第6話:オフィスの温度
婚活とパパ活の狭間で、すり減っていく心と現実の収支。そんなある日、派遣先のオフィスで起きた小さな出来事が、唯夏の張り詰めた糸を不意に揺らす――。
週明けの月曜日。
午前9時を少し回ったオフィスビルの一室で、佐々木唯夏は無心にエクセルのセルへと数字を入力していた。
「佐々木さん、ここのデータ、来月の集計分も一緒にまとめておいてもらえる?」
「はい、分かりました」
正社員の女性社員から渡されたファイルを受け取り、愛想の良い返事をする。
この会社での唯夏は、愛想が良くてミスがなく、いつでも頼りになる「便利な派遣さん」だ。自分の意見や感情なんて最初から求められていないし、ここで余計な色を出せば、居心地が悪くなるだけだと分かっている。
カチカチとマウスを鳴らしながら、ふと隣のフロアの給湯室から聞こえてきた社員たちの話し声が耳に入った。
「ねえ、聞いた? 今度、同期の佐藤くんが社内恋愛の末に結婚するんだってさ。相手も事務の子だっけ?」
「へえ、いいなー。やっぱり安定してる男と結婚するのが一番の勝ち組よね。東京で一人暮らししながら貯金なんてムリだしさー」
サラリと言い放たれたその言葉が、なぜかやけに重たく唯夏の胸に突き刺さった。
(……東京で一人暮らししながら貯金なんて、ムリ)
その通りだ。
額面25万円、手取り20万円。家賃に光熱費、奨学金の返済。必死で自炊して作り置きをタッパーに詰め、すり減る思いでパパ活の夜を乗り切って、ようやく毎月の首の皮一枚がつながっている。
彼女たちが何気なく口にした「当たり前の日常」は、唯夏にとっては血を吐くような計算と妥協の積み重ねの上にしか成り立たない、手の届かない贅沢品だった。
パソコンの画面に反射する自分の顔は、相変わらず冷めていて、どこか疲れている。
(私は、何のためにこんなところで消耗してるんだろう……)
ふと、胸の奥がキュッと締め付けられ、息が詰まるような感覚に襲われた。
このまま吉野のような「条件の合う男」と結婚して、愛のない家庭の「正社員枠」を手に入れたとして、本当に私は幸せと言えるのだろうか。かといって、パパ活の現実に溺れれば、いつか取り返しのつかない線を越えてしまう恐怖がある。
どちらを選んでも、心が満たされる未来なんて見えない。
「佐々木さん、顔色悪いけど大丈夫?」
声をかけてきた社員の顔に、唯夏は慌てて取り繕った笑みを貼り付けた。
「あ、ありがとうございます。ちょっと寝不足なだけで、大丈夫です」
仕事終わりに待ち受けているのは、誰もいない8畳のワンルームと、散らかったレシートの山だ。
スマホを取り出すと、画面には吉野からの「今週末の予定確認」のメッセージと、高見からの「今週、軽く一杯どう?」という通知が並んでいた。
どちらの指で、どちらの未来をタップすべきなのか。
答えが出ないまま、唯夏のスマホの画面は、オフィスの冷たい蛍光灯の下で虚しく光り続けていた。




