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第11話:契約の代償

派遣先のオフィスという密室で、高見から突きつけられた思わぬ「取引」。生活の基盤を守るため、唯夏は逃げ場のない選択を迫られる――。

 給湯室の冷たい空気の中で、唯夏は荒い息を呑んだまま、その場に崩れそうになる体を必死に支えていた。

唇に残る生々しい熱と、全身を蹂躙されたような屈辱が、まだ皮膚の表面でヒリヒリと脈打っている。


「……週末の、僕のすべてに付き合ってもらうって、どういうことですか」


震えを押し隠すように、血の気のない唇を動かして問い返す。高見は余裕を崩さないまま、わずかに口角を上げた。その瞳には、先ほどまで見せていた獣のような欲望の残滓が、冷徹な光となって底に沈んでいた。


「そんなに身構えるなよ。ただの食事さ。ただし、いつものお遊びのラウンジじゃない。僕の仕事関係の会食に、ビジネスパートナーとして同行してもらう」


「ビジネスパートナー……私が、ですか?」


「あぁ。君の頭の回転の良さは、数回会えば分かる。それに、ただの若い女の子を連れていくより、よっぽど話が通じる相手がいる方が都合がいいのさ。もちろん、これまでの『手当』とはケタ違いの報酬は弾むよ」


高見の言葉の裏にある意図を、唯夏は必死に頭の中で計算した。

会社にパパ活のことがバレてクビになるリスクを回避できる上、まとまった現金が手に入る。一見すれば、今の彼女の困窮した財政状態にとって悪くない条件に見えた。

だが、それは同時に、あの狭い密室で味わったような「身体もプライドもすべて握られている」という絶対的な従属の枠組みの中に、本格的に絡め取られることを意味していた。唇の奥に、男の体温が生々しく蘇る。


「……断ったら、会社に……」


「さあね。僕は口が堅い方だけど、君があまりにも怯えていると、ついつい周りに『面白い派遣の子がいるんだ』って話したくなるかもしれない。それに――さっきみたいに、可愛い泣き顔をまた見たくなるとも限らないからね」


耳元に蘇る低く囁くような悪意に、唯夏の背筋を冷たいものが這い上がった。

脅しとも冗談ともつかない、圧倒的な大人の余裕。

手取り20万円の派遣社員である唯夏にとって、この男の機嫌を損ねることは、社会的な死を意味していた。さっきの濃厚なキスと身体の接触が、自分の全人格を容赦なく踏みにじっていくような恐怖と、奇妙な熱を同時に残していく。


「……分かりました。行きます」


絞り出すような唯夏の返答に、高見は満足したように小さくうなずいた。


「いい返事だ。詳細は後で連絡する」


だが、高見はすぐにドアノブに手をかけようとはしなかった。ふっと底意地の悪い笑みを浮かべるやいなや、スルスルと唯夏の背後に回り込み、逃げ場のない壁との間に体をぴったりと密着させる。


「……っ」


息を呑んだ唯夏の耳元に、熱を含んだ低い声が這い寄る。


「よくできました、というご褒美さ。……それとも、まだ足りないかい?」


言葉の終わりと同時に、高見の大きな手が唯夏の服の上から躊躇なく丸みを帯びた臀部を掴み上げ、強引にもみしだいた。スーツ越しではない、直接肉体の感触をねじ込むような執拗な手つきに、唯夏の喉から小さく甘い喘ぎ声が零れそうになる。

さらに、驚愕して見上げた唯夏の顎を容赦なく掴み上げ、先ほどよりもさらに深く、貪るような熱いキスをもう一度叩き込んだ。

開いた口内にねじ込まれ、絡め取られる舌の熱さと、逃げ場を完全に奪われた屈辱感に、唯夏の足の力が一気に抜けかける。身体の芯からじわりと広がる熱と、それを理性が必死に拒絶しようとするパニックが、脳内でぐちゃぐちゃに混ざり合った。


「……じゃあ、お互い仕事に戻るとしようか」


唇を離した高見は、紅潮し、荒い息を吐く唯夏の乱れた胸元を冷徹な瞳で一瞥すると、何食わぬ顔でスーツの襟を整えた。

ガチャリと給湯室のドアが開き、高見は余裕の笑みを残したまま、スマートにフロアへと戻っていく。

その背中を見送りながら、唯夏は膝の力が抜けそうになるのを壁に手をついて必死で踏みとどまった。ヒリヒリと疼く唇を指先で押さえ、乱れた服を震える手で直しつつ、荒れた息をひっそりと整える。


その日の夜。

8畳のワンルームに戻った唯夏は、電気もつけずにベッドの上に崩れ落ちるように座り込んだ。

昼間の給湯室での生々しい記憶が、暗闇の中で何度もフラッシュバックする。服の上から体をまさぐられた手の感触、逃げ場を奪われた唇の痛み、そしてすべてを支配されるような圧倒的な無力感。


スマホの画面を開くと、そこには相変わらず、週末に迫った婚活相手・吉野からの「当日の店、予約できたから」という事務的なメッセージが光っている。


(私は一体、どこへ向かっているんだろう)


婚活で「安定した結婚という名のセーフティネット」を掴もうと足掻き、その裏で生活費を稼ぐためにパパ活に手を出し、ついにその相手に会社の運命だけでなく、心身の尊厳まで完全に握られてしまった。

愛されたいとか、本当の恋をしたいとか、そんな甘い理想はとっくの昔にすり潰したはずなのに、高見に犯された記憶の残滓が、心の奥底で妙な熱を伴ってじわりと広がっていく。

どちらの男を選んでも、自分の意思で生きている実感などない。ただ、東京という冷徹な街のシステムと、男たちの欲望の駒として動かされているだけだ。


「……それでも、生き残らなきゃいけないんだから」


震える指でスマホの画面を閉じ、唯夏は暗闇の中でぽつりと呟いた。唇に残るかすかな痛みが、現実の過酷さを容赦なく突きつけていた。

サバイバルの歯車は、もう引き返すことのでできない狂おしいスピードで、肉体ごと音を立てて回り始めていた。

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