見えない最前線
皆さま、いつもお読みいただきありがとうございます。
今回は少し視点を変え、これまで前線を支えてきた「オペレーター」にスポットを当てたお話です。
剣アークブレードを振るう者だけがGRIDではありません。
戦場へ立つ隊員達を、見えない場所から支え続ける者達もまた、GRIDの一員です。
彼らの仕事ぶりを楽しんでいただけたら嬉しいです。
壁面へ埋め込まれた4枚のモニターが、窓のない個室を青白く照らしていた。
正面の主画面には、ネオ・ヘイヴン北東部から地表へ伸びる昇降路と、その先に広がる旧環境観測区画の立体地図が表示されている。左右の補助画面では第3小隊5名の認識情報と装備状態が待機表示のまま並び、卓上へ斜めに組み込まれた通信波形モニターには、まだ接続されていない回線の基準線だけが静かに流れていた。
モニターの下にはニューラルリンク制御卓が広がり、幾つもの操作面と端子が狭い空間へ隙間なく収められている。壁際を這う太いケーブルは天井近くで束ねられ、絶えず回り続ける換気ファンと機材の冷却音が、潜水艦の内部を思わせる低い唸りとなって室内へ籠もっていた。
背後には資料棚と小型冷蔵庫があり、その上へ載せられたコーヒーメーカーから、わずかに焦げたような香りが漂っている。長時間座り続けるためのリクライニングチェアには薄い上着が掛けられ、卓上の端には何度も洗われて表面の艶を失ったマグカップと、封を切った栄養バーが置かれていた。
狭いがここに必要なものはすべて揃っている。
その中央で、椅子へ浅く腰掛けた青年がマグカップを片手に、第3小隊の出撃準備が整うのを待っていた。
年齢は20代半ばを少し過ぎた程度だろう。自然に横へ流したアッシュブラウンの髪には寝癖らしい跳ねが僅かに残り、目元にも夜勤続きの薄い疲労が滲んでいる。細身の身体を包むオペレーター制服は襟元こそ少し緩められていたが、機材へ向かう姿勢には妙な崩れがなく、片手でマグカップを傾けながらも、もう一方の指は待機中の情報を順に確かめていた。
気の抜けた雰囲気とは裏腹に、制御卓とモニターだけは綺麗に整えられている。操作面に余計な物はなく、接続端子から伸びたケーブルにも乱れはない。私物と仕事道具の境界だけは、誰に注意されるまでもなく守られていた。
主画面の端で通信要求が点灯すると、青年は飲みかけのマグカップを置き、指先で回線を開いた。
「おはようございます、レイジ隊長。今日もずいぶん早いですね」
『出撃時刻を決めたのは管理局だ。俺じゃない』
耳元へ届いた声と同時に、待機表示だった認識情報が一つずつ実体を持ち始める。レイジ、ツキノ、アシュ、セイル、ダリウス。装備区画にいる5名の位置が重なり、それぞれの心拍、体温、酸素供給系、アークブレードの蓄電量が補助画面へ流れ込んできた。
「管理局へ文句を言っておきます?」
『代わりに行ってくれるなら頼む』
「ぼく、地下勤務なんですよ。地表へ出たら5分で泣きます」
『5分も持つのか』
「隊長の背中へ隠れますので」
『それは随分と邪魔な話だ』
レイジの向こうでアシュが笑い、セイルが何かを呟いた声まで通信へ混じる。ノアは波形を調整して余計な反響だけを削りながら、ツキノの戦術バイザーと地図情報の同期を確認した。
「ツキノさん、バイザー側の地形更新は入ってます?」
『確認しました。北側の崩落地点が旧記録と異なっています』
「さすが、早いですね。こちらでも再計算しておきます」
『お願いします』
「アシュさんは装備を振り回して整備士さんに怒られてません?」
『今日はまだ怒られてねぇよ』
「“まだ”なんですね」
『うるせぇな』
セイルのボウ型アークブレードでは照準補助系の寒冷地補正が完了し、ダリウスの大型バトルアックスにも異常はない。最後にレイジの大剣型アークブレードの放熱機構を確認すると、ノアは出撃前の記録を保存し、第3小隊全員の回線を同一階層へ束ねた。
今回の任務は、北東外縁に残された旧環境観測区画の安全確認だった。
かつて地表環境の変化を記録していた施設群の一部を、環境整備局が新たな保守拠点として再利用する計画が進んでいる。だが、長年放置された区画の内部構造も、周辺に棲息するアバレントの分布も、最後に調査された時点から大きく変わっている可能性があった。
第三小隊の役目は施設までの経路を確認し、内部へ侵入できる状態かを調べ、環境整備局が作業班を送り込めるだけの安全性があるかを判断することだった。
討伐を目的とした任務ではないが、危険がないわけでもない。
「観測区画周辺では直近30日以内にガルムの目撃が7件、レイス級が2件です。大型種の確定情報はありませんが、旧地下配管の一部が地表へ露出しているため、センサー反射が不安定になる可能性があります」
『要するに、行ってみないと分からないってことだな』
「隊長が好きなやつですよ」
『好きで行ってるわけじゃない』
「説得力ないなぁ」
通信越しにレイジが鼻で笑う。その軽い反応を聞きながらも、ノアの目は主画面から離れていなかった。
昇降機への移動開始を示す表示が灯り、5つの認識情報が装備区画からゆっくりと動き始める。
「接続維持はこのままで。昇降機へ入ったら一度通信品質を確認します」
『了解。お前はちゃんと朝飯食ったのか?』
「食べましたよ。栄養バー半分」
『それを食ったとは言わないんだよ』
「ぼくの部屋では言うんです」
『残りもちゃんと食えよ?』
「帰ってきたら考えますね」
『いや、俺たちが帰る前に食うんだ』
ノアは返事の代わりに通信感度の確認音を一度だけ鳴らし、椅子から立ち上がった。第三小隊が地表昇降機へ到着するまでには、まだ十数分ある。コーヒーメーカーへ空になりかけたマグカップを置き、追加の抽出を始めてから背後の扉を開いた。
個室の外には、同じ幅の扉が一定間隔で並ぶ細い廊下が伸びていた。
扉脇の表示には担当部署と在室状況だけが淡く浮かび、GRID専属オペレーターの部屋に混じって、地表通信管理や装備遠隔診断を担当する職員の個室も並んでいる。大人数が集まる管制室とは違い、ここで働く者たちはそれぞれの扉の向こうで担当する小隊や設備と向き合い、廊下で顔を合わせても短い挨拶を交わす程度だった。
ノアは片手を制服のポケットへ入れ、もう片方の手でマグカップを持ちながら廊下を歩いた。眠そうな目元には薄い笑みが浮かび、姿勢だけは不思議なほど真っ直ぐに伸びている。
曲がり角の先から、薄い資料端末を片手にした男が歩いてきた。
黒髪は短く整えられ、額にも襟元にも乱れがない。オペレーター制服は規定通りに着込まれ、首元を留める細い金具も寸分違わず中央へ収まっていた。眼鏡のない端正な顔立ちは派手ではないが、落ち着いた目元と無駄のない立ち姿が、すれ違う職員の視線を自然に引きつける。
「お疲れさまです、エルドさん」
「お疲れさまです、ノア」
エルドは歩調を僅かに緩め、ノアの持つマグカップと、その奥でまだ眠気を残す顔を順に見た。
「これから第3小隊の地表任務ですか」
「はい。環境整備局の事前調査です。第8小隊は?」
「午後から待機に入ります」
「ヴァルカ隊長、ちゃんと待機できます?」
「できなければ、させますよ」
「頼もしいなぁ」
「当然の業務ですから」
即答したエルドの表情はほとんど動かなかったが、声には諦めにも似た僅かな重みが混じっている。ノアが笑うと、エルドは資料端末を持ち直し、第3小隊の出撃時刻を頭の中で計算したらしく、廊下の時計へ一度だけ視線を向けた。
「接続開始まで、あまり時間がありませんよ」
「分かってます。コーヒーを補充したらすぐ戻ります」
「3杯目ですか」
「まだ2杯目ですね」
「先ほどレイジ隊長との回線で、2杯目だと話していたようですが」
ノアはマグカップを見下ろした。
「聞こえてたんですか?」
「廊下まで響いていましたもので」
「防音、弱いですねぇ」
「ははは、あなたの声が大きいだけですよ」
エルドはそう言い残し、乱れのない歩調で廊下の先へ進んでいった。
ノアも数歩進んでから振り返る。
「エルドさん」
呼び止められた男が肩越しに顔を向ける。
「ヴァルカ隊長に、今日も無茶しないよう伝えておいてください」
「毎回伝えています」
「ですよね」
「改善は見られません」
「でしょうねぇ」
二人はそれ以上足を止めず、それぞれ反対方向へ歩き出した。
個室へ戻ったノアが扉を閉めると、地表昇降機へ入った第3小隊から接続要求が届いていた。マグカップを所定の位置へ置き、リクライニングチェアへ身体を預けながら、ニューラルリンク制御卓へ両手を載せる。
認証からの通信層の確立。
隊員ごとの神経信号へ直接触れない範囲で、位置情報と感覚補助系を同期させる。5名の認識情報が線で結ばれ、地図上に一つの小隊として再構成されていくのを確認すると、ノアは各回線を順番に開いた。
「第3小隊、ニューラルリンク接続を開始します。違和感があれば今のうちに言ってください」
『眠い』
最初に返ってきたのはアシュだった。
「それは接続のせいじゃありません」
『腹減った』
「それも知りません」
『冷たいなぁ』
「ぼく、今日はもう別の人から冷たいって言われる予定なので間に合ってます」
『何だそれ』
ノアは答えず、アシュの感覚補助設定を僅かに下げた。地表で視覚情報が増えた時に負荷が偏りやすいことを、本人より先に把握している。
「ツキノさん、バイザーとの表示重複は?」
『問題ありません。地形情報だけ共有してください』
「了解です。セイルさんは風速補正をこちらで上乗せします。現地へ出てから実測値へ切り替えますね」
『お願いします』
「ダリウスさん、左肩の装甲接続が前回より少し遅いです」
『動作には支障ありませんが』
「今はですね。帰還後に整備へ回してください」
『承知しました。よく見ていらっしゃる』
「見てるのが仕事ですので」
最後にレイジの回線へ焦点を合わせる。心拍も呼吸も安定し、装備状態にも異常はない。
「レイジ隊長」
『何だ』
「今日は調査任務ですからね。建物を壊して近道を作らないでください」
『俺を何だと思ってる』
「過去の任務記録を根拠に話してます」
『記録を消せないか?』
「そこは管理局へご相談ください」
昇降機が上昇を始めると、壁面カメラから送られてくる映像が主画面へ表示された。
レイジは大剣を傍らへ立てて壁へ背を預け、ツキノはバイザー内の情報を確認している。アシュとセイルは向かい合って座り、ダリウスは大型の斧が通路を塞がないよう固定具へ収めていた。
これまで、地表へ向かう者たちの目に映っていたのは、軋む昇降機の壁と、その先で待つ白い地表だけだった。
ノアの目の前には、そのすべてが情報となって並んでいる。
上昇速度、残り距離、外気温、地表側の風速、昇降路の振動、5名の心拍と呼吸。互いに無関係に見える数字の中から、任務に必要な変化だけを拾い上げ、余計なものは隊員へ渡さない。
情報は多ければいいわけではなく、必要な瞬間に、必要な相手へ、必要な形で届かなければ意味がなかった。
昇降機が地表側の最終区画へ入る頃、主画面の端へ外部観測値が流れ始めた。風速は予測より低いが、旧配管群から発生する反射ノイズが既に索敵画面へ混じっている。
「現地は弱い降雪。視界は500メートル前後ですが、露出配管の反射で北側の索敵精度が落ちています。近距離は目視とツキノさんのバイザーを優先してください」
『了解』
レイジの返事と重なるように、昇降機の隔壁が開いた。
白い光がカメラへ流れ込み、一時的に映像が飽和する。ノアは露出補正を掛けながら周辺地図を更新し、第三小隊が地表へ降り立つ順番に合わせて5つの位置情報を外部座標へ切り替えた。
旧環境観測区画は、地表昇降機から北東へ2キロほど進んだ場所にある。
雪原から半ば突き出した観測塔と、地下へ埋設されていた設備棟が幾つか残っているものの、長年の積雪と地盤変動によって当時の地図どおりに進める保証はなかった。
「現在地から東へ300メートル。そこで旧搬入路へ入れます。途中に陥没反応があるので、アシュさんは先行しすぎないでくださいね」
『まだ何もしてねぇだろ』
「する前に言ってます」
『信用ねぇなぁ』
『日頃の行いですね』
セイルの淡々とした声に、アシュが不満そうな音を漏らす。ノアも口元を緩めながら、主画面に広げた地形データへ新しい走査層を重ねた。
第3小隊が進むにつれ、旧記録との違いが少しずつ見えてくる。雪面下に埋もれているはずの配管が地盤の隆起によって露出し、逆に通路として使えた場所が崩落した観測塔の残骸で塞がれていた。
ノアは地表走査とツキノから共有される情報を照合し、環境整備局が大型資材を運び込める幅を確保できる経路だけを候補として残していく。
「前方の分岐、右は通れますが、搬入車両には狭すぎます。左の建物沿いを確認してください」
『左は崩れてるぞ』
「上から見るとそう見えますけど、南壁の裏に旧作業路が残っています。ツキノさん、入口を確認できます?」
『……ありました。積雪で半分埋まっていますが、幅は足ります』
「環境整備局へ除雪候補として記録します。隊長、そのまま左でお願いします」
『俺よりお前の方が地表を歩いてるみたいだな』
「隊長の見えてないところばかり見てますからね」
軽口を返しながら、ノアは別のモニターへ一瞬だけ視線を移した。
生体反応の端に、小さな揺らぎがある。
旧配管から生じる反射に似ていたが、一定の間隔で位置が変わっている。熱源としては弱く、雪面下へ潜っている可能性もあった。
まだ隊員へ伝える段階ではないと判断したノアは反応範囲を絞り、過去の観測記録と重ねた。ガルムの群れなら動きが直線的すぎる。レイス級なら熱源がもう少し高い。判断材料が足りないまま警告を出せば、調査の流れを無駄に止めることになる。
主画面では第3小隊が旧作業路へ入り、観測施設の外壁を目視確認している。アシュが雪に埋もれた案内標識を掘り出し、セイルが破損した屋根の状態を遠方から確認していた。
『ノア、内部へ入れそうか?』
レイジの問いへ答えながらも、ノアは先ほどの反応を追い続ける。
「正面入口は閉塞しています。西側の整備扉なら形は残っていますが、内部の梁が一部落ちています。ダリウスさんが通れる幅を確保できるか、先に外から見てください」
『私を基準にされるのですな』
「ええ、一番分かりやすいので」
『それは光栄です』
ダリウスの穏やかな返事が届いた直後、追跡していた反応が三つに分かれた。
雪面下を移動している。
その進路は第3小隊の背後へ回り込む形だった。
ノアの指が通信層を切り替え、周辺の観測波を一点へ集める。反射ノイズが増え、3つの反応のうち一つが画面から消えた。見失ったのか、停止したのか判別できない。
ノアはマグカップへ伸ばしかけた手を制御卓へ戻した。
「レイジ隊長。西側扉の確認を中断してください」
先ほどまでの軽さは、声から消えていた。
『理由は』
「背後の雪面下に移動反応が3つあります。一つは追跡不能。ガルムの可能性が高いですが、まだ確定できません」
『位置はどうだ?』
「最後に消えた反応がアシュさんの南西、25メートル。残り2つは施設北側から回っています」
レイジが全員へ散開を指示するより早く、ツキノが薙刀を構え、セイルが屋根の低い部分へ射線を取る。ダリウスは整備扉から離れ、アシュと施設の間へ入った。
ノアは三つのモニターへ視線を走らせながら、雪面温度の差を拾うため走査条件を組み直した。露出配管が吐き出す微かな熱が邪魔をしている。不要な反射を一つずつ除外し、移動によって生じた雪の密度変化だけを抽出すると、消えていた反応が別の位置へ浮かび上がった。
「アシュさん、その場から動かないでください」
『俺の後ろ?』
「違います。足元です」
言葉が届いた瞬間、アシュの直前で雪面が大きく盛り上がった。
灰白色の外殻を持つガルムが、雪を弾き飛ばしながら下から飛び出す。だが、アシュは既にシミター型アークブレードを抜き、身体を半歩だけ引いていた。
横から振り抜かれた曲刀がガルムの前脚を裂き、体勢を崩した巨体が雪へ転がるとそこへダリウスが踏み込み、バトルアックスの柄で頭部を押さえ込むと、返した刃が首元へ深く食い込んだ。
残る二つの反応が同時に速度を上げる。
「セイルさん、北側の低い屋根です。2秒後に一体出ます」
『2秒?』
「1秒です」
崩れた屋根の陰からガルムが跳んだ時には、セイルの弦から青白い矢が放たれていた。光刃を纏った矢は前脚の付け根を貫き、空中で軌道を崩した巨体を雪面へ落とす。
最後の一体は観測塔の残骸を回り込み、レイジの死角へ入ろうとしていた。
ノアは地図上の点だけでなく、レイジの位置、ツキノの間合い、アシュの復帰経路、セイルの射線を一度に重ねる。ここで敵の位置だけを伝えれば、全員が同じ獲物へ向かい、施設入口を無防備にする可能性がある。
「ツキノさんは入口を維持してください。アシュさん、北へ回らずダリウスさんの右へ。レイジ隊長、観測塔の裏から一体来ます」
『見えないぞ』
「あと8メートルで出ます。正面へ振らないでください。右から回り込ませます」
『了解』
レイジは大剣を構えながらも、その場から動かなかった。
ガルムは観測塔の陰を抜ける直前で進路を変え、レイジの側面へ飛び掛かろうと雪を蹴る。ノアが予測線を更新した瞬間、大剣の発振音が通信越しに響いた。
「今です」
レイジは振り返らないまま大剣を背後へ引き、踏み込んできたガルムの顎下へ刃を滑り込ませた。跳躍の勢いまで乗せた巨体が持ち上がり、そのまま観測塔の外壁へ叩きつけられる。
ひび割れた壁が大きく軋んだ。
「隊長、壊さないでくださいって言いましたよね」
『向こうからぶつかってきた』
「報告書にもそう書いておきます?」
『頼む』
「却下します」
軽口は戻ったが、ノアの手は止まっていなかった。
三体の生体反応が消えたことを確認し、周囲へ新たな動きがないか走査範囲を広げる。第3小隊のバイタルでは、アシュの心拍だけが高いまま残っていたが、装甲にも身体にも損傷はない。
「アシュさん、足は?」
『何ともねぇよ。あれ、分かってなかったら噛まれてたな』
「次から雪の上を歩く時は、もう少し軽くお願いします」
『どういう意味だよ』
「足音で起こしたのかもしれません」
『俺のせいかよ!』
『静かに歩けということでしょう』
ツキノの冷静な補足へ、アシュが通信越しに文句を重ねる。ノアはその声を聞きながらようやくマグカップを持ち上げたが、中身はすっかり冷めていた。
『ノア』
別の回線から、静かな声が入る。
主回線とは異なる識別表示へ目を向けると、ミオからの個別通信だった。
「お、ミオ。どうしたの?」
『北東観測区画周辺の環境データに更新があります。共有します』
新しい気圧情報と地盤変動記録が転送され、ノアの主画面へ追加される。環境整備局側で解析されたばかりの資料らしく、施設内部へ流れ込む風の経路と、雪面下の空洞位置が細かく記されていた。
「助かる。相変わらず仕事が早いねぇ」
『通常です』
「そこで一言、“ノアもよく気づきました”とかない?」
『必要ですか』
「あると嬉しい」
『ガルムの反応を一度見失っています』
「そこ拾う?」
『事実です』
「冷たいなぁ」
『業務に戻ってください』
通信は即座に切れた。
ノアが小さく笑うと、主回線の向こうでレイジが呆れたように息を吐いた。
『またミオに絡んでたのか』
「業務連絡ですよ」
『最後の方は違っただろ』
「親睦を深めようかと」
『嫌われるぞ』
「もう少し長い目で見てください」
ミオから届いた環境データによって、観測施設内部の状態はかなり把握しやすくなった。西側整備扉の奥には大きな空洞がなく、落下の危険も低い。第3小隊はダリウスを先頭に内部へ入り、レイジとツキノが左右を警戒する間に、アシュとセイルが奥へ続く通路を確認していった。
ノアは隊員の視界共有へ頼りきらず、壁内を通る古い配線と、風の流れから施設構造を補完していく。地図上では繋がっているはずの通路が途中で潰れ、逆に記録のない保守用空間が残っていた。
環境整備局が持ち込む機材の寸法と照合し、搬入口から旧制御室までの経路を一本ずつ確定していく作業は、戦闘ほど派手ではないが、わずかな見落としが後日の作業員を危険へ晒す。
「正面通路は幅が足りません。右手の保守区画を抜ければ、制御室裏へ回れます」
『扉が開かねぇぞ』
「内側の圧力差です。セイルさん、扉上部に小さな通気口が見えますか?」
『あります。氷で塞がっていますね』
「そこを割れば圧が抜けます。設備へ傷を入れない範囲でお願いします」
『注文が細かいな』
「環境整備局に怒られるのは、ぼくじゃなくて隊長ですから」
『なら雑にやってくれ』
「そういうところですよ」
セイルが通気口の氷だけを光矢で砕くと、重かった扉が低い音を立てて開いた。その先には旧制御室へ続く通路が残り、壁面の一部へ環境整備局が再利用できそうな配線経路も確認できた。
ノアは映像を記録しながら、機材搬入の障害となる瓦礫、床面の傾斜、残留する有害物質の反応を順に記録へ加えていく。
任務開始から二時間ほどが過ぎた頃、第3小隊は施設内部と周辺経路の確認を終えた。
大規模な崩落危険はない。
ガルムの小規模な群れが周辺を生息域としているものの、事前に駆除と監視を行えば作業班を入れられる。旧搬入路には除雪と補強が必要だが、環境整備局の車両も通行可能だった。
「調査項目、すべて完了です。環境整備局へ送る一次報告も作成しました」
『仕事が早いな』
「地表で寄り道する人がいなければ、もっと早いんですけどね」
『誰のことだ』
「心当たりがある人です」
レイジが笑い、第3小隊は施設を離れて帰還ルートへ入った。
往路で交戦した場所にはガルムの死骸が残り、雪が少しずつ黒い体液を覆い隠している。ノアは周辺反応を確認しながら、帰還時の疲労を考慮して往路より平坦な経路へ誘導した。
アシュの心拍は既に平常域へ戻り、セイルの照準系にも異常はない。ツキノは歩きながら調査記録を整理し、ダリウスの左肩装甲だけが、やはり時折わずかな遅延を示していた。
「ダリウスさん、帰ったら本当に整備へ行ってくださいね」
『覚えておられましたか』
「忘れると思いました?」
『いいえ。だからこそ困りますな』
「健康管理も仕事ですので」
『装甲の話では?』
「似たようなものです」
地表昇降機へ到着し、5名の認識情報が箱の内部へ収まる。隔壁が閉まり、外部映像から白い地表が消えると、ノアは各回線の負荷を一段ずつ落とした。
『ノア』
「はい」
『さっきのガルムな、あれ助かった』
レイジの声には、出撃前の軽さが戻っていた。
「ぼくも危うく見失うところでした。次はもう少し早く拾いますよ」
『次がある前提か』
「地表ですよ?」
『違いない』
昇降機が降下を始め、第3小隊の心拍も徐々に落ち着いていく。ノアは任務ログへ最終情報を加え、全員の装備状態と負傷の有無を確認してから、ニューラルリンクの解除準備へ入った。
「第3小隊、帰還区画への到着を確認。リンクを段階的に解除します」
『お疲れ』
「はい、お疲れさまでした。アシュさんは食堂へ直行する前に装備返却してくださいね」
『何で俺だけ言われるんだよ』
「実績です」
『俺の行動記録だけ消してくれ』
「レイジ隊長と同じこと言わないでください」
ツキノとセイルの小さな笑い声が重なり、ダリウスが穏やかに挨拶を残す。最後にレイジの回線が閉じると、補助画面へ並んでいた五つのバイタル表示が順番に消えていった。
さっきまで誰かの呼吸や足音、アークブレードの発振音で満たされていた部屋に、換気ファンと冷却機器の低い音だけが戻ってくる。
ノアはしばらく制御卓へ両手を置いたまま、リンク解除後の静けさへ耳を澄ませていた。
全員が帰った。
装備に軽微な不具合はあっても、負傷者はいない。環境整備局へ渡す調査記録も揃い、後日の作業に必要な情報は一通り確保できた。
ノアは椅子へ深く身体を預け、ようやく肩から力を抜いた。
「……いやぁ、疲れた」
冷めきったコーヒーを一口飲むと、予想以上の苦味が舌へ残った。顔をしかめながらも飲み干し、任務ログを保存してからリクライニングチェアを元の位置へ戻す。
照明を落とし、マグカップを持って立ち上がったところで、ニューラルリンク制御卓の一部が淡く点灯した。
『ノア、今、大丈夫ですか?』
聞き慣れた声に、扉へ向かいかけていた足を止める。
「お、ミオ。どうしたの?」
『先ほどの通信ですが』
「うん?」
短い間が置かれた。
『私は冷たくありません』
ノアはマグカップを持ったまま数秒黙り、やがて堪えきれずに吹き出した。
「いや、君さ、このタイミングで?」
『訂正は以上です』
通信が切れ、制御卓の光も消えた。
再び静かになった個室で、ノアはしばらく笑いを残したまま立っていたが、やがて空になったマグカップを軽く傾け、誰もいないモニターへ柔らかな目を向けた。
「……やっぱり冷たいじゃん」
第26話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回はこれまであまり描いてこなかったオペレーター視点のお話でした。
戦場で武器を振るう隊員達も格好いいですが、その背後で地図や生体反応、地形や通信を管理し、必要な情報だけを届けるオペレーターもまた、もう一つの「最前線」に立っています。
少しでも「GRIDってこういう組織なんだ」「オペレーターって格好いいな」と感じていただけたなら、この話を書いた目的は達成です。
そして、ミオはきっと冷たくありません。
……本人はそう言っています。
次回もよろしくお願いいたします。




