第15話:境界線のゆらぎ
吉野とのディナーで突きつけられた「結婚という名の査定」。条件通りの未来を選ぶことに激しい違和感を覚えた唯夏は、その足で思わぬ場所へと向かう――。
恵比寿のフレンチレストランを出た瞬間、夜の冷たい空気が肌を刺した。
「じゃあ、来週またスケジュール確認して連絡するからさ」
吉野は満足げに微笑み、タクシーを拾うために手を挙げた。その横顔には、自分の描いた人生設計通りに事が進んでいるという確信と、相手を対等な人間として見ていない無自覚な傲慢さが張り付いている。
「……あの、吉野さん」
思わず口をついて出た言葉に、吉野は怪訝そうに振り返った。
「ん? どうしたの?」
「……いえ、何でもありません。ご馳走さまでした。」
喉まで出かかった
「もう連絡しないでほしい」
という言葉を、唯夏は必死に飲み込んだ。
まだだ。手取り20万円の現実、家賃8万円の部屋、そして奨学金の返済。この「セーフティネット」を自分の手で完全に手放すほどの覚悟が、今の自分にあるのか。
吉野を乗せたタクシーが走り去るのを見送り、唯夏はその場に立ち尽くした。
(私、何やってるんだろ……)
結婚は就職活動じゃない。条件が揃っていれば合格というわけじゃない。
頭では分かっているつもりだったのに、いざそのレールに乗せられそうになると、息が詰まるような拒絶感が胸を支配する。
気がつくと、唯夏の足は恵比寿の駅から遠ざかり、静かな裏路地へと向かっていた。
スマホを取り出し、指先が勝手に動く。開いたのは、婚活アプリではなく、もう一つのアイコンだった。
『今夜、空いてますか?』
送った相手は、高見だった。
数分後、すぐに既読がつき、短い返信が返ってくる。
『西麻布のいつものバーにいるよ。来られるかい?』
30分後。
看板のないバーの扉を開けると、カウンターの端にいた高見は、ビジネススーツのままでグラスを傾けていた。唯夏が隣の席に腰を下ろすのを確認すると、バーテンダーに「同じものを」と静かに合図する。
「珍しいな、君から連絡してくるなんて。あの堅苦しい婚活のディナーじゃなかったのか?」
高見はすべてを見透かしているような穏やかな目で、唯夏を見つめた。
冷たいウイスキーのロックを口に含み、唯夏はぽつりぽつりと話し始めた。
吉野との会話のこと、条件を品定めされる息苦しさのこと、そして自分が何のために生きているのか分からなくなっていること。
高見は遮ることなく、ただ静かにその話を聞いていた。
「……バカですよね、私。お金も欲しい、安定も欲しい、でも愛想笑いですり減るのも嫌なんて、わがまますぎますよね」
自嘲気味に笑った唯夏に、高見はグラスを置き、ゆっくりと首を横に振った。
「わがままじゃないさ。人間、泥水すする覚悟で生きようとしても、心が乾ききってちゃどこかで破綻する。……君はただ、自分の足で立つ場所を探しているだけだよ。」
その言葉は、これまでのどの男からもかけられたことのない、あまりにも真っ直ぐな肯定だった。
パパ活の客でも、ビジネスの取引相手でもなく、一人の人間としての唯夏を見てくれているような温かさが、冷え切った胸にじわりと染み渡る。
(――私は、この人の前では、偽りの仮面を脱いでもいいのかもしれない)
グラスを合わせたガラスの音が、静かな店内に小さく響いた。
東京の夜の深まりとともに、唯夏のなかの「二つの世界の境界線」は、音を立てて曖昧に溶け始めていた。




