第4話 非番の午後
あの夜から数日後。無事に退院した被疑者は取調室のパイプ椅子に縮こまるようにして座っていた。顔面は蒼白になり視線が定まらない。男からは悪意よりも、ただの恐怖しか感じられなかった。
柔和な表情を浮かべながら男の正面に座る波木が口を開いた。波木はこういう相手のときの雰囲気づくりが上手い。
「いやぁ、入院だなんて大変でしたね。体調はもう大丈夫ですか?」
「はい……」
「私は捜査一課の波木といいます」
では、といった感じで波木が軽く咳払いする。
「で、お名前は──田中駆流さんね」
「はい……」
「住所は、っと──」
波木が切り出すと、田中は消え入りそうな声で答え始めた。特に抵抗するような態度も見せず、大人しいものだ。
「──それで、指輪はどこで手に入れたの?」
「それは……SNSで割のいいバイトがあって」
「バイト?」
「はい……駅前のロッカーに指輪を取りに行って、はめるだけってやつで……」
「ええっ!? それだけ?」
「はい……でも、はめた後は何にも覚えてなくて……」
波木は軽く息を吐いた。
「で、気がついたら病院のベッドの上ってこと?」
「はい」
「またまた、そんなことある?」
波木の語気が思わず強くなり、彼は慌てて口元を押さえた。隅で調書を取っていた猫田が眉を寄せる。
「まあ、ゆっくり思い出してよ」
「本当なんです! はめた瞬間、視界が歪んで……」
田中は身を乗り出して訴えた。
「まあまあ、落ち着いて」
波木は立ち上がると背伸びをし、隅にいる猫田のパソコン画面を覗き込んだ。調書の中の『完全にサイコジャンキー』の一文に眉をひそめる。
「猫田さん……それ、マジで上げるの?」
猫田は何も言わず、その一文を削除した。
◇ ◇ ◇
「ありゃダメだな……話にならん」
魚住はマジックミラーの向こう側に見える田中の必死の様子を見つめていたが、やがて吐き捨てるように呟いた。
大神も無言で頷く。
この男からは何も出てこない──病院での検査結果も『観念動力補助機器の影響による精神汚染』とあった。
一度はめただけでここまでやられる指輪。しかも、あの高出力。ただの模造品とは思えなかった。
「田中、たいした怪我もなかったんだな」
「はい。頭部はもちろん、気道にも熱傷なしでした」
「頭が炎に包まれたって言ってたよな?」
「はい。そうなんですが……」
「それじゃ何か? 〈魔女〉は炎の熱を伝えないように空間を遮断して、酸欠にしたってことか?」
「ありえないですが、おそらく」
「それこそ、本物の〈魔女〉だな」
魚住は鼻で笑った。
「まあ、とにかく。あの様子じゃたいしたことも出てこんだろう」
「入手経路特定も難しそうですね」
「ああ。とりあえず、科捜研の分析待ちだな」
魚住は大きなため息をついた。
「大神。お前、今日非番だろ? 今日はもういいから、たまには早く帰れ」
たしかに、この前の非番はちょうどあの雨の夜だった。とはいっても、時計の針はいつのまにか午後三時を回っていた。事務処理が片付く頃には結局いつもと変わらない。明日が公休なのがせめてもの救いか。
「多分、すぐには動かん。明日は二班に任せるよ」
魚住は大神の肩をポンと叩くと部屋を後にした。
一人残された大神も軽く息を漏らし、指輪がはめられてない右手を無意識に握りしめた。
◇ ◇ ◇
「おぅ! 主任、どうだった?」
地下へ戻ると、ふんぞり返って新聞を広げている男が新聞から顔を覗かせた。烏丸だった。
先日、現場をすっぽかしたことなどすっかり忘れているような笑顔だ。もはや咎める気にもならない。
だが、思わず嫌味っぽく応える。
「烏丸さん、いたんですか?」
「なんだよ、つれないねぇ。おーい、ネコちゃん。お茶」
「猫田はまだ取調室ですよ」
「あっ、そうだった」
いそいそと給湯室へ向かう烏丸の背中を一瞥し、力が抜けたように、どさりと席に着いた。
烏丸が茶を啜りながら給湯室から出てきた。
「……で、ヤバい指輪なんだって?」
「ええ。一度はめただけで、コレです」
こめかみで人差し指をクルクルと回した。
「おお、コワ……そりゃ、どっちがマルガイか分からんな」
「不謹慎ですよ」
「あいかわらず固いねぇ。まあ、俺もいくつか当たってみるわ」
「アテにせず待ってます」
「うるせぇ」
烏丸は上着を椅子から剥ぎ取ると、ヒラヒラと手を振って部屋を後にした。
「まったく……湯呑みくらい片付けろよ」
大神は、無造作に放置された烏丸の湯呑みを手に取った。ふと時計に目をやると午後五時を過ぎていた。結局いつもの時間だった。
(それにしても、今の時間からどこへ行こうってんだ)
烏丸は、おおかた一杯引っ掛けて帰宅するだけに違いない。
大神から小さなため息が漏れた。
◇ ◇ ◇
「ありがとうございましたー」
お辞儀する店員を尻目にコンビニを出た。手には缶ビールとつまみの入ったレジ袋。本庁近くの居酒屋で軽めの夕食を取ったが、明日は公休だ、家でもう少しだけ飲むかと立ち寄ったのだ。
気づけば日は落ち、街灯だけがやけに明るい。足を引きずるように帰路を進んだ。
アパートの階段を昇るたび、靴底が乾いた音を立てる。共用廊下には隣室の明かりが漏れ、夕食時らしい気配があった。
鍵穴に鍵を挿した瞬間、大神は違和感を覚えた。
鍵が開いている──
まさか、空き巣? いや、それならまだマシだ。ロクに帰ってない自宅だ。空き巣も呆れる。だが、わざわざディンプルキーを狙う奴がいるのか? それに、鍵穴の周りにキズらしきものもない。
音を立てないよう、そっとドアを開ける。キッチンは暗い。だが、奥のリビングのドアからわずかに光が漏れていた。耳を澄ますと、何か話し声が聞こえる──複数だ。
指輪があれば──職務上、相手が指輪持ちの可能性もゼロではない。酔いが途端に覚め、首筋に汗が流れる。
一息吸い、リビングのドアへ一気に踏み込んだ。
「動くな!」
「キャハハ!」
リビングに飛び込むと同時に、少女の甲高い笑い声が上がった。
そこには──魔女がいた。




