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帰る者、残る者

第2話をお読みいただきありがとうございます。


この物語は、地下都市ネオ・ヘイヴンを舞台に、人々の生き方や想いを描く物語です。


今回は第7小隊が地表から帰還した後の時間を中心に、それぞれが抱える喪失や、日常へ戻っていく姿を書きました。


少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。


 帰還用昇降機のモーター音が、巨大な鉄の箱を内側から震わせていた。

 地表とネオ・ヘイヴンを繋ぐ昇降路を、第7小隊、第3小隊、十五人ほどのエンジニアを乗せた昇降機がゆっくりと降下していく。車輪が接合部を越えるたびに床下から鈍い振動が伝わり、天井の照明と壁際へ伸びた人影が同じ拍子で僅かに揺れた。

 数時間前、この箱で地表へ向かった時には、これほど狭くは感じなかった。

 壁際へ折り畳まれた座席も、中央へ固定された工具ケースも、隊員同士の装備が触れないように空けられた間隔も変わっていない。増えたのは、昇降機の中央に固定された黒い搬送棺だった。

 光をほとんど返さない外装に、隊員番号と所属を示す表示だけが淡く浮かんでいる。

 地表へ上がる途中、ユウトは支給されたばかりのソード型アークブレードを何度も確かめていた。緊張で引きつった顔を皆に笑われ、吐くなら今のうちだとキョウジに言われても、本気とも冗談ともつかない顔で頷いていた。

 昇降機が大きく揺れ、搬送棺を固定する金具が短く硬い音を立てた。

 傍らにいたガンツの手が反射的に伸び、黒い外装へ触れる。固定具が外れたわけでも、棺が動いたわけでもない。確かめる必要はなかったはずだが、ガンツは次の振動が収まるまで掌を置き、ゆっくりと離した。

 向かいの座席では、セナがユウトのアークブレードを抱えていた。

 発振を停止した刀身は、彼女のものより僅かに幅が広い。グリップには支給時の保護材が残り、放熱部にも追加のフィンは付いていなかった。

 地表へ向かう途中、セナはその剣を借りて握りを確かめている。同じソード型でも使う者によって調整は変わる。グリップは実戦を重ねてから削ればいい。最初から出力を上げすぎず、放熱機構も手に馴染んでから考えればいい。ユウトは真剣な顔で話を聞き、何度も頷いていた。

 いつか2本のソードを並べ、互いの癖を比べる日が来ると、セナは疑っていなかったのだろう。

 今、その指は使い込まれることのなかったグリップを包んでいる。

 昇降機が次の接合部を越え、セナの膝が僅かに揺れた。隣に座るリオが手を伸ばし、滑りかけた剣先を掌で支える。セナは顔を上げなかったが、刀身を抱く腕から少しだけ力を抜いた。リオも声を掛けず、剣先が安定したことを確かめてから手を戻した。

 その足元では、ユーリがアークアンカーのワイヤーを巻き直していた。

 整えたはずの一段が途中で重なり、指先で押さえると僅かな緩みが戻ってくる。普段なら目を閉じていてもできる作業だった。今日に限って同じ箇所を何度もやり直し、気づいたリオが靴先でユーリの足を軽く押した。

 怪訝そうに顔を上げたユーリへ、リオはワイヤーを見るよう視線だけで示す。ユーリは一度目を閉じ、重なっていた一段をほどいた。普段なら余計な一言を返したところだが、今日は黙って最初から巻き直した。

 黒い棺を挟んだ反対側には、第3小隊の面々がいる。

 アシュは床へ座り込み、立てた膝の間へ両腕を落としていた。暇さえあればシミター型アークブレードの柄を弄っている男が、帰還してから一度も武器へ触れていない。

 近くではセイルがボウ型アークブレードの照準ユニットを閉じ、戦闘中に生じた細かな傷へ指を這わせていた。何かを口にしかけるたびに唇が動き、言葉になる前に閉じたユニットの留め具を押して確かめている。

 ツキノの戦術バイザーには、地表からの距離と降下速度が絶えず流れていた。数字が減っても視線はしばらく同じ位置に留まり、やがて表示を閉じると、傍らへ立て掛けた薙刀型アークブレードの柄を直して両腕を膝へ置いた。

 最後尾にいるダリウスは、大型バトルアックスの柄へ両手を重ねていた。その姿勢は普段と変わらない。ガンツが棺へ触れた時も、セナが剣を抱き直した時も、ユーリが同じ場所を巻き直した時も、彼の視線は一度ずつ静かに動いていた。

 搬送棺の向こう側には、キョウジが立っている。

 壁へ肩を預け、揺れる照明を見上げていた。天井を走る光の筋を追っても、視線を止めるたびに白い地表へ突き刺さったソードと、雪の上へ広がっていった赤が浮かぶ。首元へ指を当てた時、何も返ってこなかった感触まで残っていた。

 地表へ出る者は、誰もが黒い搬送棺へ収まる可能性を抱えている。その事実を知らずに小隊長を務めてきたわけではない。それでも、順番が仲間の誰かへ回る場面だけは、何度経験しても現実として受け止め切れなかった。

 扉に近い座席では、レイジが背もたれへ身体を預けていた。

 正面に座る若いエンジニアは防寒具も脱がず、膝へ肘を置いて両手を固く組んでいる。ダクトの外装パネルを担当していた作業員の1人で、今回が初めての地表任務だった。

 その視線は何度も搬送棺へ向かい、届く前に床へ落ちる。レイジはしばらく黙って男を見ていたが、責める様子も、無理に話しかける様子もなかった。


『隊長』


 静寂の中へノアの声が届いた。いつもより声量は控えめだったが、調子まで沈ませようとはしていない。


『帰ったら一杯どうです?』

「管制室で酒を出すようになったのか?」

『ぼくがそっちへ行くんですよ』

「明日も勤務だろ」

『明日のぼくは、今日のぼくより頑張れるはずです』

「根拠を聞いてもいいか?」

『願望です』


 アシュの喉から短い音が漏れた。笑いかけたのだろう。途中で止まり、伏せた顔の口元だけが僅かに動いている。


「聞いたか、ノア。今ので1人は少し楽になったぞ」

『もう少し笑ってもらえる予定だったんですけどね』

「欲張るな」

『隊長は笑ってくれないんです?』

「お前の分まで働いたあとで考える」

『明日のぼくに期待しておいてください』

「願望を当てにするほど困ってない」


 ノアが小さく息を漏らし、通信の向こうで口を閉ざした。

 昇降機には再びモーターの低音が残り、金属の擦れ合う振動が床を這っていく。

 若いエンジニアの視線が、また搬送棺へ向かった。今回も途中で逸らそうとしたところで、正面に座っていたレイジが口を開く。


「ずいぶん抱え込んでるな」

 男は、自分へ向けられた言葉だと気づくまで少し時間が掛かった。

「……すみません」

「謝られても、こっちは受け取り方に困る」

 レイジは身体を起こし、両肘を膝へ置いた。

「最後まで見届けてくれないか」

 男の視線が揺れた。黒い搬送棺を見ようとして、また途中で止まる。

「俺たちの作業が、もっと早く終わっていれば……」

「初めてだったんだろ、地表へ出たのは」

「はい」

「予定通りに済まない場所だと覚えて帰れ。お前たちが遅れたから、あいつらが前へ出たわけじゃない」

「でも、あの人は……」

 言葉を探す男へ、レイジは隣に立つキョウジを見た。

「ユウトだ」

 キョウジが静かに告げると、男は口を閉じた。

「名前を覚えていてくれ。今日が初陣だった」

「……ユウト」

 声に出された名前が、昇降機の中へ小さく残った。

 搬送棺の傍らにいたガンツの瞼が僅かに動き、セナはユウトの剣を抱き直した。

「ダクトは動いてる」

 レイジが続ける。

「お前たちが直したから、下で暮らしてる連中は明日も息ができる。ユウトが前へ出たことも、お前たちが作業を終えたことも、片方だけじゃ任務にならない」

 若いエンジニアは唇を噛み、ようやく搬送棺へ正面から顔を向けた。苦しそうな表情は変わらなかったが、今度は視線を逸らさなかった。

「俯いたまま帰ったら、守った側も困るだろ」

 レイジは背もたれへ身体を戻した。

「胸を張れとは言わない。顔を上げて帰ってくれ」

 男はすぐには答えなかった。やがて固く組んでいた両手を解き、膝の上へ置く。

「……はい」

 レイジが横へ視線を動かすと、キョウジと目が合った。キョウジは何も言わず、ほんの僅かに顎を引いた。

 降下を続ける箱の中央で、黒い搬送棺だけが変わらず振動を受けていた。


     ◆


 昇降機が減速を始め、床下から伝わる振動の間隔が徐々に広がっていった。モーターの唸りが長く引き延ばされ、停止の衝撃に備えて誰もが足元へ力を入れる。

 重い振動が一度だけ箱全体を揺らし、複数のロックが順番に解除された。

 分厚い隔壁が左右へ開くと、ネオ・ヘイヴンの白い照明が差し込み、地表の冷気をまとった隊員たちを足元から照らしていった。

 誰も急いで降りようとはしなかった。

 リオが双剣型アークブレードを背負う横で、ユーリは巻き終えたアークアンカーを収納し、セナへ手を差し出した。彼女の腕には、まだユウトのソードがある。

 セナは差し出された手を見たあと、グリップをもう一度だけ指でなぞった。

「返却は俺がやるよ」

 普段より静かなユーリの声に、セナは何かを返そうとしたが、柄を彼の方へ向けた。

 ユーリは急かさずに受け取る。剣の重さが離れたあとも、セナの両腕はしばらく同じ位置へ残っていた。先に立ち上がったリオが、自分の手袋を空いた手へ押しつける。

「これ、持ってて」

 セナが手元を見る。

「私のじゃない」

「私が忘れないように預けるの。あとで返して」

 リオは先に昇降機を降り、セナは渡された手袋を握ってその背を追った。

 中央では、ガンツが搬送棺の固定具を外していた。

 最後の留め具が解除されると、待機していた回収班が専用の搬送台を押して入ってくる。数人が認識情報を照合し、息の合った動きで黒い棺を台へ移した。

 棺の下へ支持具が入り、その重さがガンツの手から離れていく。回収班の1人が確認を求めるように彼を見ると、ガンツは黒い外装へ最後に一度だけ掌を置き、それから身を退いた。

 通路へ出た搬送台の後を第7小隊が追い、第3小隊も少し間を空けて歩き始めた。

 若いエンジニアは、昇降機を降りたところで足を止めていた。作業班の仲間たちは別の通路へ案内されている。彼もそちらへ向かうべきだったが、黒い棺から目を離せずにいる。

 横を通り過ぎかけたレイジが歩調を緩めた。

「最後まで見送るか?」

 男は一瞬迷ったあと、作業班の先任者へ視線を送った。先任者は何も言わず、顎で搬送棺の方を示す。

「行きます」

 男はレイジの隣へ並び、回収班のあとを追った。

 白い通路の先に、装飾のない大きな文字が見えてくる。


 RETURN CHAMBER


 街のどこにでもある広告や案内表示は、この区画には置かれていなかった。磨かれた灰色の床と、同じ間隔で並ぶ搬入口。白い壁には識別番号だけが浮かび、機械の駆動音が低く反響している。

 搬送台が認証区画へ入ると、天井から青白い走査光が降りた。

 光が棺の表面を端から端までなぞり、短い電子音とともに情報が表示される。


 GRID-07

 YUTO

 RETURN PROCESS ACCEPTED


 搬入口の隔壁が開き、その奥へ人の姿のない白い通路が伸びていた。

 動き始めた搬送台を、セナは瞬きもせず見送っている。ユーリの腕には、ユウトのソードが発振を止めたまま抱えられていた。ガンツの指先が僅かに動いたが、もう触れられる距離ではない。

 黒い棺は青白い光の中を進み、次第に小さくなっていく。隔壁の向こうへ完全に消えると、重い扉が両側から閉まり、継ぎ目のない白い壁へ戻った。

 若いエンジニアが深く頭を下げる。

 誰も彼に合わせなかった。

 リオも、ユーリも、セナも、ガンツも、自分なりの姿勢で閉じた壁を見ていた。

 キョウジは4人の背中をしばらく見守ってから声を掛ける。

「今日の任務は終了だ。装備を返したら休んでくれ」

 ユーリが抱えたソードへ目を落とした。

「これは俺が武装整備廠へ持っていきます」

「ああ。任せる」

「隊長は?」

「もう少しここにいる」

 リオが先に歩き出し、セナがその横へ並ぶ。ガンツは2人が角を曲がるまで後方に残り、最後にキョウジへ一度だけ顔を向けてから追っていった。

 ユウトのソードを抱えたユーリも、足早に3人のあとを追う。

 地表へ向かった時より1人少ない隊列が、白い通路の向こうへ消えていく。

 キョウジは4人の背中を見送り、胸の奥へ残った重さを抱えたまま、閉じた隔壁の前に立っていた。


     ◆


 シャワーを浴び、隊員服から擦り切れた黒いジャケットへ着替えた頃には、中層区画の人工空が夜間設定へ切り替わっていた。

 輪郭の甘い月が、増築された建物と空中通路の隙間へ浮かんでいる。

 地表で本物の雲を見たあとでは、人工空の不自然さがいつも以上に目についた。雲の流れは一定で、夜の色も妙に均一だった。遠くから眺めれば綺麗に見えるが、長く見上げていると、映像の継ぎ目がどこかに隠れているような気がしてくる。

 キョウジは視線を下ろし、ポケットへ両手を入れたまま通りを歩いた。

 ネオンが湿った路面へ色を落とし、屋台では合成肉が鉄板の上で音を立てている。認識バンドの決済音に子どもの笑い声が重なり、古い集合住宅の窓には夕食を囲む人影が揺れていた。

 外縁ダクトが止まりかけていたことを、彼らの多くは知らない。

 今日、誰が地表から戻らなかったのかも知らない。

 何も知らないまま息をして、食事をして、笑っていられるなら、ユウトが初陣で立った場所にも意味は残る。

 キョウジの足は、中層の喧騒から外れた古い区画へ向かっていた。

 墓所の入口には、施設名を示す小さな表示しかない。石碑も花壇もなく、通り過ぎれば古い保管棟にしか見えなかった。

 認識バンドをかざすと扉が静かに開き、外より僅かに冷えた空気が流れ出す。中へ入った途端、背後で街の音が途切れ、一定間隔で並ぶ照明が薄暗い通路へ淡い光を落とした。

 途中で作業服を着た年配の女性とすれ違った。女性は両手を胸元で組み、俯いたまま歩いている。キョウジも進む方向を変えず、その横を通り過ぎた。

 通路の先には、壁面を埋め尽くす収納部が並んでいた。

 上にも左右にも、奥にも続いている。どこまで歩いても同じ形が途切れず、淡く点灯する氏名と番号だけが、そこへ収められた人間の違いを示していた。

 キョウジは検索端末へ認識バンドをかざす。

「ユウト。GRID第7小隊」

 端末が短い音を返し、処理中を示す表示を浮かべた。

 リターンチャンバーの作業が終わるのは、明日か、あるいは明後日になる。その頃には、今日初めて第7小隊の一員として地表へ出た若者も、この果ての見えない壁のどこかへ帰ってくる。

 キョウジは表示を閉じた。

 名前も位置も、まだここにはない。消えた画面へ自分の顔が薄く映り込み、そこから離れられないまま立ち尽くす。

 やがて顔を上げると、足は何度も訪れた区画へ向かっていた。

 数列先で立ち止まる。

 周囲の収納部には小さなレムナントが収められているが、そこだけは空だった。


 E-3147

 EMIL AMAGI

 RETURN PENDING


 キョウジは空の収納部を見つめた。

「律儀だな」

 返事はない。

 5年前から、表示は何も変わっていなかった。

 死亡は確認されず、レムナントも存在しない。だから街は今も、エミルが戻るための場所を空けている。

 それが希望なのか、単なる管理手順なのか、キョウジには決められなかった。

 空の収納部へ薄い光が反射し、その一部が白いシーツの皺に見えた。記憶の中で、照明を落とした部屋がゆっくりと輪郭を取り戻す。

 任務から戻った夜だった。

 窓の外ではネオンが明滅し、ベッドの脇へ脱ぎ捨てた服が重なっていた。火照りの残る身体をシーツへ沈め、エミルはキョウジの肩へ頬を寄せている。少し乱れた髪が、彼の胸元へ掛かっていた。

「ねえ」

「どうした?」

「もし私が先に死んだら、お墓参りに来てくれる?」

 キョウジは天井を見たまま眉を寄せた。

「縁起でもない話を始めるなよ」

「こういう時じゃないと聞けないでしょう」

「今なら聞ける理由が見つからないな」

「少しは素直になれそうだから」

「君が?」

「その反応、失礼じゃない?」

 頬を膨らませたエミルの額から、キョウジは掛かった髪を指で払った。

「俺より先に死ぬ予定でもあるのか?」

「予定はないけど、私たちって地表へ出る仕事なんだよ?」

「いつどちらかに何が起きてもおかしくないって事だな」

「なら、ちゃんと来てよ」

「墓参りへ行かずに済むようにしてくれ」

 エミルは小さく笑い、キョウジの脇腹を軽くつねった。

「痛いだろ」

「今のは少し嬉しかったから」

 彼女はキョウジの肩へもう一度頬を預け、穏やかな声で続けた。

「じゃあ……帰るしかないか」

 キョウジは答えず、背中へ回した腕に少しだけ力を込めた。エミルも、その先を言葉にはしなかった。

 墓所の冷えた空気が戻ってくる。

 キョウジの手は、いつの間にか空の収納部へ触れる寸前まで上がっていた。指先を止め、そのまま静かに下ろす。

 5年前の約束は、まだ果たされていない。


 出口へ向かうと、静かな通路の先から重い靴音が近づいてきた。一定の歩調に合わせ、大柄な影の片方の肩が僅かに沈んでいる。

 キョウジが歩みを緩めると、相手も同じように速度を落とした。

 照明の下へ入ったレイジは、キョウジの顔を見て眉を上げる。

「先客がいるとは思わなかったな」

「墓所までお前の担当区画になったのか?」

「予約が必要なら、入口に書いておいてくれ」

「次から先に連絡しろ」

「その規則には従えないな」

 レイジはキョウジの肩越しに保管区画を見た。

「ユウトはまだ戻ってないのか」

「処理が終わるのは明日か、明後日になる」

「そうか」

 返したあとも、レイジは通路の奥へ視線を残していた。彼が向かおうとしている区画を、キョウジは知っている。

「今日はあいつのところか」

「ああ。命日が近いからな」

 ツキノの弟。

 まだレイジが小隊長になる前、同じ隊で戦っていた若い男だった。人懐っこく、レイジのあとをよくついて回っていたと聞いている。

 その任務で起きたことを、キョウジは詳しく知らない。レイジが毎年ここへ来ることと、今ではツキノが第3小隊の副隊長として隣に立っていることだけは知っていた。

「付き合おうか?」

 レイジは少し考え、首を横に振った。

「今日は1人で行く」

「なら、入口で待つのもやめておく」

「助かる」

 キョウジが通路の端へ寄ると、レイジは数歩進んだところで足を止めた。

「このあと時間はあるか?」

「酒に付き合えって顔だな」

「察しがよくて助かる」

「墓参りのあとに誘う顔には見えないけどな」

「どんな顔なら合格なんだ?」

「俺に聞くなよ」

「基準もないのに文句をつけたのか。いつもの店で待ってろ」

「命令か?」

「頼んでる」

 キョウジの口元が僅かに緩む。

「それなら待ってるよ」

 レイジは片手を上げ、墓所の奥へ歩いていった。


     ◆


 中層の外れにある酒場は、夕刻を過ぎた頃から混み始める。

 古い雑居ビルの1階へ押し込まれた店内には、仕事を終えた整備士や運搬員が肩を並べ、壁際ではGRID隊員らしい一団が大声で笑っていた。酒と油、焼いた合成肉の匂いが混じり、古い音楽は客の声に半分ほどかき消されている。

 キョウジがカウンターの端へ座ると、グラスを拭いていた店主が顔を上げた。

「今日は1人か」

「あとから、でかいのが来る」

「席を2つ使う方だな」

「本人にも同じことを言ってやれ」

「毎回言ってるよ」

 店主は空のグラスを1つ置いたが、まだ酒は注がなかった。キョウジには濃い琥珀色の酒を少量だけ入れ、氷を2つ落とす。

「先に始めるか?」

「待つよ」

「お前にしては珍しいな」

「今日はそうしたい」

 店主はそれ以上からかわず、別の客の注文を取りに行った。

 キョウジは氷が溶け始めるのを眺めながら、店の奥で続く笑い声を聞いていた。墓所を出てから、エミルとの会話が頭に残っている。

 帰るしかないか。

 そう笑った声が、酒場の喧騒へ紛れて何度も蘇った。

「随分と行儀よく待ってたんだな」

 背後から声がして、隣の椅子が大きく軋んだ。

 レイジが腰を下ろすと、店主は振り返りもせず空のグラスへ酒を注ぐ。

「今日は薄めにしてくれ」

 レイジが頼むと、店主がようやく顔を向けた。

「墓所帰りだけ格好つけるな。普段通り飲め」

「商売人が客の注文を無視するのか?」

「残される方が面倒なんだよ」

 店主は酒瓶を戻し、代わりに小皿へ焼いた豆を盛って2人の間へ置いた。

「食え。今日は何も入れてない顔をしてる」

 レイジが豆を1つ摘まむ。

「俺は食ってきたぞ」

「そっちには聞いてない」

 店主の視線がキョウジへ向く。

「こいつは酒で腹まで満たそうとするからな」

「余計な情報を渡すなよ」

「常連を長生きさせるのも商売だ」

 店主は返事を待たず、別の客へ呼ばれて離れていった。

 レイジが小皿をキョウジの方へ押す。

「店主の言うことを聞いておけ」

「お前まで加わるのか」

「俺の分は残してくれよ」

 キョウジは豆を1つ口へ入れた。塩気が強い。酒を一口飲むと、舌へ残った塩と苦味が混ざり、地表で冷え切った身体の奥がゆっくりとほどけていく。

 レイジもグラスを傾けた。普段なら最初の一口を大きく飲む男が、今日は味を確かめるように少量だけ含んでいる。

「ツキノは一緒じゃなかったのか」

「昨日行ったらしい」

「命日は近いんだろ?」

「最初の何年かは並んで行った。今は互いに好きな時に顔を出してる」

「その方がいいのか」

「毎年一緒に立ってたら、あいつが俺へ気を遣うからな」

 レイジは豆をもう1つ摘まみ、視線を落とした。

「俺がいたら、弟の悪口も言いづらいだろ」

「悪口があるのか?」

「姉貴の前ではいい子だったらしいぞ。俺の前じゃ口ばかり達者だった」

「お前の真似をしたんじゃないか」

「優秀だった理由が判明したな」

「そこまで似てたとは聞いてない」

 レイジが笑い、酒をもう一口飲む。キョウジの口元にも僅かな笑みが戻った。

 少しの間、2人は今日の任務について話した。

 グリズ級の前脚へアンカーを絡めたユーリが、固定位置を間違えた事実を最後まで認めなかったこと。ガンツの盾が修理ではなく交換扱いになりそうなこと。セナがユウトの剣を手放せなかったこと。

「あいつ、武装整備廠で泣いてなきゃいいけどな」

 レイジの声に、キョウジはグラスを回した。

「泣くくらい許してやれ」

「お前の口から聞くとは思わなかった」

「俺は泣かないなんて宣言した覚えはないぞ」

「見たことはない」

「見せる相手は選ぶ」

「面倒な男だな」

「自分を棚へ上げるなよ」

 グラスが少しずつ軽くなっていく。

 店内の客が増え、背後のテーブルでは誰かが任務中の失敗を大げさに語っていた。店主が笑いながら酒瓶を取り上げ、酔客の抗議を聞き流している。

 この騒がしさなら、隣同士の声も少し離れれば聞き取れない。

 キョウジはグラスへ残った酒を一口飲み、氷を舌先で転がした。

「今日、地表で人を見た」

 豆へ伸びていたレイジの手が止まる。すぐには顔を向けず、指先を小皿の縁へ置いた。

「俺も影なら見た」

「横顔まで見えた」

 レイジはそこでキョウジを見た。酒を飲む前から何かを抱えていたことには気づいていたのだろう。驚くより先に、冗談ではないことを顔から読み取ろうとしている。

「誰だった?」

「エミルだ」

 レイジの指が小皿の縁から離れた。

 周囲では笑い声が続き、グラスが鳴り、古い音楽も途切れず流れている。レイジは何も言わず、残っていた酒を少し飲んだ。

「横顔だけだったのか?」

「ああ。吹雪が弱まった間だけだ」

「それでも、エミルだと確信したんだな」

 疑う口調ではなかった。

「見間違える相手じゃない」

「その言葉を信じる」

 レイジはグラスを置いた。見間違いの可能性を並べることも、キョウジの状態を疑うこともしなかった。

 エミルのことになるとキョウジの視野が狭くなる時がある。それを知っているからこそ、否定するより先に、この先で何をしようとしているのかを確かめようとしていた。

「探すつもりか?」

「次の地表任務で、同じ場所を確認する」

「その先の予定は?」

 キョウジは酒を飲み、答えるまでに少し間を置いた。

「今決められるのは、そこまでだ」

「なら、動く前に俺へ知らせろ」

「どの段階で話せば満足する?」

「勝手に予定を組み始める前だよ」

 レイジは豆を1つ口へ放り込み、噛み砕いた。

「お前は考え始めると、途中から他人を入れなくなる」

「そんなつもりはないけどな」

「自覚がないなら、余計にこっちで見ておく必要がある」

「前にも聞いた話だな」

「5年前にも同じことを言ったからな」

 キョウジの指がグラスの縁で止まった。

 レイジは声を低くしたわけではない。ただ、先ほどまでよりゆっくりと話している。

「あの時のお前は、全員で帰ることよりエミルを追うことしか見えてなかった」

「今でも覚えてる」

「責めてるわけじゃない。俺だって同じ立場なら、似た判断をしたかもしれない」

 酒場の奥で、誰かが大声で乾杯している。

 2人のグラスには、まだ少し酒が残っていた。

「だから、今度は1人で抱えるな」

 レイジは自分のグラスを軽く持ち上げる。

「探すなら手伝う。止めるつもりはない」

「第3小隊を私用へ付き合わせる気か?」

「仲間を1人で突っ込ませるお前よりは、まともな使い方だと思うぞ」

「否定はしないんだな」

「隊員は巻き込まない。俺が手伝う」

 レイジは残った酒を一口で飲まず、少しずつ喉へ流した。

「見つけたあとをどうするかは、お前が考えろ。ただし、見つける前に勝手に死ぬのは許さない」

「俺が先に死ぬ話へ持っていくなよ」

「ユウトの棺を見送った日に、自分だけは帰れると言い張れるほど馬鹿じゃないだろ」

 キョウジはグラスを見つめた。氷がほとんど溶け、酒の色が薄くなっている。

「次は先に話す」

「本当に?」

「ああ。任務記録を調べる段階から共有する」

「そこまで言うなら信用してやる」

「ずいぶん偉そうだな」

「5年前のお前を知ってる人間の特権だ」

 キョウジは残っていた酒を飲み干した。

 空のグラスを置くと、店主が少し離れた場所から2本指を立てる。追加を聞いているらしい。

 キョウジが首を横に振ると、レイジが代わりに1本だけ指を上げた。

「まだ飲むのか」

「水を頼んだ」

 店主は水の入ったグラスを2つ置き、小皿に残った豆を見た。

「食べ物は?」

「こいつがいらないって言ってる」

「俺へ押しつけるなよ」

 店主は呆れた顔で厨房へ戻り、間もなく薄いパンへ合成肉を挟んだ軽食を持ってきた。

「閉店まで座るなら食え」

「注文してないぞ」

「店を会議室にされるよりましだ」

 レイジが声を立てて笑った。

「聞いたか。やっぱり会議に見えたらしいぞ」

「お前が仕事みたいな顔で飲んでるからだ」

「俺の顔に責任を負わせるな」

 キョウジは半分に切られたパンの一方を取り、もう一方をレイジの皿へ置いた。まだ温かい。

 2人は話を止め、しばらく食事を続けた。

 酒場の騒がしさが、ようやく単なる雑音ではなく、仕事を終えた夜の音として耳へ入ってくる。

 キョウジが食べ終える頃には、グラスの水も半分ほど減っていた。

「そろそろ帰るか」

 レイジが立ち上がる。

「今日はお前が払えよ」

「誘った側が言うことか?」

「手伝う約束をしただろ」

「まだ何もしてない」

「予約料だ」

「そんな理屈が通る店じゃないぞ」

 店主が差し出した決済端末へ、キョウジは認識バンドをかざした。短い決済音が鳴り、レイジが満足そうに立ち上がる。

「ごちそうさん」

「次は倍取る」

「その時になったら交渉しよう」


 酒場の外へ出ると、湿った夜気が火照った頬へ触れた。

 中層の通りはまだ眠る気配を見せず、ネオンの下を酔客や夜勤へ向かう作業員が行き交っている。

 レイジはポケットへ両手を入れ、キョウジと並んで歩いた。酒場では途切れず続いていた会話も、外へ出れば自然と少なくなる。

 通路の分岐へ差しかかると、レイジが自宅とは違う方向へ顎を向けた。

「俺はこっちだ」

「ああ。気をつけて帰れよ」

 キョウジが歩き出そうとすると、レイジが背後から声を掛けた。

「キョウジ」

 振り返る。

 レイジは何かを言いかけたが、酒場で伝えた話を繰り返す気はないらしく、少し考えてから手を上げた。

「明日、頭が痛くても俺のせいにするなよ」

「水しか飲んでなかった男に責任はないだろ」

「お前は酒を飲んだ」

「一杯だぞ」

「普段の量が多すぎて基準が壊れてるな」

「心配して損した。さっさと帰れ」

「お前もな」

 レイジは笑い、雑踏の中へ歩き出した。

 大柄な背中が人波へ紛れる直前、一度だけ振り返る。キョウジがまだ分岐にいるのを確かめると、今度こそ手を上げて角の向こうへ消えた。


     ◆


 自室へ戻った頃には、人工空は深夜設定へ切り替わっていた。

 古びた雑居棟の階段を上がる間、剥き出しの配管が低く振動し、近くの部屋から古い映画の音声が漏れている。

 扉を開けると、見慣れた狭い部屋がキョウジを迎えた。

 テーブルには昨夜のグラスが残り、椅子の背には脱ぎ捨てたジャケットが掛かっている。読みかけの本は伏せたまま置かれ、窓辺の観葉植物だけが、ほかの物とは違ってきちんと整えられていた。

 キョウジはジャケットを脱ぎ、椅子へ掛け直す。

 途中で植物の葉へ目が止まり、エミルが水をやっていた姿を思い出しながら、指先で乾いた土を確かめた。


『お帰りなさい』


 耳元のデバイスからミオの声が届いた。

「まだ勤務中だったのか」

『なんだか眠くなかったので』

「たまには休んだ方がいいぞ」

『では、今から休止します』

「本気か?」

『嘘です』

 キョウジの手が止まった。

「そんな冗談も言うようになったんだな」

『ノアから、会話には適度な冗談が必要だと教わりました』

「相手は選んだ方がいい」

『ミオにも同じことを言われました、と彼は話していました』

「本人の前でも同じことを言ってやれ」

『既に伝えました』

 キョウジは思わず小さく笑い、植物から手を離して端末の前へ座った。モニターが起動し、薄い青白い光が室内へ広がる。


『調べたいものがありますか』


 以前なら、ミオはキョウジが端末へ触れた時点で目的を尋ねていた。今日は操作を始めるまで待っている。

「5年前の任務記録を見たい」

 僅かな間が置かれた。

『エミル・アマギが行方不明となった任務ですね』

「ああ」

『記録番号は残っていますか』

「忘れるような番号じゃない」

 キョウジは端末へ番号を入力した。

 地表東部廃棄区画で実施された複数部隊合同任務の概要が表示される。アバレントの大量発生、急激に悪化した気象条件、構造物の崩落、帰還者名簿。

 指先で画面を送り、詳細記録を選択した。

 表示が一度暗くなり、中央に短い警告が浮かぶ。


 ACCESS RESTRICTED


 キョウジは指を止めた。

「閲覧制限が掛かってる」

『小隊長権限による照会が拒否されました』

「事故記録だぞ」

『通常の事故記録であれば、現在の権限で閲覧できます。今回の制限は標準の保護区分と一致しません』

 キョウジは認識バンドを端末へ近づけ、権限を再認証した。画面が読み込み状態へ変わったあと、同じ警告へ戻る。


 ACCESS RESTRICTED


「そっちから別の経路を辿れるか?」

『照会元を管制記録へ切り替えます』

 表示の端へ小さな処理記号が浮かび、複数の接続先が順に閉じていく。

『任務番号、帰還者名簿、当時の出撃記録から照会しましたが、詳細記録へ接続する段階で経路を遮断されます』

「権限が足りないのか?」

『要求されている権限区分そのものが表示されません。少なくとも、通常の管理局記録とは異なる扱いです』

「そんな記録、前にも見たことがあるか?」

『ありません。私が参照できる範囲では初めてです』

 キョウジは画面を見たまま、指先で机を一度叩いた。

「事故以外の何かが記録されてるのかもしれないな」

『現段階では推測になります』

「推測でも、放っておく理由にはならない」

 別の経路から任務番号を検索し、帰還者名簿から詳細記録へ辿ろうとした。表示されたのは同じ警告だった。


 ACCESS RESTRICTED


「明日、管理局へ問い合わせる」

『キョウジ』

「今度はどうした?」

『問い合わせは今夜でなくても構いません』

「今から送っておけば、明日には返事が来るかもしれない」

『あなたは地表任務から帰還したばかりです。アルコールも摂取しています』

「一杯しか飲んでないぞ」

『量を問題にしているのではありません』

「なら、止めたい理由を聞かせてくれ」

 ミオはすぐには答えなかった。

 モニターの光が、窓辺の葉の縁を青白く浮かび上がらせている。

『今のあなたは、答えへ辿り着くまで調査を中断しないと予測しています』

 キョウジは画面から視線を外さない。

「止めた方がいいと思うのか?」

『少なくとも、1人で進めるべきではありません』

 酒場で聞いたレイジの言葉と重なった。

 キョウジは椅子へ身体を預ける。

「今日は同じ忠告を2度聞いたな」

『レイジ隊長から何か言われたのですか』

「お前と似たような話だよ。エミルを探すなら、1人で抱えるなってさ」

『その意見を支持します』

「そう言うと思った」

 短い沈黙が落ちる。

 通信障害ではなかった。ミオが言葉を選んでいるのだと、今のキョウジには分かった。


『あなたに死んでほしくありません』


 部屋には、換気ファンの回転音だけが残った。

 キョウジは画面を見つめたまま、ほんの僅かに眉を緩める。

「心配性になったな」

『否定はしません』

「それもノアから教わったのか?」

『心配することは、誰かから教わるものですか』

「俺にも判断できないな」

 キョウジは再び画面へ手を伸ばした。

 権限情報を変え、検索経路を組み直し、もう一度接続を試みる。短い読み込みのあと、赤い警告が静かに表示された。


 ACCESS RESTRICTED


 5年前にエミルが消えた任務の記録は、今も誰かの手によって閉ざされている。

 キョウジは、その文字から目を離さなかった。

第2話を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。


戦闘ではなく、帰還した者たちが何を思い、どう日常へ戻っていくのかを描いた回になりました。


キョウジやレイジ、そして第7小隊の空気を感じていただけていたら幸いです。


次回からは、今回残された謎にも少しずつ触れていきます。


これからも『ラストスカイ・アンダーグラウンド』をよろしくお願いいたします。

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