康稀の願い
康介の家、それは康介の実家で康介の両親が住んでいる。
私は緊張していた。
康介の両親と会うのも久し振りである。
康介、それから康介の両親と同じ時、同じ場所で過ごす時間など今まで少なく、片手で数えられる回数だった。
康稀の為に休日参観の前日、真由子と暮らす私の家に泊まって貰ったが、私は出来るだけ同じ時、同じ場所を避けた。
出来るだけ自室に居たのだ。
だが、今日はそういう訳にはいかない。
緊張が高まり、胸の動悸の音が康稀や康介に聞こえるのではないかと思うほどだった。
玄関で康介が「ただいま。」と言うと、康稀も「お祖父ちゃん! お祖母ちゃん! 来たよぉ―――っ!」と大きな声を出した。
「ひろくん! 来てくれたんだ。」
「まぁまぁ……ひろくん、来てくれたのね。」
「お祖父ちゃん! お祖母ちゃん! 僕ね、一人で電車に乗って来たんだよ。」
「聞いたぞ。」
「聞いたわ。」
「頑張ったな、でもな、もう二度と一人で来ちゃいけないぞ。
皆、心配したんだぞ。」
「そうですよ、心配掛けないようにして頂戴ね。」
「……うん、分かった。」
「父さん、母さん、杏さんも一緒なんだ。」
「まぁ! 杏さん!」
「良く来てくれましたね、杏さん。」
「お久し振りでございます。
この度は康稀が大変ご心配をお掛けしてしまいました。
申し訳ございません。」
「………止めて下さいよ。杏さん。
貴女から……そんな言葉を受けるような立場ではありません。
謝罪はこちらがすべきことです。」
「………………。」
「さぁさ、何時までも玄関で立っててもお腹は膨らみませんわ。
杏さん、中へどうそお入りになって下さいまし、ね。」
「ひろくん、お母さんをリビングへ連れて行ってあげて、いいかな?」
「うん! いいよ。お父さん。
お母さん、こっちだよ。」
康稀は直ぐに私の手を取って、急ぐようにリビングへ向かった。
康介の両親の前を通る時、私は頭を下げた。
「お母さん、早く早く!」
康稀は私を急かせた。
リビングに入ると、康稀は何時も自分が座っているソファーの隣に私を座らせた。
「お母さんは、ここ! 僕の隣だよ。」と嬉しそうに言った。
康介の母がキッチンへ向かったのを見た私は、直ぐに傍に行き、「お手伝い致します。」と言うと、康介の母はしみじみと少し溜息を吐いてから言った。
「こんな風に嫁と台所に立ちたかったわ………。」
「おば様?」
「ごめんなさい。」
「何をしましょうか?」
「じゃあ…………。」
その日、私は随分前のことを、康介の婚約者だった頃のことを思い出していた。
その頃の私は木元家に来ると、康介の母と一緒に台所に立って、康介の母の手伝いをしていた。
康介の母は涙ぐんでいた。
「康介が………なかったら………。」
そういう言葉が聞こえた。
小さな声だったが、私の耳に届いた。
全てはあの日から始まったのだ。
そう思いながら料理を食卓へ運んだ。
康稀は終始嬉しそうだった。
食事をしながら康稀は話した。
それは自然に話し始めたのだ。
「あのね、僕、お父さんと一緒のお家がいいの。」
「えっ?」
「だってね、友達のお父さんは一緒だよ。
だからね、僕、お父さんに一緒のお家がいいってお願いしに来たの。
電車に乗って一人で来たんだよ。
僕、一緒がいい。
お父さんとお母さん、お祖父ちゃんとお祖母ちゃん、ばぁばも!
皆、一緒のお家がいい。
ねぇ、お父さん、お仕事、まだ遠くなの?」
「康稀………あのね、お父さんのお仕事は………ずっと忙しくてね。
遠くなのよ。」
「でも!………でも、今日駅長さんとこにお迎えに来てくれたよ。」
「康稀………ごめんね。」
「どうして? お母さん、ごめん、って言うの?」
「………………康稀…………ごめんね、出来ないのよ。」
「どうして? どうして?」
康稀は泣き出した。
あんなに満面の笑みを見せていた康稀が泣き出して止まらなくなったのだ。
誰がどんな風に話しても、康稀の涙は止まらなかった。
明日は康稀が楽しみにしていた遠足だ。
康介は何も言えなかった。
その時、康介の父が私に話し掛けた。
「ひろくん、この家にお泊りに来る日を増やすのはどうだ?」
「お泊り?」
「うん、そうだ。日を決めるんだよ。」
「お泊り……しか出来ないの?」
「今はな、お父さんが忙しいからなんだ。
今日は、ひろくんの為に会社に無理を言って早く帰らせて貰っただけなんだよ。
遠いからね……帰って来るのに時間が掛かるんだよ。
本当は今日も遅く帰るはずだったんだよ。
だからね、前もってお泊りの日を決めておくんだ。
今よりも回数を増やすんだよ。」
「でも……お母さんは? ばぁばは?」
「………その……休日参観の時、私達が康稀君の家にお泊りさせて貰ったよね。
そういう日を決めるんだよ。
交代交代で、お泊りしあうんだ。
どうかな? それで………。」
「…………ずっと一緒がいい。」
「そうだよね。でもね、お父さんのお仕事は大切なんだよ。
お父さんが働いて、お母さんが働いて………お給料をもらってるんだ。
そして、お給料でひろくんの学習机とか買ったんだよ。
だから、お仕事は大切なんだよ。
分かるかな?」
「…………………駄目なの?」
「今はね………今は駄目なんだよ。
だから、交代交代にお泊りするのでいいかどうか考えてくれないか?」
「ひろくん………。」
「なぁに? お父さん。」
「お父さん、頑張って働いてるんだ。ひろくんの為に……。
お金はいっぱいあっても困らないけれども、少なかったら困るんだ。
食べる物も、着ている服も、電気も、水も、ガスも、皆お金を払ってるんだよ。
難しいだろうけどね。生きていくにはお金が掛かるんだよ。
だから、ひろくんが困らないようにお父さんも、お母さんも働いてるんだよ。
いつか、ひろくんと一緒に同じ家で……そうなれるようにお父さん、頑張るよ。
ひろくん、お泊りで許して貰えるかな?」
「…………分かった。」
康介は康稀をギュッと抱き締めた。
抱き締めている康介の目には涙が光っていた。
康介の父の目にも、母の目にも涙が光っていた。
私は罪悪感に包まれて、涙を流していた。




