漆* 心誤り、友人
芙美を取り巻く環境は、本人の気が付かないところで、少しずつ変化していた。
「ほら……あれが、宗治郎様の……」
「まあ、あれが例の……」
羽須賀の屋敷ではひそひそ、と噂話がゆき交っていた。しかし、当の芙美はというと、忠実に業務を遂行しようと寝食を忘れるように書棚の整理をしていた。
しかし、なにぶん蔵書の数が多い。
多すぎる。
「いったいどこまであるのかしら……」
部屋の天井まである大きな本棚には、図録や版画だけでなく、西洋からの異文書まで置かれていた。
薬膳の好きが高じて、芙美は異国語も多少、理解ができる。
漢語と、蘭語は所々読めなくもない。
平民の分際でと言われるのが嫌で、公に言うこともなかったけれど、それが役に立った。
「ええと……これは、Ontleedkundige Tafelen……オンクトレェド……ううん。何かしら。解剖? 図譜かしら。わあ、人体の絵がある。医学書のようね」
中を見ると、難しい異国の言葉はあれど、人体を図示してある。
医学の心得のある、著名な博士か誰かが書いたのだろう。
興味本位でパラッと中をめくる。
「わあ……」
その本は芙美が見たことも無い、医学的な新鮮な知識に満ちていた。
芙美はつい、時間が経つのも忘れて中をじっと見つめていた。
だから、部屋の扉がノックされていることにも気が付かなかった。
トントン……。
トントン……。
トントントントントン……。
「失礼します!」
ガチャッと扉が開き、血相を変えた女中が飛び込んできた。
「芙美さんッ!? どちらにいらっしゃいますか!?」
「え」
ギクッとして顔をあげる。
思わず時間を忘れて、読みふけっていた。
目と目があう。
女中の娘は、近代的なモダンな顔つきをした愛らしい少女だった。
背丈は芙美よりもいくぶん低く、肩のあたりで揺れる栗色の髪をゆるく結っている。丸みのある頬にえくぼが浮かび、ぱちりとした瞳は小動物のように忙しなく動く。白い前掛けの裾には、どこかでつまみ食いでもしたのか、うっすらと小麦粉の名残がついていた。
小柄な体つきだが、手の甲には包丁だこがあり、台所で鍛えられたしなやかな指先をしている。食材を前にするときの真剣さが、そのまま人柄になったような少女だった。
これまでも女中が食事を運んできてくれていたようだが、部屋の前に出されていただけで、実際に話をしたことはなかった。
手にお盆とサンドイッチを持っている。
年の頃は芙美と同じくらいか、少しばかり年下だろう。
「よ、良かったあ……」
少女はほっとした様子で息をはいた。
近くの円形テーブルの上に、サンドイッチの入った盆を置く。
その仕草はどこか跳ねるようで、つい台所で鍋をかき混ぜるときの癖が出るのか、肘が小さく弧を描いた。
「ごめんなさい、私うっかり心誤りを」
「心誤り?」
「ええ。いつまでも返事がないから、もしや噂ややっかみを苦にやんで、最悪な展開になっているのでは……と不吉な想像をしちゃいましたよ」
言いながら、彼女は自分の想像に勝手に青ざめ、勝手に胸を撫でおろしている。表情がくるくると変わるところも、いかにも愛嬌があった。
「あ……ごめんなさい。資料の、整理に夢中になってしまいました」
芙美は言葉を濁した。
「資料、ですか……」
少女は部屋をぐるりと見回した。
天井まで届く書棚。
積み上げられた洋書。
開いたままの――人体解剖図譜。
芙美と少女の目が合った。
見られてしまった。
言い逃れはできない。
「これは……また、随分と物々しいものをご覧ですね……」
少女が追い打ちをかけてくる。
芙美は諦めて、ため息をついた。
「申し訳ありません」
人体図など変な趣味をもったおかしな女として噂になるのだろう。
もうこの屋敷にいるのも潮時かもしれない。
芙美がめげそうになっていると、少女は首を振った。
「いえ、そういうことではなく……あの、芙美さんは、洋書が読めるのですか?」
芙美は言いよどんだが、少女のまっすぐな目に嘘がつけないことを悟った。
「……まあ、読めるというか、読めるものもある、というくらいの、しょせんその程度ですが」
最大限に卑下したつもりだったが、少女は芙美の思いに反して、きらきらと瞳を輝かせた。
その瞳は、まるで新しい料理書を開いたときのように純粋な期待に満ちていた。
「あの! それでは、puréeというのは何でしょうか? ピュウレという単語がどうしても分からなくて」
「ピュウレ?」
「申し遅れました、わたし、花野と申します」
少女はぺこりと頭を下げた。
小柄な体が深く折れ、結い上げた髪がふわりと揺れる。頬にはまたえくぼが浮かび、いたずらっぽい笑みがのぞいた。
「新人の台所見習いです。いずれは料理番頭になって、羽須賀家の献立を一手に引き受けるのが夢なんです」
その声は小さいが、芯があった。
まるで弱火で煮込むビイフ・シチュウの鍋のように、静かで、しかし確かな熱を帯びている。
きらきらした目だった。
さきほどまで不吉な想像をして、真っ青になって震え上がっていたとは思えない。
それにしても料理番頭とは大きく出たものだ。
他の家ならともかく、羽須賀の家で、女性がそのような地位になったとは聞いたことがない。
小柄な身体で、壮大な野望を抱えているらしい。
「ええと、ピュウレ、というのは。どのような文脈で書いてあったのです?」
と、芙美はたずねた。
「ビイフ・シチュウです。トマトを『ピュウレ』するのだ、と。潰す? 刻む? どういうことか分からず、困っていたのです」
「ああ、でしたらそれは、つまり『裏ごし』をするという意味ではないでしょうか」
「なるほど! ああ、それなら意味が分かるわ! ありがとう、芙美さん」
花野は本当に料理が好きなのだろう。
芙美は微笑ましく思った。
「食事は人を作りますから。身体も、心も」
と、花野は言った。
その通りだ。
芙美が常々、思っていることと同じだった。
「薬膳と同じですね」
と芙美が言うと、花野は首を傾げた。
「薬膳?」
芙美は棚から一冊、和綴じの書を抜き出した。
「薬膳は、食事の療養のことを指します。例えばこの書は、食材の効能をまとめたものです。棗は気を補い、陳皮は巡りを良くする、といった具合に」
「陳皮?」
「みかんの皮のことです」
花野は身を乗り出す。
「ええっ、みかんの皮にそんな力が?」
「干して使うのです。咳止めにもなりますし」
「すごい……!」
二人は床に座り込み、本を広げた。
「じゃあ、冷え性には?」
「生姜」
「食欲不振は?」
「山薬か、蓮の実」
「わあああ……! 天才なの? すごい、もっと聞かせて」
気づけば、二人の距離はすっかり縮まっていた。
年の頃も同じということも分かり、ひとしきり盛り上がった。
「芙美さんがこんなに食材にお詳しいなんて、知らなかった」
と言った花野は、ふと真顔になって声をひそめた。
「ここだけの話だけど」
「あ、」
「芙美さんの屋敷での立場が、ものものしくなってるの」
「というのは……どのように」
「宗治郎様の愛人になってる、って」
「ええええ?」
芙美の声が裏返る。
「もうお手つきだとか」
「ええええ?」
「脱いで迫ったとか」
「えええええ?」
「寝所に突撃したとか」
「してない!」
思わず立ち上がって、芙美は声をあげた。
どれだけ恥知らずで、破廉恥な女という認識になっているのだろう。
ぞっとする。
花野はうんうんと頷いた。
「だよね。安心した」
「安心するところ?」
「一番、信憑性がある噂もあるわ」
まだあるのか。
芙美はどっと疲れてきた。
「宗治郎様の子をみごもったので、秘密裏に母屋の二階にかくまっている、という説よ」
芙美は、言葉を失った。
口が半開きになる。
「……みごもる、とは」
「そのままの意味よ」
「私は、宗治郎様と、ほとんど会話さえ」
「だよねえ。ごめん、噂だからあくまでも」
花野はしみじみと言った。
「芙美さんの様子を見たら、そんなのは嘘だってすぐ分かったよ」
「……でも、どうしてそんな噂が出たのかな」
花野は顎に指を当てた。
「宗治郎様が、この部屋の前で立ち止まっていたのを、誰かが見たとか」
「立ち止まるだけで?」
「あと、芙美さんの部屋が母屋の二階だから」
「私の部屋じゃなくて、寝泊まりしながら仕事をやってるだけ」
「それが特別扱いだ、と」
もう何を言っても曲解されるのだろう。
芙美は決心した。
「……早く整理を終える」
「え?」
「仕事を終えたら、ここを出られる。私はたまたま、ここの部屋の整理を仰せつかったというだけなの。仕事が終わったらまた離れのただの女中に戻るだけよ」
噂の中心でいる理由はない。
「でも、私はよかったなあ。芙美さんとこうしてお知り合いになれたわけだから」
と、花野が微笑んだ。
芙美もほっこりとした気持ちになる。
ここで、友人らしい友人ができたのは初めてだった。
花野がにっこりした。
「ではまず、薬膳の知識を活かして、今夜の献立を考えるわね。滋養強壮に良いものは避けて、出すようにするわ」
「なんで?」
「妊娠疑惑がますます高まるでしょう」
芙美は、初めて声を上げて笑った。
味方が一人できるだけでも、これだけ気が楽になるのだ。
これからもやっていけるような気がした。
その隣の部屋で、渦中の宗治郎は頭を悩ませていた。




