産む決意
真由子が買って来た妊娠検査薬。
「検査薬は朝にね。起きて直ぐによ。
朝起きたばかりの尿は濃度が高いから正確に検査するために起きたら直ぐにね。
……分かった?」
「うん、ありがとう。叔母ちゃん。」
「兎に角、今日はもう寝ましょう。 全ては明日、よ。」
「うん、おやすみなさい。」
「おやすみ。」
私は寝付けなかった。
何度も康介の顔を思い出す。
初めての口づけ、初めて肌を合わせた夜……。
二人だけのクリスマス、二人だけの初詣、二人だけのバレンタインデー、二人だけのホワイトデー、そして二人だけの二人の誕生日。
その全ての記憶の中の康介は優しかった。
心から私を愛してくれていると思えた。
初めてのデートの時の康介の顔。
はにかむ康介の顔、大笑いしている康介の顔、感動している康介の顔、一度だけ見た康介の泣き顔。
色んな康介の顔を私は見て来た。
それなのに……今日見た康介の顔は……あんなに青白く暗かった。
あんな康介の顔を見たくなかった。私は見たくなかった。
康介の言葉が押し寄せて来る。
「好きだから誘ったんだ。」「他の男を見るなよ。」「僕のこと……好きか?」
「僕は杏と何時も一緒に居たい。」「僕の傍から離れるなよな。」
そして、「杏、僕と結婚して下さい。いい返事だけ受け付けるから……。」
「本当か! やったぁ―――っ! 杏は僕の妻だぁ―――っ!」
その時々の康介の顔を私は思い出して、胸が苦しくなった。
涙は止めどなく流れた。
結局、私は一睡も出来なかった。
**********
翌朝は日曜日。
⦅日曜日で良かった。⦆と私は思った。
起きて直ぐに妊娠検査薬を使った。
結果は陽性。
妊娠していた。
私は単純に嬉しかった。
捨てられたのに………康介の赤ちゃんが私のお腹の中に居ると思うと、嬉しくて涙が出た。
もう【産む】しか考えられなかった。
「これは検査薬だからね。病院で検査して貰おう。」
「うん、行ってくる。」
「一人で大丈夫?」
「大丈夫! お母さんになるんだもん。甘えては駄目だから……。」
「杏……産むって決めてるの?」
「うん。」
「苦労するわよ。それに、産まれてきた子に父親は居ないのだから。」
「うん、それは分かってるけど、中絶って赤ちゃんを殺すことだから。
私、したくない。」
「そうね……でも、考えようね。よぉ~く考えてから決めた方がいいわ。
子どもが出来たからって言って、男が戻って来るとは思わない方がいい。
もう……戻ることは……無理だと思うよ。」
「…………うん。」
「まぁ、病院での検査を受けてからね。」
「うん、そうする。明日、行くわ。
叔母ちゃん、暫くの間、ここに置いて下さい。
お願いします。」
「何言ってるのよ。私はそのつもりよ。ず~~っと居ていいんだからね。」
「叔母ちゃん………ほんとに、ありがとう……。」
「ほらほら、また泣いちゃって。」
「嬉しくて……。」
「妊娠してたら産むんでしょう。」
「うん。」
「だったら、母は強し!を目標にしなさいね。」
「うん。ありがとう、叔母ちゃん……。」
真由子は私を抱き締めた。
私は親から抱き締められた記憶が無い。
真由子から抱き締められる度に戸惑う。
泣き止んだ私を見た真由子はそっと離した。
「妊娠してたら3ヶ月かしらね。」
「3ヶ月?」
「丁度、悪阻が始まる頃よ。大抵の人は5ヶ月になると治まるわ。
たまに、私みたいに臨月まで続く人も居るけどね。」
「叔母ちゃん、赤ちゃん……居たの?」
「うん、居たわよ。
死産だったけどね。臨月までお腹の中に居て、出産の時に……。
…………重度の胎内仮死になって……そのまま死産……。」
「ごめんなさい。」
「なんで謝るの?」
「だって、辛くて悲しい事……思い出させちゃったから……。」
「もう、乗り越えました。
その後に主人まで亡くしたから……。」
「叔母ちゃん……。」
「あの人……子どもなんて居なくていい!って言ってくれてね。
それから、ずっと亡くなるまで私を大切にしてくれた。
白血病になんかならなかったら……生きていてくれたのに……。」
「白血病? 臍帯血とか無理だったの?」
「臍帯血バンク、あったのかもしれないけど、広まってはいなかったわ。
臍帯血バンクに参加してる病院が限られていたんじゃないかな?」
「少なかったの?」
「うん、多分そうよ。
主人が亡くなった直後かしら、広まっていったのは……。
主人ね、入院して落ち着いてたのよ。
それが急変したの。
あの日、子どもを失った日よりも……私は悲しかったな。
まるで身体の半分を持って行かれた感じになった。」
「叔母ちゃん……辛い事思い出させてごめんなさい。」
「大丈夫よ。」
「でも、叔母ちゃん……泣いてる……。」
「今も愛してるから……。
そうだ。杏、尻軽男ばかりじゃないわよ。
うちの人のように妻を大切にしてくれる男だって居るの。
いつか、時の流れを経て忘れられるようになったら、いい男も居る。
そのことを思い出してね。」
「……うん。」
「まぁ、今は無理だけどね。泣いてもいい。前を向ける日が来る。
開けない夜は無いんだから!ねっ。」
「はい。」
月曜日、私は会社を休んで叔母の家の近くにあるレディスクリニックに行った。
あれから、私はスマホを何度も見ている。
両親からの着信履歴もメッセージも全く無かった。
康介からも何も届かなかった。
その中、梓からだけは何度もメッセージが届いていた。
動画も写真もあった。
その動画や写真の中の康介の笑みは、幸せだった頃に私に剥けられていた笑みだった。
二人が仲睦まじく過ごす様子、口づけ、それも深い口づけをしている動画もあった。
その動画に梓は「お姉ちゃん、雄介さんとディープキスしたことある? 私はこんなに深いキスをしてるんだよ。もうお姉ちゃんには無理だよね。」というメッセージを添えている。
「梓、日本ではディープキスが深い口づけの意味だけどね。
それ、英語圏では通じないよ。
英語ではmake outかFrench kissって言うんだよ。」
そうメッセージを入力した。
でも、止めた。こんなメッセージ、子どもじみたメッセージを送ると、梓と同じ土俵に上げってしまう。
同じ土俵に上がりたくなかったから私は入力したメッセージを削除した。
返信せずに梓と両親をブロックした。
スマホの中に梓と両親の連絡、全てを削除した。
ただ、康介の連絡先は削除出来なかった。ブロックも出来なかった。
康介への想いを断ち切るつもりだったが、今はまだ愛しているから康介との繋がりを切りたくなかった。
愚かなことだった。




