6
「やめろッ!」
突然の介入者に、男は動きを制止させた。
その一瞬の隙をついて、秀樹は力の限り男を突き飛ばした。
濡れた本を地面に落としたような、鈍い音が耳に入る――。
「芦名さん逃げて!」
秀樹は男を視界に入れたまま、警戒しながら叫んだ。
芦名はしばし躊躇するように当惑した様子を見せたが、すぐに振り返った。
芦名美希は路地を走って逃げていく。走る。長い髪をなびかせながら、走る。紺色のスカートを激しく揺らしながら、走る。秀樹の心が揺れる。走る――人目のある十字路まで行った。
結構な距離だったから、もう安心だろう。秀樹は芦名がそのまま曲がって行くかと思っていたが、しかし芦名はふいに立ち止まった。
それから秀樹のほうを振り返って、深く頭を下げて、上げた。
「――――」
女性の顔を見て、秀樹は息を呑み、全身を硬直させた。
彼女は秀樹のそんな反応も構うことなく、脱兎の如く身をひるがえすと、曲がり角に姿を消した。
秀樹はしばらく、呆然自失となった。さっきまでは、芦名を救うヒーローになれるという期待感が膨らんでいた。八重樫のいう脈の程度はわからないが、しかしこの行為はプラスに寄与するはずだという自信があった。
しかしいま、その膨らみきった期待感は勘違いという名の針に刺されて破裂していた。
顔をあげたときに前髪からのぞいたあの顔は――芦名美希ではない女性だった。
簡単なことだ。秀樹は勘違いをしていたのだ。
「っ……」
自分のものではない呻吟にかすれてつぶれた声が耳朶を打った。
完全に突き飛ばした男のことを失念していた。
視線を動かしてすぐ、秀樹は目をむいた。男が動いていなかった。突き飛ばしたときの姿勢のまま倒れていた。よく見れば、額が割れて、血が流れていた。
その現実を理解した途端、四肢が胸像のように強張った。近づくことができなかった。
意図したことによる理性というより、漠然としたなにか……強迫観念にも似た使命感に突き動かされるように、秀樹は身体が動いていることを認識する。まるで他人の身体を糸で操っているような心地だった。
どうにか男の脇にたどり着いた。
割れるような頭痛に、脳がうずいていた。
自分でも男のものでもない第三者から俯瞰した視点、あるいは録画された映像を見ているような感覚だった。いま身を置かれた状況に対しての現実感が、まるで感じられなかった。
「――――…………」
顎と舌が凍りついたように動かなかった。まともに声を出すことができなかった。
眼前で人間ひとりの命が絶たれようとしていた。
男に呼びかけ、生死を確認するという単純な作業が、恐怖感によって遮断されていた。そのくせ凍りつく口周りとは裏腹に、体中からは真夏の戸外にいるかのような汗が噴き出していた。
秀樹は男の身体をゆすった。
寒気によって手の末端の感覚が薄れていた。指先が震えている。そのせいか、ほんとうに男に触れているのかすら判然としない。それにもかかわらず、男の身体から流れ出る液体にだけは鋭敏だった。湿り気を敏感に脳へ伝えてくる。微細な温度の変化さえも感じられた。
ゆっくりではあるが確実に、体温というものが男の身体から消え失せていく。
秀樹はまともに働こうとしない頭を叱咤する。なにをしている。すべきことがあるはずだ。自分にできることがあるはずだ――なにか、なにかあるはずだった。
救急車を呼ぶ。
そんなまともな行動を取る思考力すら失っていた。
しかし無意識のうちに本能はそれを悟っていたようだった。左手がスマートフォンを求めて、ポケットへともぐりこんでいた。
「――ひっ」
取り出したスマートフォンを操作しようとして、秀樹は悲鳴を上げた。ホワイトパールの色をしたスマホカバーが、指の形に赤く染まっていた。男の情念がこびりついたかのようだった。
慄然としながら、男を見た。
赤、赤、赤、赤――。
男性の割れた額から、呼吸をするように噴き出して、赤色は広がっていく。
割れたアスファルトに沿って広がるその液体は、皮膚に浮き出る血管のようだった。
秀樹はなぜか、その様子を達観したように見つめていた。
この瞬間だけ、奇妙に頭が冷めていた。恐怖感があるのに、現実感がないからかもしれない。一歩引いてみると、男の頭の脇に、文庫本くらいの大きさに割れたコンクリートブロックが置かれているのに気がついた。その角には赤黒い液体に男のものと思われる皮膚のようなものがこびりついていた。
工事の関係者が置いていったのか。不良が遊び半分で持ち歩いて置いていったのか。
なんにせよ、秀樹も男も運が悪かった。
秀樹は、誘われるようにしてそのコンクリートブロックを手元に引き寄せていた。
もう一度だけ声をかけようとしたところで、男から流れ出る液体が自分の足元にまで広がってきていることに気がついた。その途端、靴底に血が付着するのと同時に身体が侵食されるような錯覚に襲われて、秀樹はその場に立ち上がった。
そのときだった。
通行人のひとりが惨状に気づいて声をあげた。
それは、またひとり、またひとりと急速にあたりへ伝播した。惑乱の波は止めようもない怒涛の勢いでたちまちに広がり、そこは阿鼻叫喚の場と化した。
「大丈夫ですか!?」
「だ、誰か救急車!」
「警察! 警察を呼んで!」
「おい、その子も顔が真っ青じゃないか!」
近くまできた人たちに声をかけられる。
実際とは異なる言葉が、秀樹の耳には届いていた。
「おまえがやったのか」
「どうしてこんなことをしたんだ」
「その手にもったコンクリートブロックで殴ったのか?」
はじめから秀樹を疑っているようだった。それはそうだ。過程はともかく、これは、自分がやったのだ。だが、過失なのだ。殺意があったわけではなかったのだ。秀樹はそれを説明したかった。
「…………ッ」
しかし、それすらも叶わなかった。
慌ててコンクリートブロックを投げ捨てる。
――違う! 違うんです!
――僕は、好きな人を助けたい一心で!
恐怖に硬直した顎では、身の潔白を――事情を説明することすらできなかった。
やがて、慄然と狼狽がない交ぜになった思考に翻弄されて、下肢の力が抜けていった。焦点の定まらない視界を脳裏が映し出したまま、糸を失った繰り人形のように、秀樹はその場にくずおれた。
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