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【更新中】あくがれゆくは蝶なれや  作者: 丹空 舞
華族、羽須賀家

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9/10

捌* 煩悶、懊悩

 渦中の羽須賀宗治郎は、豪奢な自室の机で頭を悩ませていた。


 芙美を愛人だの、何だのと勘違いしている使用人たちの噂はどうでもいい。


 いや、いっそ愛人やら恋人やら、そういう関係ならばまだ単純なのだ。

 問題は、主と下女以外の何でもないというところにある。



 「なんなんだ、あの納豆女は……」




 机の上には、帝華大学の講義録と、外国の哲学書が乱雑に重ねられていた。真新しい金時計の横には、万年筆と吸い取り紙が横たわっている。


「……意味が分からない」


 宗治郎は小さく呟いた。


 夕方の貴重な自由時間だというのに、胸の内が妙にざわついて、仕方がない。乗馬だの、文学サロンだの、華族会館へ顔を出してビリヤードを楽しむだの、そんな気にはとてもなれない。



いやです……だと?」



 思い出すだけで、眉間に皺が寄る。

 宗治郎はこれまで、女性に拒まれたことがなかった。   


 望めば、誰もが頬を染めた。  

 距離を取ろうとすれば、かえって近づいてきた。

 それが当然だと思っていた。

 だから、拒絶されるなど、全く想定していなかった。


 私はそのようなお気持ちを向けられる立場ではありません、と言わんばかりの、あの淡々とした声。


 媚びも、怒りも、期待もなかった。


 あの芙美という少女の前では、名誉も、金も、この麗しい容貌さえも、納豆一粒ほどの価値もないのだ。


「立場が何だというんだ」


 宗治郎は低く吐き捨てる。

 立場なら、こちらの方がよほど重い。  

 家を背負い、名を背負い、好き勝手などできない。


 それでも、芙美に対してだけは、家でも名でもなく、初めて自分個人として言葉を向けたつもりだった。


 それを、あっさり退けられた。


 机に指先でとん、と小さく音を立てる。

 腹立たしいのは、拒まれたことそのものだけはない。拒まれてなお、諦める気になれない自分の方だ。


 部屋の端にある錦織りの紐を引くと、階下で鈴の鳴る音がした。

 やがて、下人の定がノックをして現れる。  

 年若いが、愛護院の出身の出である定は、様々な世の軋轢に触れてきたからなのか、目の奥は妙に達観している。


「お呼びでしょうか」

と、定は扉を閉めた。


「ああ。いいか、極秘の話だ」

「は」

「そこに座ってくれ。いいか。あの――納豆女についてだ」


 譲の表情が、ほんのわずかに固まった。


「納豆……」

「あいつと俺が結婚するという話だ」

「ああ、そういう……ええ、噂はございますね。妊娠中だとか、何だとか。え!? まさか宗次郎様!?」

「いや、ない、それはない。ただ、俺とあいつが結婚するということについてどう思う?」

「けっ……結婚、ですか?」


定は目を白黒させた。


「いえ、さすがにマツ様やご当主様に反対はされるのではないかと思いますが……ええと、あの下女の」

「芙美だ。あいつが何を考えているのか分からない」

「はあ……」

「『芙美と呼んでいいか』と尋ねたら『いいですよ、私は宗治郎様のものなので』と言うのだ」

「それはそれは……ようございましたね……あのう、なぜ俺が呼ばれたのです?」

「違うんだ。それなのにあいつは、気軽に喋りたいと言っているのに『身分が違うからいやだ』などと言う」

「はあ……まあ、そりゃあ、そうですね」

「主側の俺が望んだら、従うのが筋じゃないのか?」

「うーん、微妙なところですね」

と、定は言った。


微妙、とは何だ。


宗治郎の眉がぴくりと動く。


「どこがだ」

「旦那様が主として命じれば、そりゃ下女たちは従うでしょう。でも、今の話は、男として望んでおられる」

「……何が違う」

「全てですよ。天地ほど」


定は淡々と答えた。年若いくせに、妙に冷静だ。

宗治郎は机の上の万年筆を弄ぶ。いっそ投げてやろうかと思うが、八つ当たりするには高価すぎて辞めた。


「旦那様は、命じれば手に入るものと、そうでないものを混同なさっているのではありませんか」


定は容赦なく正論を刺してきた。

こういうところが気に入って手元に置いているのだが、いかんせん反論できない。

執事頭の近江に似ていなくもない。


宗治郎はムスッとして言い返した。

「混同などしていない」


「しておられます。芙美は下女としては宗次郎様や旦那様方のものです。ですが、心は違う」


心。

そんな曖昧なものを持ち出されるとは思わなかった。


「心だと?」

「はい。あの方はおそらく、誰のものにもなりませんよ」


宗治郎は小さく舌打ちする。

誰のものにもならない? 下女の身で?


「買われた身だろう」

「ええ。身は、です。よろしいですか、宗次郎様がお相手をされてきた芸子や遊女の方々とは違うのですよ。慎ましやかで実直で、己を弁えている」


定は平然として指摘をする。

なんとなく合っている気がするのが、妙に腹が立つ。


「では、どうすればいい」

「何をです」

「……あいつに、こちらを向かせるには」


言ってから、宗治郎はわずかに顔をしかめた。

あまりに率直だ。

だが、他に言いようがない。


定は少しだけ考えた。ほんの数秒。

その沈黙がやけに長い。


「宗次郎様」

「何だ」

「上から下へと落とそうとするから、拒まれるんです」

「落とす?」

「恋だの情だのを、施しのように与えようとするからです。ああいう人は施しを嫌いますよ」


施し。


宗治郎の喉がわずかに動く。

図星を突かれた感覚がある。

施されたのはむしろ自分の方だ。


「では、どうしろというんだ」

「同じ高さに立つしかないでしょうね」


定はさらりと言った。

同じ高さ。


家を背負う自分と、下女が。


「無理だ」

「でしょうね。だから下女などお辞めになって、釣り合う身分の方と遊べばよろしいのではありませんか」


あっさり肯定されると、なおさら腹立たしい。

ぶすくれた宗次郎を見て、定はため息をついた。


「ですが、旦那様が本気なら」

定は少しだけ声を落とした。

「一度、命じるのをやめてみてはいかがでしょう」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         

「何?」

「主としてではなく、ただの男として。断られても腹を立てず、逃げ道を与え、待つ。あの人は追われると固くなりますよ」




――待つ。


宗治郎は椅子にもたれた。

待つなど、したことがない。

望めば手に入り、避ければ追われた。

自分から追い、しかも待つなど。


「馬鹿らしい」

「ええ、面倒です」


面倒。

それでも、胸のざわめきは収まらない。


定は扉へ向かいながら言った。

「旦那様は、拒まれたのが悔しいだけはありませんか。それなら放っておくのも、また彼女のためになりますよ」


扉が閉まる。

静寂。


宗治郎はしばらく動かなかった。

やがて、机上の講義録を乱暴に閉じる。


拒まれたことが悔しいだけか。


そう問われると、胸の奥が妙に熱い。

あの淡々とした目。

納豆を混ぜながら、真顔で語るあの声音。


媚びも、恐れもない。

自分を羽須賀の跡取りではなく、ただの一人の人間として扱う。


「……腹立たしい」


だが、その腹立たしさの正体が、単なる自尊心の傷ではないことを、自分でももう薄々気づいている。


命じれば来る。

それでは意味がない。


待つ、だと。

宗治郎は深く息を吐いた。


生まれて初めて、思い通りにならない相手を前にして、宗次郎は女性の心を本当の意味で手に入れるための方法を真剣に考え始めていた。



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