白い地表
はじめまして。
『LASTSKY UNDERGROUND』を読んでいただきありがとうございます。
地下都市と白い地表を舞台にした、大人たちのSF群像劇です。
楽しんでいただければ嬉しいです。
『キョウジ。起床予定を11分過ぎています』
耳元の薄い端末から届くミオの声に追い立てられ、キョウジは枕の脇を探った。指先が端末へ触れても声は止まらない。アラームなら消せたが、回線の向こうにいる相手まで黙らせる機能は付いていなかった。
「起きてる。起きてるから声を少し落としてくれ」
『応答を確認しました。出発予定時刻まで31分です』
「それだけあれば間に合うだろに」
『現在の心拍数と応答速度を考慮すると、そうは判断できません』
「寝起きの人間に何を期待してるんだ」
『少なくとも、もう一度眠らないことを期待しています』
「違いない」
閉じかけた瞼を開くと、低いテーブルの上で空の酒瓶が横倒しになっていた。グラスの底には琥珀色の液体が僅かに残り、脱ぎ捨てた上着の片袖が床まで垂れている。昨夜、部屋へ戻ってから飲み始めたところまでは覚えていたが、グラスを何杯空けたのかは曖昧だった。頭の奥に残る鈍い痛みだけは、数える必要もないほどはっきりしている。
『水分を取ってください。出発前の検査で勤務基準を超えた場合、地表任務には参加できません』
「心配しなくても、その頃には抜けてるよ」
『昨夜も同じ見通しで飲酒を続けたのですか』
「説教するなら、せめて水を飲んでからにしてくれ」
『私が待つ理由はありません。飲みながら聞いてください』
ベッドを出た足が床の保存食容器へ当たり、中身のない箱が装備棚の前まで滑った。部屋の大半は片づいているとは言い難かったが、壁際のソード型アークブレードと交換部品だけは決めた位置に収まっている。電池筒、発振部、放熱材の順に並んだ棚には空きがあり、次に手を入れる場所まで決まっていた。
水を口へ流し込み、シャワールームへ向かう途中で、窓から離れた部屋の隅にある観葉植物の葉が目に入った。鉢の土にはまだ湿り気が残っている。葉先に積もった薄い埃を布で拭っていると、耳元から残り時間が告げられた。
「今やってるところだよ」
『何をしているかは把握していません。予定からさらに1分経過したため伝えました』
「だったら、あと1分だけ待ってくれ」
『すでに1分経過しています』
「お前と話してる時間も入ってるんじゃないか、それ」
返事を待たずにシャワールームへ入り、冷たい水を頭から浴びた。首筋へ流れる冷気で眠気は薄れたが、頭の奥の鈍い痛みまで消えてはくれなかった。
◇
部屋を出る頃には、窓の向こうを覆う巨大スクリーンが淡い青へ切り替わっていた。天井まで続く雑居建築の隙間へ人工の光が入り、勤務区画へ向かう住民と交代を終えた作業員が同じ通りを行き交っている。頭上の輸送レールを貨物車両が通過するたび、古い建物の外壁から細かな埃が落ちた。
隣室では赤ん坊が泣き、その向こうで誰かが給湯設備の順番を巡って揉めている。階下から流れてくる古いジャズも、換気装置の低い振動も、キョウジが階段を下りる間に音量を増していった。
『正面の昇降機を使用すれば、移動時間を短縮できますが』
「以前、あれに閉じ込められた話はしただろ」
『直近の点検記録に異常はありません』
「2回とも、その記録を信じて乗ったんだ」
『同じ故障が3度発生する確率は低下しています』
「確率がゼロになったら教えてくれ」
階段を選んだ分だけ残り時間は減ったが、重い外扉を抜けた先には、いつもと同じネオ・ヘイヴンの通りが動いていた。湿った空気へ屋台の香辛料と機械油の匂いが混ざり、決済端末の短い電子音、運搬車の警告音、店を開ける金属シャッターの擦れる音が途切れず重なる。ビルの隙間から見える青空には雲まで流れていたものの、少し待てば同じ形が戻ってくるように出来ていた。
人の流れを縫って地表昇降区画へ向かう途中、半分だけシャッターの上がったジャンク屋から工具の柄が突き出した。
「ひでぇ顔だな。そんなんで上へ行くのか」
店の奥から部品箱を引きずり出していたバルドは、それを店先の台へ載せて蓋を開けた。
「顔で任務するわけじゃないだろ」
「さては酒の匂いでアバレントを追い払うつもりだろ?」
「そうだよ、試しに近くで嗅いでみるか」
「店を開ける前に吐かれちゃ困る。あー、そこから動くな」
キョウジは足を止めたまま、箱の一番上に載っていた薄型の放熱フィンを見つけた。旧式だが接続部は磨かれ、歪んだ箇所も削り直されている。
「それ、どこから持ってきたんだ?」
「そういうもんを見つける時だけは、目が覚めるんだな」
「いくらなのかは聞かないさ」
「旧型の廃棄品を3枚潰して1枚にした。お前のソードへ載せるなら、取付基部から削り直しだな」
『出発予定時刻まで14分です』
耳元の声を聞いたバルドが、放熱フィンをさっさと箱へ戻した。
「今日は諦めろ。残ってたら帰りに見せてやる」
「取っておいてくれないか」
「取り置き料を払うならな」
「その部品より高く請求するだろ」
「よく分かってんじゃねぇか」
工具を取り直したバルドの背後で、店内照明が何度か明滅してから点いた。
「早く行け。遅刻した理由に俺を使うなよ」
「もう使うつもりだったのに」
「なら、ついでに無事に帰ってこい。代金を取り損ねる」
「そこは心配してくれるんだな」
「部品のな」
片手を上げて通りへ戻ると、耳元から移動速度の不足を指摘された。キョウジは走るほどではない歩幅で人波を抜け、灰色の外壁を真っ直ぐ立ち上げた地表昇降区画へ急いだ。
◇
認証ゲートを抜けた時点で、集合予定には2分遅れていた。乾いた空気の中を整備員が行き交い、搭乗区画では第7小隊と第3小隊の装備が出発用固定具へ順に収められている。
「惜しかったな。あと1分遅ければ、俺が隊長代理だった」
大型の大剣を固定していたレイジが空いた手を差し出し、キョウジの認識端末を受け取った。遅延申請の欄にはすでにレイジの識別情報が入っている。
「勝手に乗っ取るな。遅延理由は移動経路の混雑でいい」
「ジャンク屋の前で立ち止まった記録も付けとくか?」
『正確には2分18秒です』
「ミオ、お前はどっちの担当だ」
『記録の正確性を保つ担当です』
「いい相棒じゃないか。大事にしろよ」
「交換できるなら、お前のノアと替えてもいいぞ」
『ぼくを物みたいに回さないでくださいよ。レイジ隊長だけでも手いっぱいなんですから』
第3小隊の回線から入ったノアの声へ、レイジは遅延申請を承認して返した。
「そう言いながら楽しんでるだろ」
『そこまで暇じゃありません』
近くではリオが双剣型の発振状態を点検し、左右の出力差を整備員へ送っていた。ユーリはアークアンカーの射出器と予備電極を別々の固定具へ収め、セナは地表装備の受領記録を確認している。大型シールドを運び終えたガンツの隣に、見慣れない若者が標準仕様のソード型を抱えて立っていた。
隊員服にも装甲にも目立つ傷はなく、腰へ下げた工具や予備電池の位置まで支給時の見本に近い。キョウジが来てから何度もこちらを気にしていたが、話しかけるタイミングを決められずにいるらしい。
「今日から入るユウトです」
セナに促され、若者は抱えていたソードを慌てて固定具へ入れた。
「本日付で第7小隊へ配属になりました。よろしくお願いします」
「地表は初めてか」
「はい。訓練区画までは何度も出ています」
「じゃあ今日は訓練で覚えたことを全部やろうとするな。周りを見失ったらセナの位置を探せ。勝手に前へ出ないで、分からないことは聞くんだ」
ユウトは順番に覚えようとするように頷いた。
「初日から手柄なんて誰も求めてない。帰ってくれば十分だ。まあ要は、死ぬなよ」
「……はい」
「最後だけ急に重くするなよ」
レイジが横から割って入り、ユウトの装備票に不足がないことを確かめた。
「新人へ最初に言う台詞じゃないだろ」
「一番大事だと思うけどな」
「大事だから言い方を考えろって話だよ」
「レイジ隊長なら何て言うんです?」
「俺の近くへ来た時だけ気をつけろ。でかい得物は急に止まらん」
「そっちも大概じゃないですか」
アシュの声が第3小隊側から飛び、搭乗準備を続けていた者たちの間に普段の話し声が戻った。副隊長のツキノは任務情報を確認したまま会話へ入らず、セイルは弓形アークブレードの照準器を吹雪用の設定へ切り替えている。ダリウスが最後の工具箱をエンジニアから受け取り、昇降機の中央へ固定したところで搭乗開始の表示が点いた。
開いた扉へ向かう前に、レイジは地表図の外縁へ残された検索履歴を指した。
「今日も探すのか」
「任務のついでに拾える範囲だけな」
「ついでと逆にならなきゃ止めん」
「お前に言われなくても、そのくらいは弁えてるさ」
「ならいい」
両小隊とエンジニアが昇降機へ入り、壁際の座席と中央の機材固定部へ分かれた。扉が閉じると施設の足音が遮られ、気圧調整の低い作動音が足元から上がってくる。
『地表到達まで6分40秒です。第4外縁ダクトでは、3区画にわたって流量低下が続いています』
ミオが共有した立体図では、地表へ延びる太い管の途中が赤く表示されていた。
『保守班が外装を開放し、内部の閉塞と流量制御ユニットを確認します。第3小隊は作業範囲の周辺警戒、第7小隊は外周の移動警戒を担当してください』
『吹雪で固定観測の精度が落ちています。遠くの反応は輪郭が潰れるので、数より近づき方を先に流しますね』
ノアの補足に合わせ、地図の北西側へ広い警戒範囲が加わった。
「作業班の周りは俺たちで固める。外で拾った奴は、ダクトへ寄せる前に離してくれ」
「分かった。手に余ったらそっちへ送るよ」
「その時は送り返すぞ」
「仲良く分けようじゃないか」
「そう言う奴は大抵、多い方を渡してくるんだよ」
向かいの座席ではユウトが膝の上へ置いたソードの安全装置を確かめていた。指が同じ箇所へ3度目に触れる前に、隣のセナが手の甲を軽く叩く。
「そこ、触りすぎると解除するよ」
「すみません」
「謝らなくていいから、表示だけ確認して。起動したら同じ情報がN-LINKにも出る。手元ばかり見てると足場を取られるよ」
「はい。セナさんのソード、少し形が違いますよね」
「手に合わせて削ってあるの。放熱も長く使う方へ寄せてる。自分の癖が分かってから変えればいいよ」
標準仕様のままのソードと並べると、グリップの太さや刀身基部の放熱部品が違って見える。ユウトが興味を向けた分だけ指の震えは収まり、装備の話を続けるセナの声にも余計な励ましはなかった。
ガンツが通路を挟んだ席から手を伸ばし、ユウトの肩と胸部装甲を繋ぐ固定具を引いた。緩んだ金具が締まり、胸元へ浮いていた装甲が身体に沿う。
「ありがとうございます」
ガンツは締めた固定具が緩まないことを確かめ、シールドの固定状態へ手を戻した。
「ユウト、気分が悪くなったら早めに言えよ。地表へ出てから吐くと面倒だからな」
「そ、そこまでじゃありませんよ」
「無理に我慢するとバイザーの中で凍るぞ」
「隊長、初任務の人を脅かさないでください」
セナの注意にも、キョウジは水分補給用のパックをユウトへ放った。
「脅してない。経験者からの助言だ」
「隊長は吐いたことがあるんですか?」
「昔の話だがな」
『出発前検査では、キョウジの血中アルコール濃度は勤務基準内です』
「誰も今の数値は聞いてないだろ」
『関連情報として必要だと判断しました』
「なるほど。昔だけじゃないんですね」
「ユウト、お前は初日から馴染むのが早いじゃないか」
昇降機が上がるにつれて会話は減り、地表側の風圧が遠い金属音となって壁へ伝わり始めた。ユウトはパックの水を飲み終えると、今度は安全装置へ触れずにソードを膝から持ち上げた。
◇
昇降機が停止し、地表側の隔壁が開くにつれて白い冷気が床を這った。バイザーへ気温と風速が表示され、吹き込む粉雪が隊員たちの足元を覆っていく。
『気温マイナス4度、風速は毎秒27メートル。固定観測の有効範囲は通常の約6割です』
先頭のレイジが地表へ出たあと、第3小隊はエンジニアを囲める幅を保って外へ広がった。第7小隊も反対側へ展開し、ガンツが作業班との間に残る。灰色の雲と白い雪原の境は吹雪へ溶け、数10メートル先の第4外縁ダクトも太い影として途切れながら見えていた。
ダクトへ到着すると、エンジニアたちは点検口の除雪から始めた。外装を覆う氷へ加熱具を当て、固定具の周囲だけを溶かしてから大型の開閉器を噛ませる。重いパネルが少しずつ外へ開き、内部の暖気が白い蒸気となって吹雪へ吸い込まれた。
「閉塞が奥まで続いてる。第2ユニットも開けるぞ」
「流量制御まで触るなら、どれくらい増える?」
「中を見ないと断言できません。30分で済めば早い方です」
「時間は気にしなくていい。外はこっちで持つ」
レイジが作業範囲の北側へ移り、第3小隊も足場とエンジニアを囲む位置を整えた。外周へ出たキョウジたちは、ダクトから離れすぎない半径で雪原を巡回する。視界が白く閉ざされるたび互いの識別表示だけが残り、風が弱まる数秒の間に倒壊した構造物と雪に埋まった配管が姿を戻した。
ユウトはセナから数歩後ろを保ち、足元と外側を交互に拾っている。訓練どおりに動こうとする硬さはあったが、勝手に距離を広げることも、吹雪の奥だけへ意識を取られることもなかった。
「今の位置ならそれでいい。風が強くなったら、私の識別表示を見失わないで」
「はい。思っていたより何も見えないんですね」
「見えないだけで、何もいないわけじゃないよ」
セナの言葉が終わるより先に、共有回線へノアが入った。
『北西に移動反応。距離は約620メートルです』
作業音は止まらず、警戒中の隊員だけが北西側へ重心を移した。
「数は拾える?」
『今のところ1つ。ただ、反応の横幅が大きい。吹雪で戻りが散ってる可能性もあります』
『複数の熱源が重なっている可能性を排除できません』
ミオの補足を受け、第7小隊は外周を狭めた。リオとユーリが左側を受け持ち、セナはユウトを作業班寄りへ戻す。ガンツのシールドがエンジニアの正面に収まる頃、白い雪煙の中で黒い影が急速に膨らんだ。
『距離340。反応の分離を確認しています』
熊に似た巨体が吹雪を割り、4本の脚で雪を蹴り上げながらダクトへ向かってくる。白い体毛には氷がこびりつき、太い前脚の先で黒い爪が覗いていた。
『確認しました。グリズ級です』
赤い眼が作業班を捉え、低く落ちた肩がさらに沈む。ガンツは正面へ踏み込み、大型シールドの下端を雪へ噛ませた。青白い発振面へグリズ級が衝突し、雪が両側へ吹き飛ぶ。足元に深い溝を刻まれてもガンツは倒れず、盾を斜めにずらして巨体の頭を作業班から外へ向けた。
開いた右側へキョウジが入り、首と肩の境へソードを走らせた。刃は凍りついた体毛に弾かれたが、その反動で顔を上げた個体の前脚へリオの双剣が重なる。片方で爪の軌道を外し、もう片方が関節の内側へ浅く入った。
『反応が分かれました。後続が2体、左右から来ます!』
雪煙の左側に現れた影へレイジが向かい、ツキノとアシュも作業足場から離れる進路を取った。もう1体はダクトの反対側へ回り込み、エンジニアの退路へ近づいている。
「第7は最初の個体を外へ押す。ダクト側は頼む」
「そっちは追わせるなよ。終わったらこっちへ回る」
レイジの大剣が左のグリズ級の進路へ入り、振り下ろされた前脚を受けるのではなく外側へ滑らせた。体勢の崩れた巨体へツキノの薙刀が低く走り、左前脚の内側を払う。アシュは傷口を追わず、反対側の眼前へシミターの光を通して頭をさらに外へ向けた。作業班へ戻ろうとした肩口へ、レイジの大剣が斜めから食い込んだ。
反対側ではセイルの光矢がグリズ級の顔を掠め、ダクトへ向いていた注意を足場の外へ引いた。ダリウスは正面に立たず、突進で伸びた前脚の付け根へバトルアックスを落とす。硬い体毛へ止められた刃を無理に押し込まず、身体を返そうとした個体の進路へガンツが戻り、シールドの側面を肩へぶつけた。
3体へ分かれたことで、作業班を囲んでいた2個小隊の間隔も大きく開いている。キョウジたちが受け持つ個体はダクトから離れたものの、広い雪原へ出たことで左右へ動ける幅を取り戻していた。ユーリのアークアンカーが右後脚へ刺さり、支持柱へつないだワイヤーが踏み込みを止める。リオは拘束された側へ寄らず、反対の前脚を狙って巨体の向きを固定した。
「そのまま左へ回してくれ。ダクトへ顔を戻させるな」
「引けるのは長くて2秒です」
「それだけあれば足りる」
キョウジが頭部の外側へ入り、開いた顎の下へソードを当てた。噛みつきの軌道を上へ逸らされたグリズ級が前脚を振り回す間に、リオの双剣が傷ついた関節へ続けて入り、体重を支えきれなくなった巨体が片側へ傾く。張り詰めていたワイヤーをユーリが切り離すと、自由になった後脚は踏み直す場所を失い、そのまま雪へ沈んだ。
首の付け根へソードを差し込んだキョウジは、刀身基部を体毛の内側へ押し当てた。
『発振部の負荷が上昇しています』
「少しだけでいい。上げてくれ」
『上限到達前に解除します』
青白い光が強まり、厚い体毛の下で刃が沈む。巨体が身体を起こそうとしたところへ双剣が前脚の傷を広げ、最後の支えを失った頭部が雪へ落ちた。キョウジが発振を戻して刃を抜く頃には、赤い眼から光が消えていた。
『正面個体の生体反応が消失しました』
左側では、レイジたちの個体が前脚を傷つけられたままダクトへ向きを戻そうとしていた。ツキノの薙刀が進路を塞ぎ、外へ逃れた頭部の先にアシュが回る。シミターで眼前を裂かれたグリズ級が上体を起こしたことで、首の下に体毛の薄い箇所が現れた。そこへ大剣が下から入り、巨体の重さを受けながら深く押し通す。首を振る抵抗が弱まり、レイジが刃を外へ抜くと、前へ傾いた身体が雪を大きく押し潰した。
残る1体は足場沿いを走り、ダリウスとガンツの間を抜けられずに進路を変えていた。セイルの光矢を避けた先には、作業班の前へ戻ったセナとユウトがいる。セナはソードを低く保ったままユウトを半歩後ろへ入れ、グリズ級がどちらへ出ても横から触れられる位置を取った。
ダリウスのバトルアックスが後脚の外側へ当たり、巨体の進路が僅かに内へ寄る。ガンツがその肩へシールドを差し込んだものの、雪を深く踏み抜いた足場では押し返す角度を作れない。グリズ級は盾の縁へ前脚を掛け、身体ごと乗り越えるように作業班側へ頭を伸ばした。
セナが横から鼻先を斬り、赤い眼がそちらへ動く。続く噛みつきを外へ逃がしても、巨体は狭い足場の中で向きを変え、今度はユウトを正面に捉えた。
「セナの後ろへ下がるんだ!」
キョウジの声は届いていた。ユウトの靴が雪を踏み、身体も後ろへ動こうとしている。だが、目の前で持ち上がった巨体と黒い爪に呼吸を奪われ、次の一歩を出せずにいる。
グリズ級が前脚で雪を抉り、両者の間へ入ったキョウジは、振り上げられた右前脚の内側へソードを差し込んで踏み込みの勢いごと外へ押すと、青白い刃が関節へ食い込み、突進の軌道はユウトから逸れたが、体勢を崩した巨体が反対の前脚を横へ振る。
黒い爪はキョウジの肩を掠め、その後ろへ残っていた胸部装甲を斜めに切り裂いた。
装甲板の割れる音とともにユウトの身体が雪面を転がり、手を離れた標準型ソードが少し離れた場所へ落ちた。セナが追おうとした前をグリズ級の尾が薙ぎ、足場の支柱へぶつかった金属音が響く。
「ガンツ、作業班を動かすな。リオはこいつの左を潰してくれ!」
キョウジが傷ついた右前脚へ刃を残し、巨体の注意を引き戻す。ガンツはエンジニアの前から離れず、シールドで開いた通路を閉じた。左へ入ったリオの双剣が眼前と前脚を交互に裂き、向きを変えようとする動きを止める。
後方から戻ったレイジの大剣がグリズ級の肩へ入り、ユウト側へ傾いていた上体を反対へ押した。
「こっちは終わった。倒れた方へ戻させるなよ」
返事の代わりにユーリが新しい電極を射出し、傷の残る後脚へアンカーを打ち込んだ。支持柱へ伸びたワイヤーが腰を引き、前へ出ようとした身体をその場へ縫い止める。セイルの光矢が残った眼へ刺さり、頭部が上がったところへダリウスのバトルアックスが胸元を深く割った。
グリズ級は拘束を引きちぎろうと身を捻ったが、ガンツのシールドが横から前脚を押さえ、レイジの大剣が開いた傷をさらに広げる。最後にキョウジのソードが顎の下から首へ届くと、巨体は力を失って横倒しになった。
『3体すべての生体反応が消失しました。新たな接近反応はありません』
キョウジは発振を切るより先にユウトのところへ走った。胸部装甲には右肩から左胸へ深い裂け目が入り、その隙間から流れた血が隊員服と雪を濡らしている。膝をついて首元へ指を当てても脈は触れず、認識バンドから送られる呼吸と心拍も平坦なままだった。
「ユウト!おいユウト、聞こえるか」
返事の代わりに、吹雪が開いた装甲の隙間へ雪を運んでいく。セナが傷口を塞ごうと救護材を出したところで、耳元へミオの声が届く。
『生体反応の消失を確認しました』
セナの手が止まり、取り出した救護材が膝の上へ残った。数歩遅れて来たリオはユウトの顔へ積もる雪を払い、ユーリは離れた場所で消えずにいた標準型ソードの発振を止めた。
エンジニアが昇降機から運んできた黒い搬送棺を開くと、ガンツがユウトの背と脚へ腕を入れた。胸部の傷が動かないよう身体を抱き上げ、雪の付いた装甲ごとゆっくり収める。ユーリは回収したソードを棺の脇の固定具へ置き、セナが歪んだ肩部装甲を内側へ戻してから蓋が閉じられた。
黒い金属が噛み合う音のあとも、ダクト内部では温かな空気が流れ続けていた。開いた外装をこのまま残せば、流量はさらに落ちる。作業責任者が閉塞箇所と損傷した工具を確認し、止まっていた班員をそれぞれの持ち場へ戻した。
「周辺は俺達第3が受け持つ。第7は装備を見たら外周へ戻ってくれ」
レイジは搬送棺の前へ立つキョウジに近づかず、第3小隊を広げて作業範囲を包んだ。キョウジも右肩の装甲が表面を削られただけだと確かめ、リオたちの損傷情報を受け取る。ユーリの射出器は予備電極で継続可能、リオとセナの発振部も規定内、ガンツのシールドには衝突時の歪みがあったが展開には支障がない。
「第7は北西側へ戻る。ユウトの場所まで空ける必要はない。この棺を中心に動ける範囲でいい」
5人になった識別表示が外周へ広がり、工具の音が再びダクトへ響いた。誰かが会話を始めることはなくても、作業は止まらない。内部へ入り込んだ氷塊が洗浄装置で砕かれ、詰まっていた排水路から雪と黒い汚れが押し出される。交換された流量制御ユニットへ電力が戻ると、開放部から噴き出す蒸気の勢いが少しずつ強くなった。
キョウジは外周を回るたび、黒い搬送棺が作業範囲の内側にあることを確かめた。地表へ出る前、あの中身は空だった。すぐそばではセナがユウトへ教えていた経路を今度は1人で通り、吹雪の奥と足元を交互に拾っている。
『第4外縁ダクトの流量が規定値へ復帰しました』
最後の外装パネルが閉じられ、固定具を締める工具の音が順に止まった。作業責任者が気密試験を終えるまで両小隊は配置を保ち、漏れがないことを確認してから機材の撤収が始まる。
『任務完了を記録しました。帰投経路上に大型反応はありません』
「ノア、南側も変わらないか」
『今のところ静かです。吹雪は強くなるので、帰りは識別表示の間隔を狭めてください』
エンジニアが工具箱を搬送具へ載せ、黒い棺もその列へ固定された。第3小隊が帰投経路の先へ入り、第7小隊は搬送具と作業班の後方を受け持つためダクト沿いへ集まる。
『待ってください』
耳元で変わったミオの声に、キョウジの足が止まった。
「どうした」
『生体反応を1つ確認しました。北東、約32メートルです』
「アバレントか?」
『いえ、この反応は人間と思われます』
レイジが第3小隊の足を止め、ツキノたちを作業班の周囲へ残したまま戻ってきた。北東側には崩れた構造物の影があり、その手前を吹雪が何度も白く塗り潰している。
風が一度弱まると、雪煙の向こうに細い人影が立っていた。長い外套を風に煽られながら、こちらへ近づくことも、逃げることもなく、両小隊と黒い搬送棺を見ている。
「認識情報は拾えるか」
『照合に必要な信号がありません。生体反応のみです』
人影が崩落構造物の陰へ入ろうと身体を横へ向け、長い髪が外套の外へ流れた。目元から顎へ続く輪郭が、吹雪の切れ間にほんの一瞬だけ現れる。
「……エミル?‥‥エミルなのか?」
キョウジは雪を踏み、2歩、3歩と人影へ近づこうとするも追ってきたレイジが腕を掴むより先に、その声が足を止めた。両小隊から離れた距離はまだ僅かだったが、次に雪煙が濃くなった時には崩落構造物も人影も白く消えている。
『反応が移動しています。構造物の奥へ――消失しました』
吹雪の向こうには、白い地表しか残っていなかった。
第1話を読んでいただきありがとうございました。
地下都市ネオ・ヘイヴンと、キョウジたちGRIDの日常。
そして最後に現れた、いるはずのない人影。
ここから少しずつ、地表と地下の間にあるものが見えてきます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




