第3話 赤いヒールの女
大神たちが現場処理を終え本庁へ戻ると、もう日が変わろうとしていた。静まり返った廊下に靴音だけが鈍く響いている。
廊下の最奥にある重厚な扉には『特殊装備保管庫』のプレートが掲げられていた。大神は扉を開け、小部屋の脇の壁に据えられた網膜認証パネルへ顔を近づけた。
認証完了を告げる、ピッと澄んだ電子音が小部屋に響く。パネルの横の壁の一部が開き、トレイが出てきた。トレイの底面にはラシャのような保護材が敷かれており、貴重な官品を傷つけまいとする配慮が窺えた。
大神は右手の指輪を外し、トレイに置いた。トレイは自動で閉じる。さらに横に設置されたモニターに、『リングデバイスID:02371 残量チェック中』の文字が浮かびあがった。再びピッと音が鳴ると、モニターには残量ではなく、初老の男性の顔が映し出された。
大神はモニターに視線を向けた。
「岩崎さん。今夜はあんたが当直か」
「おう。この歳じゃ、ちとシンドいな。それより大神よ、今日は珍しいな。ほとんど使ってないじゃないか」
「俺だって、いつも考えなしにぶっ放してるわけじゃない」
「まあ、チャージも安くないからな。そうしてもらえると助かる」
大神は薄い笑みを浮かべると小部屋を出た。
その瞬間、脳内を締め付けられるような痛みが走り、四肢に鉛が流れ込むような感覚が襲いかかる。指輪を使った反動だ。扉の脇の長椅子に座り込み、眉間を指で押さえ、目を閉じた。
1……2……3……
ゆっくり深呼吸すると、数分ほどで痛みは収まった。右手の甲の神経に沿ってほんのわずかに残っていた蒼白の光も消えていた。
たとえセーフティ付きであっても、神経経路を無理やり活性化させることは変わらない。分かってはいるが、この反動症状はいつまでたっても慣れない。
大神は長い息を吐くと立ち上がり、エレベーターに乗り込んだ。彼が押したボタンは捜査一課のある六階ではなく──地下二階だった。
地下二階──駐車場である一角を改築したそのエリアの入口には『捜査第一課 第四特殊犯捜査』のプレートが掲げられていた。
大神がその扉を開けると、そこは地上の洗練されたフロアとは大違いの狭く雑然としたオフィスだった。換気の追いつかない淀んだ空気に油と紙とコーヒーの匂いが混じっている。
「おう、ご苦労さん。非番だったのに、すまなかったな」
島の奥から魚住が軽く手を挙げた。だが、彼の表情はその軽い口調とまったく合っておらず、目の下にはクマがあり、頬は痩けていた。どう見ても「ご苦労さん」と言う側の顔ではない。
彼の机にある胃薬の瓶は半分も残っていない。
自席の横の席では、猫田を拾って先に帰庁していた波木が報告書を前に頭を抱えていた。
おおかた、魔女のことをどう書いたらよいのか考え込んでいるのだろう──大神は波木を一瞥し、自席にどっかりと腰を下ろした。
「あ、大神主任、お帰りなさい!」
向かいの席で、濡れたボブカットを拭いていた猫田が顔を上げた。大神に気づいた瞬間、係内最年少らしい笑顔が弾ける。
こんな、日も変わろうかとしている時間に凄いな、その表情──鏡を見なくても、今、自分が疲れた〈オジサン〉の顔をしていることを自覚させられた。
だが、後輩にはそれなりの態度を示さなければ──顔を引き締め、猫田に尋ねた。
「猫田、何か掴めたか?」
「被害者の人定はできました」
「早かったな。前科があるのか?」
「はい。高峰祐一、二十三歳。あの辺りをシマにしている半グレグループのメンバーです」
「近頃は半グレまで指輪持ちか」
大神はチッとわざとらしく舌打ちした。
「で、二十三?」
「はい」
「若いな。前科は何だったんだ?」
「傷害が二回、グループに入る前ですね」
魚住が椅子に背を預けて背筋を伸ばした。
「ふん。地元の不良がグループに入って、指輪を手に入れて調子に乗ったか」
面倒なことに──とでも言いたげに口を歪める。
大神は魚住の割り込みには反応せず、猫田への質問を続けた。
「指輪の入手経路は特定できそうか?」
「どうでしょう……半グレや暴力団が絡むと面倒かも」
猫田がチラリと天井に目をやった。上の階──他部署とのことを気にしているのだろう。
「構わん。指輪が絡んだら四特の仕事だ」
魚住が大きなため息をつき、胃薬の瓶をたぐり寄せた。
「はあ〜、売人探しか。今時、指輪の売人なんてゴロゴロいるだろう? 大丈夫か?」
「でも係長。結局、指輪はいくら模造品であっても一般人には使えませんよ。それなりに〈能力〉がないと。なので、ネットワークは意外と狭いかもしれません」
魚住のボヤキに猫田が軽く噛みつくと、魚住は胃薬を一錠口に放り込み、苦い顔で頷いた。
「まあ、被疑者の人定もこれからだしな。……病院だろ?」
「はい。二、三日入院とのことです」
「前科もない素人が指輪とはな。しかもデタラメに高出力な」
魚住は飲みかけの缶コーヒーを一気に飲み干すと、おもむろに立ち上がった。
「よし。退院を待って逮捕、取り調べ開始だ。指輪持ち同士、何があったのか調べなきゃならん」
「係長、コーヒーで胃薬飲んでも意味ないですよ」
「黙れ、波木」
魚住が波木を睨みつけると、波木は書きかけの報告書に慌てて目を落とした。
ガチャリと奥の扉が開いた。扉から細フレームの眼鏡をかけた女性がひょいと顔を出し、大神を呼んだ。
「大神、ちょっといい?」
「なんでしょう。管理官」
大神は奥の執務室に入ると軽く敬礼した。
本庁内は禁煙であるにもかかわらず、鼻腔に甘いメンソールの匂いがまとわりつく。目の前の机には乱雑に書類が積まれ、机上の灰皿には山のように吸い殻が溜まっていた。
部屋の隅では、空気清浄機が頼りない音を立てている。
「大神、〈魔女〉が出たんですって?」
「はい。俺は初めて会ったんですがね……あんなガキだなんて」
「ふーん」
目の前の女性管理官、七瀬警視は足をぷらぷらと揺らした。机の幕板の下から赤いヒールがチラチラと覗いている。緊張感の欠片もない仕草だが、その視線だけは硬質で、じっと大神を捉えたままだ。
「年齢は?」
「見た目は……十六、七かと」
「あら、若いのね」
七瀬はわざとらしく驚くと、くすりと笑った。
「まあ、いいわ。問題はそこじゃないもの」
彼女は足の動きを止め、机に頬杖をついた。
「その魔女の指輪──官品じゃありえない挙動だったらしいわね」
「はい。少なくとも、身体制御と発火を同時に」
「……ふうん」
七瀬は小さく息を吐いた。それは驚きでも困惑でもなく、『確認が取れた』という種類の反応だった。
「ねえ大神。あなた、その子が偶然そこにいたと思う?」
「まさか。毎回? ありえませんね」
「でしょうね」
七瀬は満足そうに頷いた。
「最近、指輪事案に首を突っ込んでくる第三者が増えてるの。半グレでも、マルBでもない。警察のルールを無視する連中。もちろん身内もよ」
大神は無言で聞いていた。
七瀬の口調はあいわらず軽いが、言っている内容は軽くない。
「で、その中でも、ある意味一番タチが悪いのが──」
七瀬は灰皿の縁を指で軽く叩いた。積もった灰がハラリと落ちる。
「魔女」
名前を口にした瞬間、室内の空気がわずかに沈んだ。
「分っかんないのよねぇ、目的が。邪魔するわけでもなく、今日みたいに警察より先に制圧しちゃうこともあるし。かと思えば遠巻きに見ているだけの時も」
「邪魔してますよ。公務執行妨害と改正銃刀法違反です」
「固いわねぇ。それよりも、その指輪と能力に興味あるわ」
七瀬はにっこりと笑った。
「だから大神。次に会ったら、絶対逃がさないで。参考人として、何としても任意同行よ」
絶対に任意同行──無茶言うな、と大神は短く息を吐いた。
「あんなじゃじゃ馬……現場が荒れますよ」
「ええ。だからあなたにお願いしてるの」
七瀬は肩をすくめ、赤いヒールをもう一度揺らした。
「よろしくね──まだ二十代の大神くん」
「──っ?」
大神は軽く舌打ちすると、ニヤリとほくそ笑む七瀬を軽く睨みながら自席へ戻った。
「おい、波木。話したのか」
「上司への報連相は部下の〈務め〉です」
「……報告書、一人でやれ。若手の〈努め〉だろ」
「ええっ!?」
肩を落とす波木を横目に、パソコンを開き、直近の指輪案件資料を斜め読みする。
各所に不自然に現れる〈参考人〉の文字。闇の向こうに消えたツインテールの少女の姿が資料の行間に浮かび、資料を作成した刑事たちを嘲笑っているようだった。
「魔女か……くそっ、何が目的だ……」
大神は誰に聞かせるでもなく呟くと、乱暴にエンターキーを叩き、隣で呻く波木へ関連資料のリンクを飛ばした。




