15.くちづけ
そのまま、すっと楓が足を延ばし、更に一歩体を近づけてくる。このままではぶつかりそうと思い、やにわに身を引こうとすると、彼女の手が強く腕を掴んで離してくれなかった。
「かえ――」
ぶつかると、彼女の名前を呼ぼうとした瞬間、彼女の顔がすっと近づいてくる。
次の瞬間、私の唇へ、楓の口を触れた。
「あ……。」
驚きで微かに喉の奥から音を出していた。
一瞬、触れて、僅かに彼女が唇を離すと、すぐに再び唇が重なる。
彼女の唇が私の唇へ、強く押し付けれていくの感じていく。今まで触れたことも無いほど柔く弾力性のあるものが唇へとくっついてきて、そうして思わず吸い込んだ息とともに、彼女の甘い香りが鼻孔を通りすぎていった。
分けもわからぬままに、押し寄せてくる心地よい感触と甘ったるい香りに、どこか頭が混乱してしまっていると、不意に、更に柔くて熱を持った何かが唇へと触れてくるのを感じた。
彼女の口に押し広げられて、僅かに開いてしまっていた唇の狭間へ、ぬるりとした何かがその先端を触れさせてくる。
柔く、熱く、ぬめった感触に、それが、彼女の舌だと気が付いた時には、その厚ぼったい身の全てが、口の中へするりと侵入してきていた。
「んっ……。」
僅かに楓が吐息を漏らし、その温かい空気が二人の顔の狭間に漏れて、頬をくすぐる。
口内に自分のものとは、まるで異質に感じる温かく柔い物が触れてくる感触に、何かお腹の奥がくすぐったくなるような、奇妙な感慨を覚えてしまいながらも、目の前で弱々しく震えていた楓の姿を思い出すと、必死に腕を掴んできている彼女の体を引きはがすことなど出来なくって、仕方なく、彼女の腰へと腕を回して、その動きを受け止めた。
彼女の舌は歯から頬へ、頬から口の奥へとゆっくりと至る所へ触れるように動いていき、最後に舌に触れると、僅かにピクリと引っ込んだ。おずおずとその舌先を再び触れさせてきた。
舌と舌とが柔く形を変えながら触れあっていく。
そこに、僅かながら栗の花のような青臭い香りとどこか苦い味がした。
なんとなくそれで、彼女の口紅の乱れた姿や、必死になって口を濯いでいた理由が分かったような気がした。
「ごめん……ごめんね……遥香ちゃん……。」
ようやく口を離した楓は、消え入りそうな声で何度もごめんねと呟く。
目の前で痛々しいほどに表情を歪ませながら、またぽろぽろと涙を流し始めている。頬を伝うマスカラの線が、より濃く太くなって、ぽとぽとと落ちた水滴が黒くにじんでいって。受け止めるように腰に当てていた手を、そっと肩へと回しきゅっと胸元に楓の体を抱き寄せてみせる。それでも、彼女は胸の中でひっくひっくとしゃくりあげながら泣き続けていた。
「とりあえず、外に出よっか……。」
そう言うと、胸の中で彼女が頷いたのが分かった。
今にも倒れそうなほど、足を震わせている楓の腰へと手を回して、その体躯を支えながら歩き出す。トイレの通路からコンビニの店内へと戻り、棚の間を抜けて出口へと向かっていくと、一人の客が向こうからやってくるのが見えた。すれ違いながら相手が妙な目つきでこちらを見てくるのを、無視して構わずにドアへと歩いていく。
そのまま、自動ドアを開いて外に出ると、何か休めるところはないかと周囲へと目を向けた。視界の端に漫画喫茶の看板が見えて、楓の体をくっと引き寄せる。
「楓。とりあえず漫画喫茶で休もうと思うけど大丈夫?」
「うん……。」
弱々しく楓は頷いた。
ふらふらとして、すぐに蛇行しそうになっていく彼女の体を支えて、漫画喫茶の入り口へと向かう。押し扉式のドアを開け、中へと入ると、「いらっしゃいませ」と言う店員の声が響いてくる。すぐにこちらへと体を向けてきた店員の顔が、こちらを見て一瞬眉を僅かに顰めたのが分かった。何も言う気もなく、問われても無視ししようと思い定めながら、その店員のいたカウンターへと足を向ける。
利用したいことを告げると、店員はちらちらと楓の方へと視線を向けながら、それでも何も言わずに入店処理をし始める。
初めて利用する店だったせいで、学生証を出したりと面倒なことをありながらも、丁度空いていた、二人で入れる個室のペア席を取ることが出来た。
ブース番号と入店時間が書かれた伝票を受け取ると、楓の体を引いて店の中へと入っていく。その頃には、楓も少し気分が収まってきたのか、しゃくりあげるよな泣き声は収まっていて、ぽろぽろと零れていた涙も頬から消えていた。
それでも顔を俯かせたまま彼女は一言も喋らないで、辛そうにきゅっと私の服の裾を掴んでくる。
そんな楓の姿を横目に見ながら、僅かに唇を強く真一文字に結んでしまう。会う時はいつも明るく嬉しそうに笑っていた楓が、辛そうにしているのを見るのが、どうにもいらいらとして酷く落ち着かない気持ちになってしまう。
俯いて押し黙ったまま楓の手を引くと、漫画喫茶の店の奥へと歩き出す。通路の曲がり角に書かれたブース番号を見ながら、道を曲がり、自分たちの取ったブースの前へと辿りついた。ブースのドアを開いてみると、中は人が二人ほど横になっても十分すぎるほどの空間があって、足をちょっと登らせるほどの高さで黒いウレタンマットが敷かれていた。奥には備え付けの低い机とパソコンが置いてあったけれど、十分に寝そべられるような広い作りになっていた。
先にブースの中へと足を登らせると、楓の体をブースの中へと引っ張るようにしながら、マットの上へと座らせる。そうしてドアを閉めてみると、途端に、楓はしな垂れた花の様にマットの上へと体を横たわらせいく。嗚咽をすることはなくなっていたけれど、彼女の目からはまた涙が流れ始めて、今度は鼻の上を通って顔を横向きにマスカラの線を伝わらせていく。
荒く乱れた呼吸に伴って、不規則に上下する彼女の背中へと、手を当ててみる。
瞬間、僅かに楓はほうっと大きな息を吐いた。
掌を大きく開いて、彼女の背筋をゆっくりと撫でていくと、それで彼女の呼吸は少しずつ落ち着いていく。
「楓。何で泣いてるのか言える?それとも……言いたくないこと?」
尋ねると、掌を振れていた楓の背中が一瞬動きを止めた。彼女が僅かに息を止めたのが伝わってくる。
「言いたくない……。」
小さく震えながら、声を絞り出すように楓は言った。
「そっか……。」
そう返事をして背中を撫で続けていく。
ただどうしても気になってしまって一言だけ口にしてしまう。
「あのカメラマン……?」
そう口にした瞬間、楓は急に体を震えさせ、「っ…」と小さな悲鳴を上げた。
かたかたと震え始めた彼女の体に、慌てて体を寄せる。
「ごめん……ごめんね、楓。大丈夫だから。」
マットへと横たわっている楓の肩へと腕を伸し、自分もマットへと寝そべりながら、彼女の体を抱き寄せる。
胸の中で、楓は微かに「うぅ」っと小さな声を漏らし、そうして何も喋らなくなった。
楓が何も喋らないので、自分も一言も口に出さないでいると、そのまま静かに時間だけが過ぎていく。平日で人が少ないせいなのか、店の中から音が聞こえてくることもなく、申し訳程度に水の流れるような店内BGMが僅かに聞こえてくるぐらいだった。
「遥香ちゃん……。」
ふと、小さな声で楓が名前を読んできた。
「うん?」
「ありがとう……。」
楓がそう言うと、抱き寄せていた腕がきゅっと掴まれる感触がした。




