4.マニキュア
「遥香ちゃんって、本当に本が好きだよね。」
「まあ、好き……かな。」
「大好きでしょ?今もその本を触りながら、なんだかそわそわしてるし、本当は今すぐでも読みたいんじゃない?」
楓にそう言われて、自分が、テーブルに置いていた文庫本を何度も指で弄っていることに気が付いた。慌てて手を離すと、楓はくすりと笑った。
「読んだら良いんじゃない?」
「いや、流石に楓と話してるし。」
そう答えると、楓はえっ?と何か私が変なことを言ったかのように不思議そうな表情を見せる。
「中学の頃、私と話してる時も、ずっと本読んでたでしょ?」
言われて、思わず「え?」と素っ頓狂な声を漏らしていた。
「えっと、そうだった?」
あまり自覚がなくて思わず問い返すと、楓は軽い調子で頷いた。
「うん、いつも本読んでたよ。」
「それは。なんていうか、ごめんね。」
思わず謝ると、楓はむしろ楽しそうなことを思い出すように口元を緩めて首を振った。
「良いの、私は別にそれで楽しかったし。だから遥香ちゃんが今本を読みたいなら読んでよ。」
「でも、本を読んでる間、楓はどうするの?もう帰っちゃったりする?」
尋ねてみると楓は首を振って、こちらの顔をじっと見てくる。
「ううん。私は遥香ちゃん見てる。」
「え。変なこと言うね。」
思わずそう言ってしまうと、楓は困ったような表情を浮かべるから、すぐにそれが冗談だと気が付いた。
「まあ、私は珈琲飲んでるから。遥香ちゃんは本読んでよ。」
「本当に良いの?」
「うん、飲み終わったら教えるから。」
「ん、じゃあそれまで読んでる。」
少しだけ気後れしながらも、本を手に取ると、表紙を開いて左手だけで本をもつ。
掌で本を支えながら、親指で左側のページを支えて、小指を動かしてページを動かしていく。こうすると片手だけで本が読めるから、慣れてしまっていつでもこんな風に読むようになってしまった。
「昔も思ってたけど、その読み方器用だよね。」
楓の言葉に反応して、ちょっと本から視線を上げる。楓の目は私の左手の方へと向けられていた。
「そうかな。こうしてると、本読みながらテレビ変えたりとかできるし、電車とかで立ちながらでも読めるし、楽だよ。」
「本読むのが何よりも優先ってのが凄いよね。あ、ごめん。本読んでて。」
「話がしたいなら良いよ?」
「ううん。あ、でも、そう言えば右手って空いてるの?」
そう言って、楓はこちらの右手へと視線を向けてくる。
確かに本を読んでいる間は右手を使うことは殆どなくって、空いているといえば空いていたけれど、ただ、どうしてそんなことを訪ねてくるのかが良く分からなかった。
「うん、まあ、本読むときは空いてるかな。」
「じゃあ、本を読んでる間、触ってても良い?」
えっ、と思わず声を挙げて、本へと戻し始めていた視線を彼女の顔へと向け直していた。その表情は、冗談めかしたような雰囲気ではなくって、全く普通のことを言っているような顔をしていた。
「良いけど……。」
「やった。」
頷いてみると、嬉しそうに楓はこちらの手へと腕を伸ばしてきて、そっと包むようにして掌を握ってきた。
温かくて、酷く柔らかくて、滑らかな心地よい感触が掌に伝わってくる。その感触が懐かしい感じがして、ふと、朧げながらに中学校の頃を思い出していた。
楓に言われた通り、確かに彼女の前でもずっと本を読んでばっかりだったけれど、そんな時には、こんなふうに指を弄られていたような憶えがあった。すっと掌をの指先でなぞられる感触に、ちょっとだけこそばゆく感じながらも、本へと視線を落としていき、書かれている文へと意識を向けた。
ふと、仄かに肌寒く感じて顔を上げる。気が付くと日陰にあったはずの席にはライトが向けられていて、僅かに明るくなっていた。空を見上げればゆったりと流れていく雲は鮮明な紅色に染まり切っていた。随分と時間が立ってしまったと思いながら、楓はどうしたのかと視線を巡らせると、彼女は私が本を読み始める前と同じ席に座ったままで、今もまだずっと私の右手へと触れていた。
ただ、彼女が、伸ばしたこちらの指先に何やら小さな筆で塗っているのに気が付いた。
「楓。なにやってるの?」
尋ねると、はっと気が付いたように楓は顔を上げた。こちらが見ているのに気が付いて、目が合うと、ふわっと楓は笑顔を見せる。そう言えば、中学の時にもこんな風に笑っていたと、そんなことを思い出してしまいながらも、今は見た目が全然違うせいなのか、どうにも彼女の笑顔が妙にこそばゆく感じてしまう。
「本、読み終わった?」
何か指先へと動かしていた筆を止めて楓が尋ねてくるのに対して首を振る。
「ううん。まだ、全然だけど、それ何してるの?」
握られている指を、ちょっと動かしてアピールしてみると、彼女は僅かに舌を出して悪戯っぽく目を細める。
「実はマニキュア塗ってたの。」
「マニキュア?」
「うん、見てみて。」
ぱっと楓が手を離したので、握られていた右手を目の前に持ってきてみると、野暮ったいはずの自分の爪が薄くピンク色に変わっているの気が付いた。形は元々整えていないから、よくよく見れば綺麗なものではないけれど、パッと見には自分がおしゃれしているように見えて、何故だか気恥ずかしくなってきてしまう。
「なにこれ。」
思わず眉根を顰めて楓へと視線をむけてみると、彼女はこちらの不満など気にもしないように、すました表情で楽しそうにこちらのリアクションを見つめてきていた。
「モデルの時のメイク道具もってきててね。遥香ちゃんの指見てたら、なんかやりたくなっちゃって。」
「やりたくなっちゃってって……。」
桜色になってしまった爪を見つめながら、思わずため息をついてしまうと、楓は両手を合わせてこちらへ申し訳なさそうに首を小さく傾けた。
「ごめんね。嫌だった?」
「嫌っていうか、私には似合わないから。」
言い捨てるように言うと、途端に楓は強く首を振ってきた。
「似合わないことないよ。遥香ちゃんの指、細くて綺麗だし。爪の形は整えられなかったから、私のマニキュアだと変に見えるかもしれないけど……。」
「あ……楓が下手ってことじゃないよ?綺麗な色だと思うし。でも、なんかマニキュアしてるって見られるの恥ずかしいかな。」
「そう?」
「そう。」
「そっか……。」
寂しそうに楓が呟くのでちょっと申し訳なく思いながらも、言葉を続けた。
「だから、折角塗ってもらって悪いんだけど。取ってもらっても良いかな。」
「ん、うん。ちょっと待ってて。」
言いながら楓は机の上に置いていたポーチの中へと手を突っ込むと、かちゃかちゃと化粧品がぶつかる音をさせながら顔を覗き込ませる。しばらくそうしていて、中々見つからないのかと思っていると、楓は、ふいに「あっ」と声を漏らした。
「楓、どうかした?」
尋ねると楓は申し訳なさそうに俯きがちな顔でこちらを見上げてきた。
「ごめん、除光液持ってきてなかったかも……。」
「除光液って、もしかしてマニキュア落とすやつ?」
「うん。いつも家で落とすから……。」
「えっ……。」
「ごめん、本当にごめん……。」
「私、除光液とかそんなの、家にもないよ。」
「えっと、お母さんのとかは?」
「勝手に化粧品使うの怒られそうだし、なにより、どう使えばいいのか分からないし……。」
「そっか……あ、じゃあ。」
何かを良いことを思いついたのか、ぱちんっと音をさせて両手を合わせた楓は、何故か嬉しそうな表情を浮かべた。
「遥香ちゃん、明日もここに来れる?」
「まあ、来れるけど……。」
「じゃあ、明日も会おう?明日はちゃんと除光液持ってくるからっ。」
せがむ様に楓はこちらを見つめてくる。突然言われて、少し困惑しながらも、右手のマニキュアを見て仕方ないかなと頷いた。
「うん。分かった……じゃあ。明日会おうっか。」
「ホント?やった。」
そう言った楓は、顔を染めて今日一番の笑顔をみせていた。




