第9話 箱庭の聖母
アポの時間になり、大神と波木の二人は校門をくぐった。校内にはゴミひとつ落ちておらず、綺麗に刈り込まれた芝生と周囲の木々が鮮やかな緑の空間を演出していた。
移動教室で行き交う生徒たちがこちらに気づくと優雅に会釈する。
「なーんか女子校って、独特の雰囲気ですよね。小職、このジャンルは嗜んでないですが、新たな世界が広がりそうです」
「お前の性癖なんぞ知らん」
「俺、ここに入学したいです」
「……お前は男だ。見惚れてないでさっさと歩け」
大神は波木の背中を小突いた。
波木の下衆な冗談は、先ほどの車内の件を「バディとして一応釘は刺しておく。だが、捜査には持ち込まない」と言ってくれているようで、沈んだ心が少しだけ軽くなった。
大神は校舎を見上げた。ミッション系らしく、教会をモチーフにした意匠が随所に取り込まれ、鐘楼の先端が青空に向かってそびえ立っている。
応接室へ通され、出された紅茶を啜っていると、白髪混じりの壮年男性が入ってきた。立ち上がり、頭を下げる。
「急にお伺いして、申し訳ありません」
「とんでもありません。それで、今日はどういったご用件で? お電話では、我が校の生徒の素行についての確認とお聞きしましたが」
男は教頭の黒木と名乗った。黒木は仕立ての良さそうなスーツを着こなした紳士然とした人物で、温和な表情を浮かべながらソファにゆったりと腰掛けていた。しかし、わずかに困惑した様子を見せながら大神たちに仔細を尋ねてきた。
「ええ。そちらでも把握されていると思いますが、最近、御校の生徒さんの補導件数が増加していまして。学校側でも何か気になることはありませんか? 例えば……外部との交友関係とか」
こちらの聞きたいことを察したのだろう。黒木は不快そうに眉をひそめ、手元の紅茶に視線を落とした。
「交友関係、ですか。……刑事さん。本校の生徒たちは皆、社会的地位のある確かなご家庭の子女です。放課後はご家庭の方針に基づき、教養を深めるための貴重な時間と捉えております」
黒木は顔を上げ、冷ややかな視線を大神に向けた。
「我々はご家庭と生徒を信頼しております。疑いを持って監視するような真似は、築き上げた信頼関係を損なう行為。教育者として、そのような〈警察的〉なアプローチは取れませんな」
「しかし、補導は事実です。万引きはともかく、繁華街での深夜徘徊や飲酒喫煙。接点はありそうなんですが」
大神に事実を淡々と告げられ、黒木は憮然とした表情で足を組んだ。
「では、この方に見覚えは?」
大神は懐から高峰の写真を取り出し、テーブルの上に滑らせた。
黒木は写真の男──いかにもな、派手な服装をした高峰を一瞥すると、汚いものでも見るかのように顔をしかめた。
「……いいえ。存じ上げませんな。本校の関係者でもなさそうだ。どういった方で?」
「ええ、この方ですが、先日御校を訪れていたようなんです」
スマホの位置情報履歴では、高峰が校内まで入ったかどうかまでは分からない。だが、カマをかけてみた。
「そうですか。最近、生徒を目当てにした不審者が多くて困っているんです。その一人では? 警察には、むしろそういった輩の取り締まりをお願いしたいものですな」
「おっしゃるとおりです。パトロールの強化については、こちらも検討いたします」
黒木は狼狽える様子もなく、逆に嫌味を返すほどだった。本当に知らないのか──こちらもひとまず頷いてみせる。ただ、もう少し突っ込んでみたい。
「……しかし、妙な話なんです。この方、実はこちらの地区にお住まいの方ではないんです。にもかかわらず、わざわざここを訪れています。やはりどなたかに会いに来たのではと」
「我が校は、こう言ってはなんですが、都内でも有数の知名度ですからな。社会的地位のあるご家庭も多い。遠方からもその手合いが来るのでしょう」
「……なるほど。有名税、というわけですか。とはいえ、この方、ある事件に関係しておりまして。つきましては防犯カメラを確認させていただきたい」
大神は鞄から捜査関係事項照会書を取り出し、黒木へ差し出した。
やはり人は〈書面〉に弱い。黒木は不服そうに口元を歪めた。
「……不審者対策の件もありますからな。しかし生徒のプライバシーのこともあります。できれば最小限の範囲でお願いしたい」
そう言って、しぶしぶ案内した。
黒木の立ち会いのもと、高峰が訪れたとされる時刻の映像を確認した。
だが、高峰はどこにも映っていなかった。つまり、敷地内には入っていなかったということだ。ということは、外で待ち伏せをしていたのかもしれない。
時刻は放課後だ。映像には正門から帰宅する生徒や、通用門を出入りする教職員が何人も映っている。
正門だったら生徒、通用門だったら教職員目当てなのだろうが──
高峰の目当ての人物を絞り込むのは難しそうだった。
横で黒木が鼻を鳴らした。
「どうですか? そんな男、来ていないでしょう?」
「……そのようですね」
「まあ、ですから私どもとしては、これ以上は何も申し上げられませんな」
取り付く島もない、とはこのことだ。
(これは、まともに当たってもダメだな。別方向を考えるか)
「よく分かりました。ご協力、ありがとうございました」
「そうですか。こちらこそ大してお役に立てず。さ、玄関までお見送りいたします」
大神が話を切り上げると、黒木は、早く帰れと言わんばかりにさっとドアへ向かった。
ちょうど二限が終わったようだ。廊下には生徒たちの弾んだ声が響いている。
黒木の後を歩いていると、廊下の向こうから柔らかな談笑が飛んできた。
生徒たちが一人の女性を取り囲んでいた。彼女たちは皆楽しそうに女性と話している。
女性は──小柄で少し猫背な、一見地味な雰囲気だった。だが、眼鏡の奥の瞳は柔らかく、生徒たちが女性をまるで母か姉のように慕っているようにも見える。
「優しそうな人ですね」
波木がポツリと呟いた。
「ああ、彼女は西園寺先生です。生徒たちに慕われてましてね。休み時間ともなると、いつもあんな感じです」
黒木が、やれやれといった風情ながらも、どこか誇らしげに言った。
その時、人垣の隙間から西園寺と呼ばれた女性と目が合った。彼女は生徒たちに小さく手を振って道を空けさせると、こちらへ歩み寄ってきた。
カモミールのほのかな香りが漂ってくる。
「教頭先生、お客様ですか?」
控えめで柔らかい声色だった。
彼女は少し野暮ったい眼鏡をかけていた。だが、その野暮ったささえも、彼女から滲み出る朴訥な優しさの一因なのだろう。生徒が慕うのも分かる気がした。
「ええ、まあ」
黒木が言葉を濁すと、西園寺は大神の方を向いた。彼女の眼鏡の奥には切れ長の瞳があった。その色は深く、大神はまるで吸い込まれるような感覚を覚えた。
「スクールカウンセラーをさせていただいてます。西園寺と申します」
彼女はすっと頭を下げた。その所作すらも慈愛を感じる。
「警視庁の大神と申します」
「波木と申します」
その瞬間、彼女の眼光がわずかに鋭くなったように見えた。
「警察の方……」
「はい。生徒さんの生活安全についての打ち合わせを」
「そうなんですね。ご苦労様です」
西園寺の軽い会釈に、大神も頷く。
「西園寺先生は昨年赴任されましてね。謙遜しておられますが、生徒からの信頼も厚い。しっかりやってますよ」
黒木は「だからお前たちもしっかりやれ」と言いたげな目を大神へ向けた。黒木にしてみれば、警察がちゃんとしてないから、うちの生徒が巻き込まれているんだ、という認識なのだろう。
「教頭先生、ここで結構ですよ。ありがとうございました」
「ああ、では私がお見送りいたします」
黒木のあからさまな態度に、さすがに居心地の悪さを感じた大神は遠慮の言葉を口にした。すると、西園寺が見送りを申し出た。黒木から西園寺に代わり、結局三人で玄関へ向かう。
「刑事さんなんですか?」
「ええ。まあ」
「刑事さんでも、生活安全に携われてるんですね」
「いやぁ、我々は結局〈何でも屋〉ですよ」
指輪のことなら〈何でも屋〉なので、嘘ではない。
「そうですか。でも、生活安全といえば、たしかに近頃生徒たちの私生活の乱れが気になっております。私もスクールカウンセラーとして最善を尽くしておりますが、なかなか力不足で……」
「とんでもないです。中学高校といえば難しい年頃です。ご苦労も絶えないでしょう」
(生徒を案じるスクールカウンセラー、か)
目の前のスクールカウンセラーは本気で生徒のことを思っているように見えた。小柄な彼女からは、意外にも意思の強さが窺えた。
ちょうど玄関の所で、前方から絢音が友人らしき数人と連れ立ってくる姿が視界に入った。
──マズイな。
今日来ることは話してない。なんで送ってくれた時は黙ってたんだ、などと文句を言われても面倒だ──できるだけ目を合わせないように、わずかに視線を逸らした。
絢音はこちらの姿に気づくと一瞬目を見開いた。
やっぱり気づいたか。頼むから黙っててくれ──と無関心なフリをする。
だが、絢音の視線を感じたのは一瞬だった。彼女は次の瞬間、横にいる西園寺を意識したようだった。絢音がチラリと西園寺を見た瞬間、その瞳孔がきゅっと収縮したように見えた。
その一連の所作はほんのわずかな時間だった。
次の瞬間には、彼女は完璧な〈お嬢様〉の仮面を被り直し、優雅に会釈をしてすれ違った。
「ごきげんよう」
その声にはいつもの生意気な響きも、甘えの色も一切ない。まるで赤の他人に対する薄皮一枚隔てた礼儀正しさだけがあった。
なんだ、今の顔は──大神の背筋に何かがぞわりと這った。
絢音は年頃の少女の羞恥心から自分を無視したのではない。自分の隣にいた〈何か〉から目を逸らしたのではないか。
車内に戻ると波木が神妙な顔をした。
「西園寺先生、優しそうな人でしたね」
「ああ」
それについては同感だが、どこか引っ掛かる。たしかに生徒に慕われているのは分かった。だが、そこではない。
あの一瞬見せた鋭い眼光は、スクールカウンセラーのそれとは異質なものだ。こちらを冷徹に観察するような視線。あれは──人間を見る目ではないような気がする。
それに先ほどの、絢音の妙な態度も引っかかる。
「今日、絢音に聞いてみるか」
「え? 西園寺先生の連絡先ですか?」
「何言ってんだ?」
「だって、主任もピンときたんでしょう? あのタイプは眼鏡を外したら化けますよ。何というか……優しそうに見えて目力を感じましたね」
波木は得意げに胸を張った。
俺は見る目がある、とでも言いたいのか。
「ふざけるな。帰りは運転しろ」
とはいうものの、波木が彼女の目に何かを感じたように、自分もあの瞳は気になった。
「ハイハイ、主任殿。そういえば絢音ちゃん、えらく他人行儀でしたね」
「……ああ。でも、さすがにあの場で声はかけんだろ」
「それはそうなんでしょうけど……」
波木は何か言いたげだったが、自分でもうまく言葉にできないようだった。しかし、波木が感じているであろうその違和感にも同感だった。
アクセルを踏み込む波木の横顔を見ながら、大神は窓の外へ視線をやった。白い校舎と緑のコントラスト。その狭間に何かが潜んでいる気がしてならない。
帰りの車内、西園寺のあの瞳が頭から離れなかった。




