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第1話:二つの窓のあいだ

手取り20万、家賃に奨学金の返済。生き残るために選んだのは、割り切った二つの世界を行き来する「二刀流」のサバイバルだった――。令和の東京を生きる等身大のリアルを描く、新連載スタートです。

地下鉄半蔵門線の車内は、外の肌寒さとは裏腹に、まだ名残の温い空気がこもっていて独特の匂いがした。

つり革に捕まった佐々木唯夏(ささき・ゆいか)は、スマホの画面から目を離し、目の前にある窓ガラスの反射にちらりと視線を落とす。そこには、毎シーズンの新しい服を諦め、去年の秋から着回している地味なアウターの襟を少し立てた、どこか疲れた自分の顔が映っていた。

(……今日も、手取りの計算から一日が始まる)

額面25万円。

そこから税金や保険料が容赦なく引かれ、口座に振り込まれるのは実質20万円。

東京の真ん中で、家賃8万円のワンルームを維持するだけで手取りの4割が消える。電気、ガス、水道、そしてスマホ代などの通信費で約3万5千円。さらに、毎月の給料日から機械的に引き落とされる日本学生支援機構の奨学金返済が2万5千円。

残された自由なお金は、わずか6万円。

そこから自炊の食材費、日用品、消耗品、そして最低限の美容代を引いていけば、今月の貯金口座に残る数字など、笑っちゃうほどわずかなものだった。休日にタッパーへ1週間分の作り置きおかずを詰めているとき、「私は一体、何のために東京にいるんだろう」と乾いた笑いがこみ上げてくる。

スマホの画面をタップすると、2つのアプリが並んでアイコンを光らせていた。

一つは、大手婚活アプリ。

「年収500万以上、大卒、身長170cm以上」

条件をフィルターにかけて、効率よく「結婚という名の保証(セーフティネット)」を手に入れるための、いわば就職活動のプラットフォーム。メッセージのやり取りは事務的で、お互いのステータスを品定めし合うような冷徹な空気が漂っている。

もう一つは、都内の高級ラウンジやホテルのロビーを舞台にした、いわゆる「おとなの出会い系アプリ」。

「食事だけで手当〇万円」

――真面目に派遣社員として働き、すり減っていく毎日を数時間の会話で埋め合わせるショートカット。初めは「そこには絶対に堕ちない」とプライドを保っていたはずなのに、クレジットカードの引き落とし日を脳裏で計算した瞬間、その境界線はあまりにも簡単に崩れ去った。

「割り切ってるだけ。これは売春じゃなくて、現代の副業、セーフティネットの構築だから」

心の中で何度もそう呪文のように唱えながら、唯夏は溜息を飲み込んだ。

半蔵門線の駅から少し歩いた場所にある、外資系ホテルの重厚なロビー。

大理石の床にヒールがコツコツと乾いた音を立てる。指定された待ち合わせの柱の影には、スーツを着た50代前半――アプリのプロフィール写真よりも二回りほど現実味を増した、疲れた目をした男が立っていた。

「……唯夏さん、ですよね。はじめまして」

「あ、はい。はじめまして、唯夏です」

当たり障りのない挨拶を交わし、近くのラウンジへと移動する。

高級なコーヒーの香りと、周囲のビジネスマンや落ち着いた客たちの話し声がざわめく空間。男は嬉しそうにメニューを開きながら、「好きなもの頼んでいいよ」と言った。その言葉の裏にある「今日という時間を買った」という優越感の匂いを、唯夏は鼻の奥で嗅ぎ分ける。

(笑顔を貼り付けて、当たり障りのない会話をして、美味しいものを食べて、指定された封筒を受け取る。それだけで、今月の奨学金と美容代の足しになる……)

心はどこか遠く、冷めた別の部屋から自分の身体を見下ろしているようだった。

少女漫画の主人公のように、電車のホームで目が合っただけで恋に落ちる――そんなお花畑のファンタジーは、手取り20万円の現実の前にとうの昔に干からびて死んだはずだ。

愛なんて贅沢品は、貯金残高が三桁を超えている人間だけが語ればいい。

男がグラスの水を飲み干し、「最近の若い子は大変でしょ」と探るような目を向けた、その瞬間だった。

ポケットの中で、スマホが小さく、しかし妙に鮮やかに震えた。

画面をこっそり覗き込む。

通知のアイコンを表示したのは、さっきまで閉じていたはずの「婚活アプリ」だった。

『はじめまして!週末、もしお時間があれば恵比寿でお茶しませんか? プロフィールを読んで、ぜひお話ししてみたいと思いました。』

――同じスマホの画面のなかで、生き延びるための「パパ活」の男と、条件を満たすための「婚活」の男が、同時に手を伸ばしてくる。

唯夏はわずかに唇の端を持ち上げ、目の前の男に作り笑いを向けながら、震える指でスマートフォンの画面をそっと伏せた。

「……そうですね、大変ですよ。東京って、本当に厳しい街だから」

窓の外の夜空には、冷たいネオンだけが、どこまでも淡く光っていた。

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