季節は秋と冬が少しあるくらいとなると、桜はどう足掻いても見られないか。

「家出だから泊まっちゃおうかな」

「駄目に決まってんだろ」

 こいつ送り返してくるから、と言って車を停めている場所まで送っていった綾音様。

 なんだかんだ言って好きなんだよな、あの人のこと。もちろん恋愛感情じゃなく友人として。

 素直になればいいのに。ツンデレなねこさんの扱いには困る。

 綾音様が居ないうちに紙とペンを手に取る。

 ただの紙にスマホのメモに書き溜めておいた単語に短文を文章に書き直していく地道な作業。

 黒歴史と化してきた今までの手紙。今回も真っ黒な歴史になるのだろうか。

 それでも、黒歴史は今回で終わり。

 もう書くことは残念だができない。

 私が生きているなら見なかったことに。生きていないのであれば――また黒歴史になるのかな。どうでしょうか。

 なんて下書きから始まる手紙。

 これもこれで軌跡の一部。


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