第16話:朝の輪郭
高見の前で初めて「偽りの仮面」を脱ぎ捨て、心の一端を明かした唯夏。しかし、夜が明ければ現実の朝がやってくる。手取り20万円の日常と、動き出した歯車の中で、彼女が下す新たな決断とは――。
西麻布の深く沈んだ闇を抜け、バーの重い扉を押し開けたとき、東京の空はすでに青白く、冷たい朝の輪郭をさらけ出していた。
高見と別れ、始発直後の地下鉄の轟音に揺られてアパートの扉を開ける。
8畳のワンルームは相変わらず冷たく、生活の匂いすら希薄な静寂に満ちていた。
ベッドに倒れ込むように横たわり、白みゆく天井をぼんやりと見つめる。
昨夜、高見の圧倒的な気配と眼差しの前で、私は初めて「偽りの仮面」を剥ぎ取られた。
――「自分の足で立つ場所を探しているだけだ」
彼の低い声が、今も脳裏で官能的な残響を残して反響している。
(……私の足で、立つ、か)
手取り20万円の給与。
家賃8万円の重み。
毎月削られるように引き落とされる奨学金の返済。
派遣の給料だけでは到底生活なんてままならない。その決定的な経済的欠損を埋めるために、私はこれまで何人もの男たちと会い、愛想を売り、夜の街を漂い歩いてきた。
パパ活なんて、自分が選ぶ立場じゃない。常に男たちに品定めされ、選ばれ続けなければ生きていけない「選ばれる立場」の泥水をすするようなサバイバルだ。
その現実から目を背け、「セーフティネットとしての結婚」を焦っては、すり減る思いで何人とも面接を繰り返してきた。
そのどちらもが、結局は他人の掌の上で、誰かの決めた値札を貼られて消耗品のように消費されるためのものだったことに、今さらながら気付かされる。
胸元をかすかな気怠さと、熱を持った澱みが通り過ぎていく。
暗い部屋の中で、スマホの画面が無機質に光った。
婚活アプリの通知。
吉野からのメッセージだった。
『昨日はお疲れ様。次の週末、また予定合わせようか』
指先が、その文字を捉えることを酷く嫌がって拒絶反応を示す。
もう、あの「査定の席」には戻りたくない。条件と打算だけで繋がる関係の延長線上には、私の呼吸できる場所なんてない。
唯夏は肺の奥まで冷たい空気を吸い込むと、返信を打つ代わりに、ホーム画面に戻り、そのアプリのアイコンを長押しした。
迷うことなく、指先でアンインストールを選択し、アプリごと完全に消去する。
画面からその存在が消え去った瞬間、すっと、胸のつかえが落ちるような感覚が広がった。
(――これで、いいの)
すべてを投げ出すわけじゃない。この冷酷な東京で生きていくための現実(お金や仕事)から目を背けるつもりもない。
けれど、もう「誰かの基準に合わせた商品」として、愛想笑いを切り売りして生きるのはやめにする。
自分の足で立つということは、この喧騒の真ん中で、泥臭くても、傷だらけになっても、自分の意思で選択肢を選び取っていくということだ。
――そして、週末を挟んで迎えた月曜の朝。
浅い眠りからアラームの電子音に引きずり出された唯夏は、見慣れたスーツに袖を通し、いつものように派遣先のオフィスへと向かった。
冷え切った外気が、あの夜の残熱をそっと引き締めていく。
オフィスのドアをくぐり、自分のデスクに座る。
パソコンのファンが低い起動音を立て、画面が青白く光る。
その数十分後――。
打ち合わせの資料を抱えた高見が、フロアに入ってきた。
いつもの、すべてを見透かしたような落ち着いた足取り。
すれ違う、ほんの刹那の瞬間。
高見は周囲の同僚たちに気づかれないほどの、しかし肌を粟立たせるような絶妙なアイコンタクトを送り、小さく片端の口角を上げた。
唯夏もまた、作り物ではない。どこかすっきりと、しかし内側から熱を孕んだ引き締まった笑みでそれに応える。
二人の世界の境界線は、あの夜の熱によってすでに融解し、混ざり合っている。
しかし、その先に広がる新しいサバイバルの物語は、今、確実に唯夏自身の足で、歩き出そうとしていた。




