第8話:交錯の間一髪
表参道の交差点。パパ活の高見と過ごす急すぎる時間のすぐ目の前で、婚活相手の吉野が待ち合わせ場所に立っている。二つの世界が交錯する極限の瞬間、唯夏が下した選択とは――。
「……佐々木さん?」
高見が差し出してくれた紙コップのカフェラテ。その甘ったるく人工的な温もりが冷え切った胃の腑に落ちていくのを感じていた矢先、唯夏の背筋が文字通り凍りついた。
交差点の向こう、青信号に変わった人の波をかき分けて歩いてくる姿――それが吉野だと気づいた瞬間、頭の中で警報音がけたたましく鳴り響いた。
(どうしよう……見つかる。ここで高見と一緒にいるところを見られたら、すべてが終わる――)
正社員の結婚相手というセーフティネットも、奨学金や美容代を埋めるためのパパ活の現金も、一気に崩れ去る。喉の奥がカラカラに乾き、息が詰まる。
「おい、どうした?」
隣に座る高見が、唯夏の強ばった視線の先に気づいて低く唸る。
「あの……婚活アプリの、人、が……!」
言葉にならない焦りを一瞬で察したのか、高見の動きに迷いはなかった。ガタッと音を立てて立ち上がると、その厚みのある体で唯夏の視界を完全に遮り、壁のように立ちはだかる。
「あー、そういえばさ、さっきの話の続きなんだけどさ」
高見はわざと野太い声を張り上げ、トレンチコートの裾を揺らしながら道路側へと一歩踏み出す。その背中の隙間から、吉野の革靴がアスファルトを叩く乾いた足音が近づいてくるのが聞こえた。
(カツ、カツ、カツ……)
「じゃあ、そろそろ行くわ。あっ、これっ、細かい釣りはいいからさ、また連絡してよ、佐々木さん」
「……あ、はい。ありがとうございました、高見さん」
「いいよ。足元気をつけてな」
高見はそれ以上振り返ることもなく、反対側の路地へとスマートに消えていく。
視界を塞いでいた大きな壁がスッと消えた。
その直後、偶然にも歩道の向こうから歩いてきた吉野と、視線がパチリと合ってしまった。
「あ、佐々木さん。こんなところで何してるの……ってか、やっと見つけたよ。メッセージ既読になってなかったからさ、迷ったのかと思ったよ」
吉野は少し呆れたような、しかしどこか「待たせたな」という特権的な余裕を含んだ笑みを浮かべる。
冷え切った手のひらをコートのポケットに深く突っ込み、唯夏は必死に声を上ずらせないようコントロールした。
「ごめんなさい……! スマホの調子が悪くて、通知に全然気づけなくて……本当に迷っちゃって、すみません」
「いや、いいけどさ。ほら、予約してるカフェ、あっちだから行こうか」
吉野の背中を追って歩き出す。だが、先ほどまで隣にいた高見の泥臭い体温と、今目の前を歩く吉野の冷徹な査定の視線――その激しい落差が、妙に生々しく唯夏の脳裏に焼き付いていた。
案内されたカフェの席につき、吉野がメニューを開きながら「何にする?」と尋ねる。
その横顔を見つめながら、唯夏はコートのポケットの中で、さっき高見と別れ際に押し込まれたお札の生々しい感触を、そっと指先で確かめていた。
(私は、何を守りたくて、誰の隣にいたいんだろ)
愛でも恋でもない。ただ東京という冷たい街で「生き残る」ためだけに張り巡らせてきたはずの計算式が、高見という想定外のノイズによって、音を立てて歪み始めていた。




