第5話:不揃いな方程式
婚活とパパ活、二つの世界を往復する日々。そんな中で、ふと覗いた少女漫画の世界のような「普通の恋」への憧れと、現実の冷たい壁が唯夏に重くのしかかる――。
金曜日の夜。
恵比寿駅前の喧騒を抜けた先にある、少し背伸びをしたくなるイタリアンの店構え。
佐々木唯夏は、鏡の前で何度も前髪のバランスを確かめてから、予約された席へと足を踏み入れた。
待ち受けていたのは、大手メーカーに勤める吉野だった。
「お疲れ様、佐々木さん。ここ、予約取るの結構大変だったんだよ」
「ありがとうございます。素敵なところですね」
当たり障りのない笑顔を浮かべながら、唯夏は席に腰を下ろす。
メニューを開けば、上品なフォントで並ぶ皿の数々。どれも美味しそうだが、価格の記載されていないコース料理を前にすると、頭の片隅で「これ一皿で私の何日分の食費が消えるんだろう」という冷めた計算が勝手に働いてしまう。
食事が進むにつれ、吉野の会話は自然と「自分の仕事の誇り」や「将来のライフプラン」へとシフトしていった。
「来年は役職が上がる予定だしさ、そうなれば年収もかなり余裕が出るはずなんだよね。結婚するなら、やっぱりお互いの生活基盤がしっかりしてないとさ」
「……そうですね」
「それに、共働きでもいいけど、あまり負担になりすぎる仕事は家庭に持ち込んでほしくないっていうか。派遣なら、そのへんの調整はしやすいでしょ?」
悪気はない。目の前の男は、ごく自然に「自分の人生のパートナーとしての合格ライン」を査定しているだけだ。
その論理的で淀みのない言葉を聞きながら、唯夏はふと、数日前に高見と交わした会話を思い出していた。
――「生きるため、ね。重い言葉だな」
あのとき、高見は自分の生活の泥臭さを否定も肯定もせず、ただフラットに受け止めてくれた。吉野のような「正しさ」や「安定」はないけれど、そこに妙な息苦しさもなかった。
(私は今、何を基準に男を選んでいるんだろう)
「……佐々木さん? 聞いてる?」
吉野の怪訝そうな声ハッと現実に引き戻され、唯夏はあわてて作り笑いを貼り付けた。
「ごめんなさい、ちょっと仕事の疲れが出ちゃって……」
「はあ。まあ、女性は大変だよね、いろいろ気も使うだろうし」
どこか他人事で、どこか値踏みするような吉野の瞳。
その視線の奥にあるのは「愛」でも「恋」でもなく、自分の人生の計算式に組み込める「ちょうどいいピース」があるかどうかだけだった。
帰り際、恵比寿駅の改札前。
「じゃあ、また連絡するよ。今度はもっとゆっくり話そうか」
「はい、ありがとうございました」
吉野と別れ、一人で埼京線のホームに立つ。
冷たい夜風がコートの隙間から吹き込み、身震いする。
スマホを取り出し、画面を開く。
そこには、吉野との事務的なやり取りの履歴と、高見から届いていた
『今度、美味しいコーヒーでもどう?』
という短いメッセージ、そして婚活アプリに並ぶ無数の見知らぬ男たちのアイコンが並んでいた。
電車の到着を知らせるアナウンスが響く。
少女漫画のヒロインのように、ただ純粋に誰かを好きになって、手をつないで歩く――そんな物語の主人公には、私はきっと一生なれない。
(……これでいいの。綺麗事じゃ、東京の家賃は払えないんだから)
心の中で自分に言い聞かせながら、唯夏はガタゴトと音を立てて滑り込んできた電車に乗り込んだ。車内の窓ガラスには、相変わらずどこか冷めた目をしている自分の顔が、静かに映っていた。




