下層からの呼び声
今回は少し趣向を変えて、GRIDではなくSECを軸にした話です。
これまで地表での任務を中心に描いてきましたが、その間もネオ・ヘイヴンの地下では多くの人たちが日々を暮らしています。
今回はその中でも、これまであまり描いてこなかった下層へカメラを向けてみました。
地表とはまた違うLASTSKYを楽しんでもらえたら嬉しいです。
下層第19居住区のさらに下、居住者が普段使う通路から保守用の階段を3層降りた先では、古い換気管が低い天井いっぱいを這っていた。壁へ後付けされた補助電力線と細い給水管がその隙間を縫い、一定間隔で並ぶ作業灯のうち2つは何年も前から色温度が違ったまま交換されていない。
「おい、これまだ締めるのか?」
脚立の上からローウェン・ハースが聞くと、床へしゃがんで接合部を確認していたイアン・ロークは、工具を置かないまま答えた。
「そうだ、規定値までいってないからな」
「十分だろ。空気は通ってる筈だ」
「通ってればいいなら俺たちは要らないだろ」
「壊れたら呼ばれて、来て、直す。それで仕事になるじゃないか」
「壊れる前に直すのも仕事だろ」
「それじゃ呼ばれる楽しみがなくなるんだよ」
「楽しみにしてるのはお前だけだからな」
ローウェンは配管の上へ片腕を預けたまま笑い、イアンが締め直している固定具の番号を読み上げた。
「5番、もういいんじゃないか?」
「まだだ、もう少しやるよ」
「6番は?」
「さっき終わったはずだ」
「7番」
「お前がやっただろ」
「ああ、そうだった」
「ったく。だから信用できないんだよ」
文句を言いながらもイアンが手を伸ばすと、ローウェンは要求される前にトルクレンチを落とさないよう柄から渡した。
こういう時だけは言葉が少なくても間違えない。2人で同じ保守班に入ってから十数年、子供の頃から数えればもっと長く一緒にいるため、仕事中に必要な癖だけなら互いに嫌になるほど知っていた。
最後の固定具を締め終えたイアンが圧力計へ端末を繋ぐと、換気管の奥で低く回っていた送風機の音が少し変わった。数値が規定範囲へ収まり、ローウェンは待ちかねたように脚立から降りる。
「ほら、終わった。やっぱり空気は出た」
「締め直したからな」
「締める前から出てたって話だよ」
「お前と話してると、何のために整備してるのか分からなくなるな」
「そりゃ、空気を出すためだろ」
「いや、そういう意味じゃなくてだな」
保守通路の先では別系統の排気弁が開き、湿気を含んだ風が金属格子から流れ出した。冷たいわけでも、新鮮な匂いがするわけでもない。居住区を何度も循環してきた空気が処理設備を通り、また下層へ戻ってきているだけだ。
ローウェンはその風へ顔を向けた。
「なあ、イアン」
「ん?今度は何だ」
「外の風って、どんな匂いするんだろうな」
端末から測定ケーブルを外していた手が止まるほどの質問でもなかった。ローウェンは以前から時々地表の話をする。どこまで本気なのか分からないのも、いつものことだった。
「さあ?雪の匂いじゃないか」
「雪に匂いなんてあるのか?」
「知らないけどな」
「じゃあ何で言ったんだ」
「俺に聞くからだろ。地表へ出たことがないのはお前と同じだ」
「けど、GRIDの連中は知ってるんだよな」
「そりゃまあ、仕事だからな」
「いいよなあ。一回くらい見てみたいよ。本物の空」
「アバレントもセットだけどな」
「そこだけ別売りにしてくれないかな」
「そいつは無理な話だろ」
「はぁ、夢がないねぇ」
「あるよ。次の給料日までこの換気管が止まらないこと」
「随分小さい夢だな」
「はっ!現実的って言え」
イアンが機材ケースを閉じる横で、ローウェンは自分の工具箱から古い絶縁ドライバーを取り出した。長く使った柄には手垢が染み込み、先端も何度か研ぎ直されている。
「なあ。これ、お前いる?」
「何でだ?これ気に入ってただろ」
「新しいの買おうと思って」
「まだ使えるだろ」
「さっきからお前、壊れる前に交換しろって言ってなかったか?」
「配管の話だ。お前の工具は使えるうちは使え」
「都合いいな」
「それに、お前が工具買い替えるなんて珍しいだろ」
「俺だってたまにはな」
ローウェンはそれ以上説明せず、ドライバーを工具箱へ戻した。
「腹減った。終わったなら上がろうぜ」
「まだ記録が残ってるだろ」
「ああ……」
「忘れてたな?」
「忘れてないって。今思い出したんだ」
「それを忘れてたって言うんだよ」
2人は作業灯の下で点検記録を入力し、保守通路の奥から聞こえる送風機の回転が安定していることを確かめてから、並んで階段へ向かった。
ローウェンは途中でも地表の話を続ける。
イアンも途中までは付き合っていた。
その頃はまだ、それが何日も頭から離れなくなる会話だとは思っていなかった。
4日後。
下層第19居住区の朝は、上層のように照明の色が大きく変わることでは始まらない。夜間に落とされていた通路照明の出力が少し上がり、閉じていた露店のシャッターが順番に開き、換気設備の運転音へ人の声と調理器具の音が重なっていく。
SEC――Security Enforcement Corps。
ネオ・ヘイヴン内部の治安維持を担い、巡回から犯罪捜査、容疑者の拘束、事件や事故の初動対応までを受け持つ保安組織である。地表へ出てアバレントと戦うGRIDとは違い、その仕事場は人間が暮らす地下都市そのものにあった。
濃紺の制服とベレー帽、左肩へ掛けた短い半肩ケープを身につけた2人のSEC隊員が、朝の下層を歩いていた。
巡回主任のオルド・フェインと、その下で数年働いているナディア・レイン。
オルドとナディアの2人が巡回路へ入った時には、通路の半分近くまで商品箱を出している部品店の主人が、昨日と同じ場所に昨日より1箱多く積んでいた。
「おっと、そこまでだ」
オルドが言うと、主人はケーブル束を抱えたまま足元の白線を見た。
「なんでだよ、昨日はここまでよかっただろ」
「昨日はその箱がなかったからな」
「これくらい通れるんじゃないか?」
「朝はな。昼になったら向かいも出すだろ。両方やったら担架が通らなくなる」
「それだったら、向こうにも言えよ」
「向こうには昨日言った」
主人は少し考え、追加した箱だけを店内へ戻した。
「これでいいか」
「ああ。あと、その電源線また床這わせてるな」
「分かったよ。今日中に上へ上げる」
「昨日も聞いたぞ」
「今日こそやるよ」
「本当だな?明日まだあったらナディアに切らせるからな」
「えぇ?!私ですか?」
急に仕事を増やされたナディアが横から聞くと、店主はオルドより先に答えた。
「こいつ若いから本当に切りそうだ。今日やるよ」
「ちょっと!私、そこまで融通利かないように見えます?」
「主任よりはな」
「言っておくがな、褒められてないぞ」
「そのくらい分かってますよ」
店を離れてから、ナディアは肩越しに半肩ケープの位置を直すのではなく、腰の端末へ追加した巡回記録を確認した。
「主任、本当に明日切るんですか?」
「先に片づけるよ、あの親父は」
「じゃあ私の名前出す必要なかったでしょう」
「俺の名前じゃ昨日片づかなかったからな」
「そういう使い方するんですね、部下を」
「便利だろ?」
「はい。主任に対する評価、ひとつ下げました」
「ははっ、まだ下がる余地あったのか」
「結構ありますよ」
ナディアが記録を閉じる頃には、オルドは次の角を曲がっていた。
下層勤務になって数年経つが、オルドと歩いていると、規則をそのまま適用するだけでは片づかない場面が多い。通路へ物を出すこと自体は違反でも、全部を即時撤去させれば商売が成り立たなくなる店もある。一方で放置すれば避難経路が塞がる。オルドはその境目を住民の顔と一緒に覚えている。
「ところで主任」
「なんだ?」
「さっきの店、明日片づいてなかったら本当にどうします?」
「その時は俺が線を切るよ」
「えー!結局切るんじゃないですか」
「3回言って駄目ならな」
「なら最初からそう言えばいいでしょう」
「最初から言ったら、あの親父は3日目まで待つだろ?」
「……なるほど」
「感心するところでもないけどな」
通路の先で小さな人だかりができていた。
露店が並ぶ表通りではなく、古い店舗区画と排水路の間に残された細い側道だった。数人が足元を覗き込み、そのうちの1人がSECの制服を見つけて手を上げる。
「オルド、こっちだ」
「今行く。踏むなよ」
「踏んでねえよ」
人を外へ寄せながら入ると、側溝の金属蓋の脇に細いバンドが落ちていた。
認識バンドだった。
輪にはなっていないもの。
留め具を外したのではなく、本体の柔軟部を刃物で切断されている。
ナディアは周囲の足跡を踏まない位置からしゃがみ、胸部記録装置の範囲へ収めた。
「誰が見つけたんですか?」
「俺だよ。店開ける前にゴミ拾ってたら光ってたんだ」
露店主が答える。
慣れないSECの聞き込みにそれはどこかぎこちなかった。
「これ、触りました?」
「いや。認識バンド切るなんて普通じゃないだろ。だから呼んだ」
「下手に触らなくて正解でしたね」
ナディアが認識・検査端末を近づけると、破損した本体からでも最低限の登録情報は読み出せた。
「所有者、イアン・ローク。35歳。第19区居住。下層インフラ保守局の作業員です」
オルドはバンドそのものより、側溝へ続く床の汚れを追った。普段から油染みと錆が残る通路だが、壁際にだけ新しい擦れ跡があり、その先の旧店舗へ向かって細い褐色の跡が続いている。
「ナディア、バンドはそのまま保全しろ。店の裏、誰か使ってるか?」
「そこはずっと空きだよ」
露店主が再び答えた。
「何年も前に修理屋が潰れてから誰も入ってない。もっとも、裏のシャッターだけ半分壊れてるがな」
「入口に人を置く。誰も入れるなよ」
オルドは近くを巡回していた別のSEC隊員へ現場保全を頼み、ナディアと旧店舗へ回った。
表側のシャッターは錆びついて閉じたままだったが、側道へ面した保守扉は下部が歪み、人ひとりなら横向きで通れる隙間ができている。
内部には店だった頃の棚が残り、その奥に昔の設備点検口があった。
褐色の跡はそこまで続いていた。
「これ、血ですね」
「たぶんな」
オルドは無理に先へ入らず、床と壁を記録してから進んだ。
倒れていた男は、点検口の手前に残された古い資材箱の陰にいた。
30代半ばほど。下層インフラ保守局の作業服を着ており、側頭部から後頭部にかけて乾いた血が髪へ固まっている。片腕は身体の下へ入り、もう片方は胸元近くに曲がっていた。
ナディアは近づく前に生体反応を確認し、端末から返った結果を見て呼吸を一度整えた。
「死亡しています。時間は鑑識班を待たないと出せませんが」
「触らなくていい。周囲から取ろう」
床には争ったような乱れがある一方、財布代わりのクレスト端末や工具は残っていた。作業服の胸部には名札がなく、認識バンドも装着されていない。
ナディアは側道に残された切断済みのバンド情報をもう一度表示した。
「年齢も職業も合います。体格も登録情報から大きく外れてません」
「今の段階ではイアン・ロークとして扱う。ただし確定は鑑識が入ってからだ」
「はい」
オルドが店の奥を調べている間に、ナディアは管区へ殺人事案として連絡し、鑑識担当と追加の現場要員を要請した。
「見たところ、強盗ではなさそうですね」
「金を取らずにバンドだけ切るなら、別の理由があるだろうな」
「もしかして自分で外した可能性は?」
「いや、自分で外すなら、ここまで雑に切る必要はないだろうな」
資材箱の角には乾いた血が付着していた。
男の頭部損傷と位置関係を見れば、ここへ強く打ちつけられた可能性が高い。
オルドは結論を口にせず、鑑識へ残すため周囲をそのままにして店を出た。
表では露店が次々と開き始めている。
油で焼いた薄い生地の匂いが流れ、どこかの店が古い送風機を回し始め、事件を知らない子供が通路の向こうを走っていた。
旧店舗の周囲だけが規制帯で切り取られても、その隣ではいつもの朝が続いている。
「主任!」
「何だ」
「イアン・ロークの勤務先、ここから近いですよ」
「よし、鑑識班が来たら行こう。まず、最後に誰といたかを拾う」
「家族はどうしますか?」
「登録上は単身だな。そこも勤務先で聞く」
ナディアは端末へ必要事項を追加した。
「下層の事件って、こういう始まり方が多いんですか?」
「死体から始まるのが普通だと思うなよ」
「そういう意味じゃありませんけど」
「分かってる。……けど、ここじゃ認識バンドが本人確認のほとんど全部になってる人間もいる。上の医療区みたいに過去の検査記録が綺麗に残ってるわけじゃないから、身元確認は慎重にやれ」
「さっきイアン・ロークとして扱うって」
「扱うのと、決めるのは別だ」
ナディアはその言葉だけ記憶へ残し、旧店舗へ到着した鑑識担当へ現場を引き継いだ。
下層インフラ保守局の第19区詰所は、事件現場から歩いて15分ほどの場所にあった。
天井の高い設備区画を壁で仕切っただけの施設で、入口からでも工具棚と作業服を乾かす送風ラックが見える。朝の班交代を終えたばかりらしく、何人かの作業員がまだ残っていた。
イアン・ロークの名前を出すと、班長を名乗った男の返事が止まった。
「……何があった」
「今朝、第19区の旧店舗で男性の遺体が見つかりました。現場にイアンの認識バンドが残されています」
ナディアが答えると、男は椅子へ座り直した。
「死んだのか」
「まだ正式な身元確定前です。イアンについて聞かせてください」
「イアンの何を?」
「まずは昨日って勤務していました?」
「いや。昨日から来ていない。連絡もなかった」
「無断欠勤の常習犯か?」
「イアンが? ははっ!あるわけない」
迷いのない答えに疑いの余地はなかった。
「5分遅れるだけでも連絡してくる奴だ。工具の位置が1つ違うだけで誰が触ったって聞いて回る。面倒なくらい真面目だったよ」
「最近、揉めていた相手はいませんか?」
「知らんな。あいつ、愛想は良くないが喧嘩するような奴でもない」
オルドは壁際に並ぶ個人ロッカーへ目をやった。
「よく組んでたのは?」
「ローウェンだな。ローウェン・ハース。あいつら昔から一緒だ」
「今日ローウェンは?」
「そういえばそっちも来てないな」
ナディアの指が端末の入力欄で止まった。
「2人とも?」
「ああ。ローウェンはたまに遅刻するし、連絡忘れることもあるから朝はそこまで気にしてなかった。でもイアンまで来ないっていうなら……」
「最後に2人を見たのは?」
「一昨日の夕方くらいかな。第19補助換気系の点検を終えて戻ってきた。それからは知らない」
「2人の関係は?」
「あいつら、兄弟みたいなもんだよ。親がどうとかって話じゃなくて、ずっと一緒だったって意味でな。子供の頃から同じ区画で育って、仕事まで一緒だ」
班長は少し考え思い出したように話を続けた。
「喧嘩ならしょっちゅうしてたけど、あれを喧嘩って言うのかね。イアンが細かいこと言って、ローウェンが聞き流して、その次の日にはまた一緒に仕事してる」
「そのローウェンはどんな人ですか?」
「イアンと正反対だ。適当。大雑把。点検表の書き忘れも多い。ただ、危ない作業で人を置いて逃げるような奴じゃない。現場じゃちゃんと見るところは見てたな」
「最近、何か変わった様子は?」
班長はすぐには答えず、奥のロッカーを見た。
「そういやローウェン、私物を減らしてたよ」
「いつ頃からです?」
「ここ1か月くらいか。古い工具を人にやったり、使ってない作業着を処分したり。本人は『物が多いから』って言ってた」
「イアンの方は?」
「あいつは逆だ。何でも取っておく。いつ使うんだって部品まで分類して残してる」
オルドが立ち上がった。
「2人のロッカーを確認したい。職場側の立ち会いを頼めるか」
「構わん。ただ、ローウェンは何か関係あるのか?」
「まだ何も決めてない。2人とも出勤してない以上、確認するだけだ」
班長立ち会いのもとで開けたイアンのロッカーは、本人の性格を聞かなくても分かるほど整っていた。予備の手袋は折り畳まれ、工具の消耗品には交換日が書かれ、次回点検予定をまとめた紙まで磁石で留められている。
ローウェン側は雑然としていたが、雑然としている割に物が少ない。
棚の一角だけ妙に空いている。
「前はここ、もっと詰まってた?」
ナディアが聞く。
「工具とか私物とか、何でも突っ込んでたよ。最近人に配ってたからな」
奥に残された紙束を確認すると、通常の作業メモに混じって下層の露店で配られている小さな広告片が出てきた。
粗い印刷で書かれていたのは、地表環境の情報でもGRIDの募集でもなかった。
《外へ出たい者へ。正規登録不要。経路あり》
連絡先の代わりに短い識別符号だけが載っている。
「これ、見たことあります?」
班長は紙を受け取り、顔をしかめた。
「最近たまに見るな。地表へ出せるって触れ回ってる連中だろ。馬鹿馬鹿しい」
「ローウェンさん、地表の話をしてました?」
「前からな。あいつだけじゃない。この辺じゃたまにいるよ。上は本当のこと隠してるとか、地表は寒くないとか、GRIDだけいい場所を独占してるとか」
「班長はどうです?」
「こんなモン信じると思うか?」
「一応の確認ですよ」
「そもそもの話、地表が楽園なら、何で装備つけたGRIDが死人出して帰ってくるんだよ」
それはもっともな答えだった。
広告片を保全袋へ入れた時、オルドは空いたロッカーの棚をもう一度確認する。
「ローウェンは、ただ話してただけじゃなさそうだな」
ナディアも同じことを考えていた。
「行く準備をしてた?」
「少なくとも、何かを片づけてたのは確かだ」
午後になっても、死体の身元を裏づける新しい記録はほとんど出なかった。
下層には応急処置を行う診療所はいくつかあるが、上層や中層の医療区のように長期の身体情報を一括して残す設備はない。イアン・ロークには重大な治療歴もなく、認識バンド、年齢、体格、職種が一致している以上、暫定身元を覆す材料がないまま時間だけが進んだ。
一方、ローウェンの認識バンドは都市側から正常な応答を返していなかった。
端末故障なのか、故意に通信を切ったのか、破損したのかまでは分からない。
「2人揃ってバンドが死んでる」
ナディアは巡回詰所へ戻る途中で記録を見直した。
「片方は現場に残ってた。もう片方は行方不明。偶然では考えにくいですね」
「考えにくいけど、まだ並べてるだけだ」
「主任、こういう時っていつまで慎重なんです?」
「間違えた時に戻れるところまでだ」
「それ、答えになってますか?」
「なってるだろ」
午後の下層は朝より人が多い。
露店の間を歩きながら2人はローウェンについて聞き込みを続けた。修理屋では古い工具を安く譲っていたことが分かり、食料店では最近まとめ買いをしなくなったと言う話や、小さな賭場の前では「地表の話ばっかりしてた」と笑われ、その隣の再生部品店では「本気だったんじゃないか」と違う答えが返ってくる。
「何でそう思ったんです?」
「金だよ」
店主は壊れた循環ファンを分解しながら答えた。
「あいつ、細かい金なんか気にしない奴だったのに、最近値切るようになった。何か欲しい物でもあるのかって聞いたら、『空を買う』って言ってた」
「空?本当にそんなこと言ったんですか?」
「ああ、その時は俺も笑ったよ。そしたらあいつも笑ってた。ただ……」
店主は外した羽根を作業台へ置いた。
「いつもの冗談とは少し違ったな」
「イアンさんは一緒でした?」
「何度か。地表の話になると嫌そうだったよ。『くだらない話を真に受けるな』って」
「揉めていた?」
「いや。いつもの2人だ。ローウェンが適当言って、イアンが怒る。それだけ」
店を出ると、ナディアは広告片の写真と証言を同じ事件記録へまとめた。
「ローウェンがブローカーへ金を払っていた可能性、かなり出てきましたね」
「そのブローカーが本当に地表へ出せるなら、俺も驚くけどな」
「あるわけないですよね?」
「そもそも地表へ通じる経路を個人が売ってるなら、SECより先に都市管理局が大騒ぎしてるだろうよ」
「じゃあ詐欺?」
「たぶんな。ただ、今追ってるのは殺人だ。そっちへ全部持っていかれるなよ」
「はい」
返事をして数歩進んだところで、ナディアの端末へ鑑識から追加記録が届いた。
洗浄後の遺体写真と、手指・手首の詳細記録だった。
ナディアは歩いたまま一度開き、数メートル先で止まった。
「主任、主任!」
「おう、どうした」
「これ、ちょっと見てもらえますか」
表示したのは死体の左手首だった。
汚れと乾いた血が除去された皮膚に、細い帯状の色差が残っている。
「これって、認識バンドの装着痕ですよね」
「ああ、長く着けてた痕だな」
「でも現場にあったイアンのバンド、班長が言ってたんですよ。イアンは右につけてたって」
聞き込みの途中で出た何気ない情報だった。
左利きのイアンは細かな工具作業の邪魔になるため、認識バンドを右手首へ着ける癖があった。
死体に残っているのは左手首の痕だった。
オルドは写真を拡大し、続いて手の記録を開いた。
「掌も出せるか」
「はい」
右手の親指と人差し指の付け根には厚い作業ダコがあり、左手より明らかに摩耗が強い。
「班長、イアンは左利きって言ってたな」
「はい」
「ローウェンは?」
「右です。工具も全部右」
ナディアはしばらく画面を動かさなかった。
「……この人、イアンじゃない」
「その可能性が高い。鑑識へ再照合を頼め。ローウェンの職場写真か、顔の分かる記録も集める」
「じゃあ切られてたバンドは」
「ああ、死体のものじゃない」
ここまで積み上げてきた捜査記録の意味が変わった。
死亡したと思っていたイアン・ロークは、まだどこかにいる可能性がある。
そして行方不明として探していたローウェン・ハースが、旧店舗の床に横たわっている。
「主任、これからどうします?」
「どうします?って行くしかないだろ」
「イアンを探すんですか?」
「まずローウェンで身元を確定する。それからだ。間違えたまま追えば、また違う人間を探すことになる」
夕方までに職場関係者2名が写真と身体特徴からローウェンである可能性が高いと証言し、SECは暫定身元を変更した。
同時に殺人事件の重要参考人としてイアン・ロークの所在確認が始まった。
通信記録の詳細照会には管区責任官の承認を取り、切断される直前の認識バンド移動記録と、ローウェンが使っていた端末に残る限定的な送受信先を照合する。
そこで初めて、広告片に記されていた識別符号と繋がる記録が出た。
指定されていた場所は、第19区よりさらに外縁に近い旧物流層。
現行の都市交通図では使われていない昇降設備が残る区画だった。
「地表行きの集合場所にしては、それっぽいですね」
移動中、ナディアが旧図面を端末へ出した。
「それっぽく見せるために選んだんだろ」
「この昇降機、本当に上へ繋がってないんですか?」
「途中で終わってるよ。旧物流層が再編された時に上側の軸を埋めてるから、今動かしたって3層上までだ」
「じゃあ完全に……」
「売った奴が何を信じてたかまでは知らん。ただ、ここから地表には出られないのは確かだ」
旧物流層へ降りるほど人通りは減り、照明の間隔も広くなった。壁際には使用停止になった搬送レールが残り、現在も動いている設備の振動だけが床を低く伝っている。
指定地点の旧昇降機前には誰もいなかった。
だが、その手前の待機区画から足音が聞こえる。
オルドはコンパクトシールドへ手を掛けず、ナディアにも合図だけで左右を分けた。
待機区画の奥に男が1人座っていた。
作業服ではない。古い上着に小さな荷物をまとめ、足元には水と保存食が置かれている。
右手首には何もない。
「イアン・ロークだな」
名前を呼ぶと、男はゆっくり顔を上げた。
逃げる素ぶりはみられない。
「……誰から聞いた」
「お前の職場と、ローウェンの残した物からだ」
ローウェンという名前が出た途端、イアンの目つきがが変わる。
「あいつを見つけたのか」
「ああ」
「……そうか」
ナディアは少し離れた位置を保った。
「あなたの認識バンドも見つけました。ローウェンさんの遺体の近くで」
イアンは否定しない。
「俺だと思っただろ」
「最初はな」
オルドが答える。
「よく考えたつもりだったか?」
「まさか、考えてなんてないさ」
「じゃあ何であんなことをした」
「考えられなかったんだよ」
声は怒鳴るほど強くならなかった。
むしろ、自分の言葉をどこへ置けばいいのか分からないように途切れた。
「死ぬなんて思わなかった。あいつを止めたかっただけなんだ」
オルドは続きを急かさなかった。
旧昇降機の内部で停止した機械が時折熱を逃がし、冷却管の中を流れる液体の音が壁越しに続いている。
「ローウェンは地表へ行こうとしてたんですね」
ナディアが聞く。
「ずっと馬鹿な話してたよ。外は本当は暖かいとか、空の下には誰もいない街が残ってるとか、上の連中が下層を逃がしたくないから隠してるとか。俺は何度もやめろって言った」
「それでも準備していた」
「……あいつ、何も考えてないような奴なんだ」
イアンは膝の上で両手を組んだ。
「昔からそうだった。金がなきゃ次の給料日まで何とかなるって笑うし、配管から水漏れてても朝まで持つって言うし、危ない仕事でも先に入ってく。だから今回も、そのうち飽きると思ってた」
けれどローウェンは工具を人へ譲り始めた。
金を使わなくなった。
勤務交代を頼み、部屋の荷物まで減らした。
他の誰かなら気づかなかったかもしれない変化を、イアンだけは拾ってしまった。
「あのドライバー、俺にやるって言ったんだ」
イアンの声が少し掠れた。
「あいつ、物を捨てないんだよ。俺より適当なくせに、気に入った工具だけはずっと使う。それを俺にやるって……それで分かった。あいつ、戻ってくるつもりがないんだって」
その日の仕事が終わったあと、イアンはローウェンを問い詰めた。
「お前、本当に行くのか」
保守区画の記録端末を閉じようとしていたローウェンは、最初はいつものように笑って誤魔化そうとした。
「何の話だよ」
「地表だよ。工具配って、金貯めて、勤務まで変えてる。いつ行く」
ローウェンの手が止まった。
「……明日だ」
「明日?明日だって?」
「ああ、そうだよ」
「何で黙ってたんだ」
「言ったら止めるだろ、お前」
「当たり前だろ。そんなもの詐欺に決まってる」
「まだ分からないじゃないか」
「分かるよ。知らない奴に金払って、認識バンド切って、どこかも分からない昇降口へ行けば地表に出られる? お前、本気でそんな話信じてるのか」
「だったらどうしろっていうんだよ」
普段なら聞き流すローウェンも、その時は引かなかった。
「このままずっとここにいるのか? 毎日同じ配管見て、壊れたら直して、また次の配管行って、それで終わりか?」
「それで生きていけるじゃないか」
「ただ生きてるだけだろ」
「地表へ行ったら、その生きてる事もできなくなるかもしれないんだぞ」
「その時はその時だ」
「そういう話じゃない!」
声を荒げたのはイアンだった。
ローウェンは数秒だけ黙り、それから疲れたように息を吐いた。
「なあ、イアン。俺、お前にも来てほしかったよ」
「バカ言え、行くわけないだろ」
「知ってるよ。だから1人で行くんだ」
「おい、勝手に決めるな」
「俺の勝手だろ」
「お前、死ぬかもしれないんだぞ」
「だから何だよ」
「行くなって言ってるんだ!」
イアンはローウェンの胸元を掴んだ。
それは止めるため。
あの時の自分は自信を持ってそう思っていた。
「何するんだ、離せよ」
「行かないって言え」
「嫌なこった」
「目を覚ませ、ローウェン!」
「俺は行くよ。お前が来ないなら1人で行く」
腕を払われても、もう一度掴んだ。
ローウェンも今度は強く押し返す。
「いい加減にしろよ!」
その言葉で何かが切れたのだと、イアンは言った。
危険だから止めたかったのか。
自分に黙って決めたことが許せなかったのか。
幼い頃からずっと一緒だった相手に置いていかれるのが怖かったのか。
本人にも、もう分からない。
ただ、怒りに任せて両手で強く押した。
ローウェンは後ろへよろめき、保守区画の旧設備を支える金属製の角へ頭を打ちつけた。
倒れ方がおかしかった。
いつもなら転んでも悪態をついて起きる男が、その時は動かなかった。
「最初は……気絶しただけだと思った」
イアンは旧昇降機の床を見たまま続けた。
「呼んだよ。何回も。起こそうとした。でも……」
死んでいると分かったあと、どれくらいその場にいたのか覚えていないという。
逃げなければと思った。
SECへ連絡しなければとも思った。
どちらもできなかった。
ローウェンの荷物から、地表行きの広告と支払い証明の小さなデータ片が出てきた。
「それ見て……あいつがあれだけ行きたがってたなら、せめて俺が行こうって思った」
「ローウェンさんの代わりに?」
ナディアが聞く。
「そうだよ」
力なくイアンが答える。
「……そう思ったんだ」
自分の認識バンドを切り、ローウェンの近くへ残した。
死体を旧店舗側へ移し、ローウェンのバンドは破壊して別の廃棄設備へ捨てた。
自分が死んだと思わせ、その間にローウェンが買った地表行きの権利を使うつもりだった。
「俺が行って、外を見て……もし本当に空があったら、それで……」
続く言葉が出てこなかった。
オルドは旧昇降機へ一度顎を向けた。
「イアン。この昇降機は地表へ行かない」
「……どういうことだ?」
「これはな、3層上で軸が塞がってるんだ。ずっと前に廃止された物流設備なんだよ」
「違う。ここから上へ行けるって」
「行けないんだ」
「でも俺は金を払ったんだぞ。ローウェンも――」
「地表へ出るチケットなんてものはない」
今度はナディアが続けた。
「非正規ルートを売っていた連中については、これからSECで調べます。でも少なくとも、あなたが持っている情報で地表へ出ることはできません」
「じゃあ別の場所が」
「ない」
オルドの声は強くなかった。
「それと、地表は楽園でもない。外は寒い。普通の装備で長く歩ける場所じゃないし、アバレントもいる。GRIDが地表へ出る時に装備を固めるのは、誰かを地下へ閉じ込めるための芝居じゃない」
イアンの両手から力が抜けた。
「そんな……」
「お前らが聞かされてた話がどこから始まったかまでは、これから調べる。ただ、ローウェンが買ったものは地表への道じゃない」
「じゃあ……」
イアンは立ち上がろうとして、途中で膝を床へついた。
「じゃあ、あいつは……」
両手が床へ落ちる。
「俺は……」
息を吸っても、その先の言葉が続かない。
「何のために……何のために、こんな……!」
オルドもナディアも答えなかった。
答えを示せる人間はいなかった。
ナディアが拘束具を取り出す間も、イアンは逃げようとしなかった。両手首を前へ出すよう促されると従い、立ち上がる時だけ足に力が入らず、オルドが片腕を支えた。
旧物流層から戻る通路でも、イアンは何も話さなかった。
数時間前まで地表へ向かう入口だと思っていた昇降機は背後へ遠ざかり、下層へ続く照明の列だけが3人の前へ伸びていた。
管区へ戻る分岐に差しかかったところで、ナディアが歩調を変えずに尋ねた。
「主任、ブローカーの件は?まさかこれで終わりって事はないですよね?」
オルドは前を歩くイアンから目を離さない。
「当たり前だろ、このまま放っておけるか。こいつを引き渡したら、今夜から洗うぞ」
2人の間を歩くイアンの両手には拘束具が掛かり、その歩みだけが周囲を行き交う住民より遅れている。
オルドとナディアはその速度に合わせたまま、SEC下層管区詰所へ向かっていった。
第32話「下層からの呼び声」、ここまで読んでいただきありがとうございました。
序盤から存在していたSECですが、今回は初めて彼らの仕事や下層での立ち位置をしっかり描いてみました。
GRIDが地表の危険と向き合う組織なら、SECは地下都市の中で人間同士の問題と向き合う組織です。
ここまでSECを掘り下げるつもりは最初なかったんですが、作ってみたら思った以上に面白い2人になりました。
これからもネオ・ヘイヴンという街そのものを、少しずつ広げていければと思います。




