玖* 焦慮、惑乱
お久しぶりです! またぼちぼち更新していきます。
宗治郎は少しばかり焦っていた。
命じないと決めたものの、これまで『命令』を呼吸のようにしてきた立場だ。どう振る舞えばよいのかが分からない。
だが、跡取りとして英才教育を受けて来た身は、何よりも行動を重んじていた。
そうだ、まずはとにかく動かなくては、何も始まらない。
この時点では、宗治郎にもまだ余裕があったのだ。
書庫で待ち構えていた宗治郎は、足音を聞きつけて、パッと顔をあげた。
散歩を待つ犬のような振る舞いであるのに、本人は気が付いていない。
何しろ、心がこんな状態になったのは初めてなのだ。
「失礼いたします」
と、いう声がした。
凜としているが優しい。
すがすがしい高原に咲く一輪の花のようだ。
信濃で見たヤマユリのような、高潔ささえ感じる。
宗治郎の恋の病状も末期なのか、この声を聞くだけで胸の奥がずんと熱をもったようになる。
宗治郎は読みかけの『心理学原理』の本を、パッと閉じた。そして、机に出していた『実証哲学講義』と『細胞病理論』の下に潜り込ませた。
実際、女性心理を研究するために読んでいたのだった。
しかし『心理学原理』をいくら原書で読み込もうと、いまいち芙美が何を考えているのか分からない。
「失礼いたしました。読書中とは気付かず、お邪魔いたしました」
芙美は丁寧に一礼する。
視線は伏せているが、卑屈ではない。
すぐに引き返そうとしたので、慌てて止めた。
「いや、待て」
「何かご用事でしょうか」
「昨日の話だが」
「どのお話でしょうか?」
小首を傾げるのが無駄に可愛い。
意識してしまうと、相手の全てがやけに可愛らしく見えてしまう。
宗治郎はンンッと咳払いをした。
「俺とお前のことだ」
「業務上のご相談ですか」
「違う。お前、俺のものなんだろう」
芙美は小さく首を傾げ、難しい顔で何かを考えていたが、ああ、と合点した。
宗治郎はわずかに息を整える。
「そうだな。ならば――」
「羽須賀家に所有されている人材という意味でございます」
数秒の沈黙が落ちた。
「……そっちか」
「はい」
即答だった。
羽須賀家の人材という意味。
それはすなわち、ただの従業員ということではないのか。宗治郎は今になってようやく、芙美も自分が壮大なすれ違いをしているのではないかという考えに思い至った。
「では、お前はーー俺個人のものではないのか」
「従業員は個人の所有物ではございませんので」
理路整然としている。
宗治郎はこめかみに指を当てた。帝華大学の討論でも、ここまで無駄のない返答は珍しい。
「では、失礼いたします」
「待て、ちょっと待て」
「は」
きょとん、とまんまるに目を開いてこちらを見るのは、小動物のようで愛らしい。
宗治郎は懐から、とっておきの贈り物を取り出した。
真珠の簪だ。華美すぎず、芙美の黒髪に合うと考えた品である。
「受け取れ」
差し出すと、芙美は簪を見つめ、それから宗治郎を見た。
「何の対価でしょうか」
「対価ではない」
「では、報酬の前借りでしょうか」
「違う」
「でしたら、私が頂戴する理由がございません」
「は?」
宗治郎の誤算は、女は皆、自分の手から渡した高価なものを喜ぶという常識にあった。
芸者でもそうでなくても、自分からの贈り物を喜ばない女など、これまで一度もいなかったのだ。ましてや拒否するなどあり得ない。
宗治郎はツチノコを見たような心持ちで、面前の少女をまじまじと見つめた。
珍妙な生き物全集に載せてやりたいくらいだ。
芙美は丁寧に礼をして静かに出ていった。
宗治郎は簪を握ったまま、呆然と書庫に取り残された。




