第35話:わずかなズレ
音が流れ始めた瞬間、体は自然と動き出した。最初の数秒は驚くほど落ち着いていた。視界もはっきりしていて、周囲の位置も正確に把握できている。緊張はあるはずなのに、それに飲み込まれてはいなかった。
だが、その安定は長く続かなかった。ほんのわずかなズレ。自分にしか分からない程度の、小さな違和感。それが一つの動きに現れた瞬間、意識がそこに引き寄せられる。
修正しようとする。だが、その意識が次の動きを遅らせる。流れが崩れ、リズムからほんの少しだけ外れる。その“ほんの少し”が、思っている以上に大きかった。
周囲は変わらず動いている。音も止まらない。その中で、自分だけがわずかに遅れている感覚。取り戻そうとするほど、動きは硬くなり、さらにズレが広がっていく。
大きな失敗ではない。止まったわけでも、明確に間違えたわけでもない。それでも、届いていないという感覚だけが残る。
すべてが終わったあと、美咲は静かに息を吐いた。やりきったはずなのに、満たされない。成功とも失敗とも言い切れない、その曖昧さが胸に残る。
けれど、その奥には確かな感情があった。悔しさだった。今まで感じてきたものよりも、ずっと具体的で、逃げ場のないもの。
あと少しで届いたはずだった。そう思えるからこそ、その距離がはっきりと見える。美咲は目を伏せ、ゆっくりと拳を握る。
終わりではない。この感覚が消えない限り、まだ続く。そう思ったとき、次に向かう意志が、静かに形を持ち始めていた。




