第2話:8畳の計算式
ホテルのラウンジを後にした唯夏の手元に残ったのは、冷たい封筒と、割り切れない現実だった。生き残るための「副業」を終えた彼女が帰る場所は、東京の片隅にある8畳のワンルーム――。
外資系ホテルの自動ドアをくぐり抜けると、秋の夜風がツララのように肌を刺した。
コートのポケットに手を突っ込み、指先で厚みのある封筒の角を確かめる。なめらかな上質紙の封筒の中には、今日という時間を切り売りした対価がきちんと収まっていた。
これを今月の銀行口座に移し替えれば、奨学金の返済口座と、来月の家賃の引き落とし日は何とかクリアできる。
(……うまくやった。これで今月も、首の皮一枚で繋がった)
そう自分に言い聞かせながら、唯夏は終電間際の地下鉄の階段を降りた。
ホームに滑り込んできた電車に乗り込み、ガタンゴトンと揺られながら、スマホの画面を再び開く。
さっき、ホテルのラウンジで通知を光らせていた「婚活アプリ」のメッセージ画面。
そこには、恵比寿でお茶を誘ってきた男からの文面がそのまま残っていた。
『プロフィールを読んで、ぜひお話ししてみたいと思いました。』
名前は、確か「吉野」。
年齢は30代前半。プロフィールに並ぶステータスは、大手メーカー勤務、年収650万円、一人暮らし、長男。
パパ活の男がくれた封筒の重みを感じながら、唯夏はその指でトントンと返信を打ち込む。
『はじめまして、佐々木です。メッセージありがとうございます。今週末、ぜひお会いしたいです』
文字に熱は微塵もない。
あるのは、いかに効率よく「条件の合う保証」を手に入れるかという、就活の面接予約のような冷徹な事務作業だけだった。
――恋愛して、恋して、愛して、結婚する。
そんな少女漫画みたいな奇跡は、テレビの中や、自分とは違う世界の住人たちの話だ。手取り20万円の派遣社員が、東京で自力で生き残るためには、ロマンスなんて夢を見ていたら足元から沈んでいく。愛ではなく、セーフティネットとしての結婚。
スマホの画面を閉げば、黒く沈んだ窓ガラスに、どこか冷めきった自分の顔がまた映り込んだ。
最寄駅から歩いて10分。
築年数の古い、壁の薄い木造アパートの階段を音を立てないように上る。
ガチャリと鍵を開けて部屋に入ると、そこには冷蔵庫の低いモーター音と、乾いた空気だけが迎えてくれた。
玄関のたたきにパンプスを脱ぎ捨て、コートをハンガーにかける。
散らかる余裕すらない8畳のワンルーム。部屋の隅には、休日にまとめて作ったタッパーが積み重なったミニ冷蔵庫がぽつんと置かれている。
「……ふう」
コートのポケットから例の封筒を取り出し、机の引き出しの奥底へ放り込む。
ふと、テーブルの上に置きっぱなしになっていた、スーパーのレシートに目が留まった。
特売の鶏むね肉、もやし、カット野菜、納豆。
これだけ買って、合計1,048円。
手取り20万円。家賃8万円。光熱費・通信費3万5千円。奨学金2万5千円。
そして、今月はパパ活で手に入れた「臨時収入」がある。
頭の中で、電卓を叩かなくても正確な数字が自動的に弾き出されていく。
(……あと何年、これを続けるんだろう)
ふと、胸の奥がキュッと締め付けられるような、言い知れない空虚感がこみ上げてきた。
パパ活で身体と時間を切り売りして得たお金と、婚活アプリで条件だけを査定して会う未来の結婚相手。そのどちらの道を進んでも、自分の心が本当の意味で満たされることはない気がする。
でも、立ち止まった瞬間に待っているのは、家賃も払えずにこの東京から放り出される未来だけだ。
「……贅沢言わないの。これが私の生きる道だから」
誰に聞かせるでもなく呟くと、唯夏は冷たいペットボトルの水を一口飲み、明日からの派遣の仕事に備えて、重たい体をベッドに沈めた。
スマホの画面は、暗闇の中で静かに通知の光を待っている。
週末の「婚活」と、いつ呼ばれるか分からない「パパ活」。
その二つの狭間で、唯夏の東京サバイバルはまだ始まったばかりだった。




