16.恋人として
一頻り泣き終わったのか、ふうっと小さく吐息を漏らして楓は体を大きく揺らす。
肩から体へと回していた手を離すと彼女は横たわらせていた体を起こしてくる。こちらも体を起こしてみると、楓はゆっくりとマットに手を置いて腰を上げて、こちらへと体を向けた。改めて見た彼女の顔は、化粧がぐちょぐちょに乱れてしまって、一目にも酷いと感じるような有様だった。
「落ち着いた?」
「ちょっと……。」
「顔汚れちゃってるよ。」
ブースの中に備えてあったティッシュ箱からを紙を二三枚取ると、楓の頬に垂れたマスカラの線へと手を伸ばす。左手で肩を掴んで、彼女の頬へとティッシュを押し当ててくいっと拭ってみる。楓はされるがままに、ティッシュが頬を擦るのを受け入れてくれる。ただ拭ったティッシュを少しずらしてみると、頬を伝っていたマスカラの黒いにじみは、むしろ広がってしまっているように見えた。
「ごめん。駄目だね。ちゃんと化粧落としとか落とさないと……。」
そう言った私の右手を、楓はきゅっと掴んで小さく首を振る。頬をこわばらせながらも、きゅっと唇を持ち上げて笑顔を見せた。滲んだ化粧で顔中ぐしゃぐしゃだったが、僅かにはにかんだ、その表情だけで、楓の顔は綺麗に見えてしまう。
「大丈夫。ありがとう。」
震える声で彼女は小さく言った。それでもやっぱり堪えきれないように顔を顔を歪めて一度俯かせる。
「あの……遥香ごめんね……。」
私の手を握ったままに、床を見つめながら楓は小さくそう言った。
「何が?」
彼女の謝罪の言葉の意図が本当に分からなくて問い返す。俯きながら楓は僅かに唇を噛んだあと、口の端を震えさせながら口を開く。
「キスしちゃって……ごめん……。」
そんな言葉を、ぽつりと彼女は口から零した。
「気持ち悪かったでしょ……?」
最後の方は消え入りそうな程小さな声になりながら、楓はまるで手首を切るかのような躊躇いがちな口調でそう言った。そうして、そこまで言われて、ようやくコンビニで楓にキスされたことを思い出した。
左手の親指で自分の唇へと触れてみる。
指先で唇の端をなぜながら、その瞬間の感触を思い出して首を振った。
「別に、楓なら……。」
そう返事をすると、楓は俯かせていた顔をゆっくりと上げて困惑した表情を浮かべた。
「本当……?」
「うん、楓なら――」
そう言葉を言い切る前に、楓が右手を伸ばしてきて肩へと触れてきたかと思うと、くっと力が込められた。
「あっ……。」
マットへと押し倒されてしまって、小さく声が漏れてしまう。
「楓?」
どうかしたのかと尋ねようとした時には、目の前に楓の顔が迫ってきていた。
倒れ込んだ体へと、彼女の体が重なって、肌に柔らかくて温かい感触が触れてくるのとともに、鼻先に彼女の甘い香りが漂って来た。思わず呆然として、彼女の顔を見上げてしまっていると、彼女の顔がゆっくりと近づいて来た。
僅かに開いた彼女の唇が、自分の口へと再び触れた。
吸い付くように彼女の唇は動いて、二人の唇の狭間で軽く水が跳ねるような音が鳴った。
握られていた手が、きゅうっと窄まって、一層に強く握りしめられていくのを感じる。
今度は、すぐに唇は離されて、そうして楓は抱き着くように体を密着させてくる。
私の顔の横へと彼女の顔が寄せられて、小さな声で彼女は
「ごめん。」
と、再び謝ると、ぐすっと鼻を鳴らす。
そうして、言葉にもならない今にも泣きそうな声を僅かに漏らした。
「大丈夫だから。」
抱き着いてくる楓の背中へと手を回し、ゆっくりと撫でていく。楓は鼻をぐずらせながら口を開く。
「私……私ね。遥香のこと、中学校の頃から、ずっと好きだったの……。」
ぽつりぽつりと口の中から言葉が零れ落ちていくような調子で、彼女は独り言ちていく。
「好きって。どの好き?」
自分でも何となく分かっていながらも、答えを彼女の口から聞きたくて、そう尋ねていた。
「恋、とかの……。」
彼女の返答に、何故だか満足してしまって、頬を緩めて頷く。
「そっか。」
「気持ち悪いでしょ?」
こちらの表情を見ていない楓は、不安そうに尋ねてくる。
「別に……。」
「そう……そうなんだ……。」
小さく呟いて、彼女はすっと息を吸い込むと、
「良かった……。」
肺腑の中から抱えていた不安を吐き出すかのように言葉を漏らした。
「中学の時にはね……。」
更に楓は言葉を続けていく。
「中学の時には、諦めようって思ったの。そう思って別の高校行こうって、決めたんだけど……。本屋に入っていく遥香ちゃん見つけた時嬉しくて……。思わず話しかけてた……。」
そこまで言い切ると、彼女は握っていた私の右手を離した。体を起こそうとしているのに気が付いて、背中を撫でていた手を離す。彼女はマットへと手を当てて、くっと体を持ち上げる。ふわりと彼女の髪が揺れて、僅かに一本だけするりと私の顔の上に落ちてきた。
「言えて良かった。」
そう言った彼女の表情はどこかさっぱりしているようにも見えた。
「それで?」
「それでって?」
「告白だけして。それで終わり?私の方には、何も聞かなくて良いの?」
「……聞く勇気ないよ……私。」
弱々しく目をそらした彼女に、ふっと息を吐いてしまう。
「私は楓の恋人にならなっても良いって思ったんだけどな……。」
「え……?」
「恋人になっても良いよって。」
彼女は信じられないような表情で、こちらを見てくる。
「嘘だよね……。だって、遥香ちゃん……。私のこと別に好きじゃないでしょ?」
尋ねてくる彼女の言葉に、ちょっと口に指を当てて考えてしまう。
「そうだね。好きって、そう言う感情が、私にはどういうものか良く分からないけどさ。」
「だよね……無理しなくても良いよ。なんかつらくなるから……。」
そう言う彼女を無視して、唇へと触れた指の感触に、彼女のキスされたときのことを思い出していく。
「でも、やっぱり。うん、多分。私、楓のこと好きなんだと思う。」
私の言っていることが良く分からないのか、彼女は不思議そうな顔をした。
「なんかさ昔の人が言ってたんだ。可哀想だたぁ惚れたってことよって。楓が泣いているの見て、嫌だなって、私が守ってあげたいなって、そう思ったから。きっと、私は楓のことが好きなんだと思う。」
少し困惑するように楓は視線を左右させる。
「それって何か、私の好きと違う気がする……。」
「そう?そうなのかな?私、今、結構ドキドキして告白したんだけど。ほら。」
楓の手を取って、胸元へと触れさせる。
「伝わるかな。」
「分からない……。……遥香ちゃんの肌柔らかいなってのが気になっちゃって……。」
「なにそれ。」
少し笑ってしまうと、彼女も小さく笑ってくれた。
そうして楓は一度視線を外して、すぐに私の方へと視線を戻して、躊躇いがちに口を開いた。
「遥香ちゃん……。私のこと本当に好き?」
何度言っても信じてくれない彼女に、私は思わず小さく溜息をついてしまう。
「むしろ、どうしたら信じてくれる?」
「じゃあ……、私とデートしたいとか思う?」
彼女の言葉に、首を傾げてしまった。
「楓に会いたいって思うから、今までも会いに来てたんだし。私。それって、デートしたいのと同じじゃないかな?」
「そう……。そうなんだ。」
何故だか嬉しそうに楓は笑って、それを見て、自分も頬を緩ませていた。
そうして、彼女はゆっくりと私の手を取ると、きゅっと握ってくる。
「遥香ちゃん。好きです……付き合ってください。」
そう言った彼女の言葉に、何も言わず大きく頷いていた。




