陸* 命令、教会
「だいたいお前は何様なんだ。俺が羽須賀の者だといえばコロリと態度を変えるなんて」
「いえ、ですが、あの、態度といいますか――」
いつの間にか本を片付け終えた宗治郎が、芙美の傍にやって来ていた。
なぜ、唇を尖らせてこちらを睨んでくるのだろう。
薄暗がりの中、少し距離が近い気がする。
端正な顔はぞっとするほど美しいのだが、整いすぎて現実感が無い。
西洋の映画のポスタアを観ているような気分だ。
背の高い宗治郎に見下ろされると、何とはなくいたたまれない。
芙美は熟考し、この状況を打破するべく口を開いた。
「僭越ながら――確認しますが、こちらは羽須賀のお屋敷ですよね」
「無論だ」
「そして、私はここで働いている一介の女中です。そして、羽須賀の跡取りでいらっしゃる宗治郎様。どう考えても、私が気安く喋りかけられるご身分では無いのです」
「誰が決めた。そいつを呼んでこい」
何という俺様、我儘、宗治郎様なのだ。
芙美は、分からず屋ッと叫びたい気持ちをぐっと堪えた。
温室育ちの坊ちゃんに理解できるように、巷の常識を伝えるというのがこんなに労力の要ることなのだろうか。
「俺がお前と気軽に喋るのに、邪魔が入るなら排除するだけだ」
世間体だとか常識だとか、そういうものを排除している。
現実離れした美しさの青年は、拒絶されることなど知らないのかもしれない。
芙美は気が遠くなるような疲労を感じながら、首を振った。
「宗次郎様。いいですか、一般的に、仮に下女が身分違いの名家の跡取りのご子息に、気安く言葉をかけたとしたら、どの下女は誰からも糾弾されるのです」
「誰からもというのは、誰なんだ?」
「女中仲間や、ご子息のご両親、親戚縁者、あるいはその噂を聞きつけた全ての民です」
「俺が構わないと言っている」
「ですから、身分というものはですね」
「うるさいな」
宗次郎は苛立っているようだった。
否、明らかに苛立っていた。
ランタンを床に置き、一瞬のことだった。
気付けば芙美は本棚に背を押しつけていた。
宗次郎はかがみこむように顔を近づけてくる。
芙美を自分の身体で囲うように、腕で棚に縫い止めてくる。
まるで植物標本か何かになったような心持ちになる。
もう逃げられないぞとでも宣言するかのように、男の素の逞しい腕が、にょっきりと着物の袂から伸びていた。
「宗次郎と呼べ。命令だ」
硝子のような冷たい瞳は、感情を映さない。
芸者の女たちがくらくらと床に倒れてしまうような、色気と圧倒的な美貌をかさにきた命令だった。
芙美はゆっくりと、震える唇を開いた。
「……厭です」
雪の降る夜にも増すほどの静寂が、書庫にしんと満ちた。
*
「いや?」
感情を映さない宗次郎の瞳に、このとき初めて明確な驚きが浮かんだ。
いや?
宗次郎は何度か、胸の中で反芻してみた。
いや。
嫌。
厭。
女性というのはそんなことを言うはずがない。
これまで宗次郎が相手にしてきた、女という生き物たちは、少し顔を寄せて囁けば、もしくは金をちらつかせて命令すれば、喜んで頷くはずだった。
だが、目の前の女は――芙美という下女は、聞き間違いでなければ、確かに『いや』と言ったのだ。
「……」
「……」
「……お前は何なんだ?」
と、宗次郎が言ったのも無理は無かった。
この瞬間、宗次郎の中で、芙美は女性というくくりの中から、何らかの別の存在になってしまったのだった。
「下女です」
と、芙美は全く見当外れな自己紹介をする。
「そうではない。そんなことは知っている」
「宗次郎様は、宗次郎様です。私は、お仕えしている方を敬わないことなどできません」
「その口調もか」
「はい、本来、宗次郎様は私たちが気安く喋って良い方ではありません」
「……離れの厨房では、もっと親しげだったろう」
「それは、元々のご身分を知りませんでしたから。失礼をしたことはお詫びいたします」
強情が過ぎる。
宗次郎にしてみれば、少しばかりの嘘をついた罪悪感と、脚気という大病を奇跡的に治してくれたことへの感謝が、ないまぜになって、思わず話しかけていたのだ。
下女とはいえ、命の恩人である。
恩義を感じていないといえば嘘になる。
だからこそ喋りかけているのだし、なんというか、芙美というこの女は、どことなく目をひくところがある。
底が見えない。
医師や祈祷師さえも投げ出した宗次郎の病の原因を、たちどころに見抜いて治してしまった。
これが奇跡でなくて何だろう。
死期が近いと思って自暴自棄になっていた宗次郎は、芙美の提案した食事療法で息を吹き返した。
あの腐った豆がどのように働いたのかは理解できなかったが、日増しに体に力がみなぎってくるのが分かった。
だからこそ直接礼を言いたかったし、魔術のようなあの知識の元を知りたかったし、できれば厨房で話していたときのように引き続き気安く喋りかけて欲しかったのだ。
しかし、希望は絶たれた。
壁に押しつけるようにして、やや強引に迫ってみても、この芙美という女には宗次郎の『最後の手段』が――、つまり『美貌』が効かない。
どんな相手でも、手練れの芸者でも、この顔で見つめれば全て願いを聞くはずなのだ。
それなのに、おかしい。
若い女性なら宗次郎にここまで接近されて、耳元で囁かれれば、だいたいは悲鳴をあげる。
ふと思い立って、宗次郎は芙美の耳元に顔を寄せた。
微かな花の香りがする。
座敷遊びでは嗅がないような、香を焚いたのではない、自然な香りだ。
丸く白い、柔らかそうな耳元に噛みついてみたい衝動を押し殺しながら、低い声で囁いてみる。
「俺は、お前を『芙美』と呼んでいいか」
さあ、赤面してうるんだ瞳でこちらを見上げて黙り込め。
宗次郎は遊戯盤の遊戯を愉しむような心で、腕の下にいる芙美の顔を覗き込んだ。
ぱち、と合った視線。
黒々とした長いまつげに縁取られた、おっとりとした、それでも芯の強そうな眼差しに射すくめられたのは、宗次郎の方だった。
「ええ、もちろんです。私は宗次郎様方の者ですから」
宗次郎にはこう聞こえた。
『私は宗次郎様のものですから』
宗次郎の脳裏で鐘が鳴った。
小高い丘に、流行のモダンな西洋建築が建っている。
白い壁の洒脱な教会が、ステンドグラスの光を受けてきらきらと夢のように輝いている。
『芙美は宗次郎様のものです』
と、愛らしい少女がドレスを着て微笑んでいる。
映画で観た景色だ。
まるで西洋絵画のような美しい風景に、宗次郎はそっと手を添え、果実のような唇に――。
脳内で結婚式をあげていた宗次郎が固まっているのを幸いと、芙美は猫のようにするりと抜け出ていった。
「では、お手間をわずらわせてしまい申し訳ありませんでした。それでは業務に戻ります。有り難う御座いました」
ランタンは一つになり、書庫はまたさらに薄暗くなった。
それは宗次郎にとっては幸いだったといえた。
誰にでも、見られたくない姿というのはある。
じわじわと這い上がる熱。
「……この俺が、結婚だと?」
耳たぶだけでなく首筋まで真っ赤にした宗次郎が我に返り、芙美への想いを自覚するまで、数刻の時を要した。




