第9話:綻びの予兆
表参道での危機を何とか切り抜けたものの、二つの世界を往復する危うさは確実に唯夏の心を蝕んでいた。そんな中、派遣先のオフィスに突如として現れた「予想外の来訪者」が、静まり返った日常の歯車を狂わせ始める――。
水曜日の午後。
オフィスの静かなフロアに、プリンターの駆動音と、プラスチックのキートップを叩く乾いたタイピング音だけが規則正しく響いていた。
唯夏は山のように積まれた伝票のデジタル入力に没頭しながら、乾いた喉に冷たい緑茶を流し込み、頭の中で今週末のスケジュールを無理やり組み立てていた。
今週末は、吉野から指定された少し格上のディナーの予定が入っている。前回のカフェデートよりもさらに踏み込んだ「身元確認」や「将来の話」になることは明白だ。そのためのジャケットや靴の選定もしなければならない。
(……気が重いな)
心の中で小さく息をつき、ブラインド越しの午後の乾いた窓の外に目をやったその時だった。
フロアの入口付近で、総務の社員と何やら低く言葉を交わしている見慣れないスーツ姿の男の背中が、視界の隅に引っかかった。
整えられた髪型、シワひとつない背中、そして無駄のないスマートな立ち居振る舞い。
そして、どこか聞き覚えのある、低く落ち着いた声のトーンが耳朶を打つ。
(……え?)
タイピングを打つ指が、ピタリと止まる。
まさか、そんなはずはない。ここは東京の、しがない派遣先のオフィスビルだ。パパ活のアプリを通じて知り合っただけの、素性すら完全に把握しているわけではない男――。
――高見が、ここにいるはずがない。
だが、総務の社員に案内されながら、フロアを見渡すために振り返ったその男の顔を見た瞬間、唯夏の血の気が一気にスーッと引いていくのが分かった。
高見だった。
しかも、プライベートで見せるラフなジャケット姿でも、路地裏でカフェラテを片手に立っていた姿でもない。完璧に仕立てられた特注のビジネススーツに身を包み、足元には磨き上げられた革靴を光らせた、紛うことなき「格上のビジネスパーソン」としての姿だった。
「――それでは、こちらの席の佐々木が、本件のデータ管理を担当しておりますので」
総務の社員の案内で、高見の視線がまっすぐこちらのデスクへと向けられた。
一瞬だけ、高見の端正な目が驚きにわずかに見開かれ、そしてすぐに――すべてを面白がるように、悪戯っぽく静かな笑みに変わる。
(なんで……どうして、ここに……?)
頭の中が真っ白になり、喉の奥がキュッと締め付けられたように息が詰まる。
私の派遣先の会社に、高見が取引先の重要人物として現れた? 偶然? それとも、最初から――?
これまでの「パパ活」という泥臭い関係性が、もしここで会社の人間関係と完全に繋がってしまったら。上司に知られ、吉野との婚活の仮面が剥がれ、積み上げてきたすべてのセーフティネットが、一瞬で音を立てて崩壊する。
冷や汗が背中を嫌な感触で伝い、心臓の音がうるさいほどに胸を叩く。
立ち上がることもできず、ただ青ざめた顔でキーボードに指を置いたまま、唯夏はその場に凍りついていた。




