第30話 紅の賛美歌
音楽室には、冬の柔らかな朝の光と、歌い終えたばかりの熱を帯びた空気が澱んでいた。
合唱部の生徒たちの視線の先で、初老の女性教諭──畠山が静かに指揮棒を降ろす。静寂が数秒、余韻として室内に響いた。
「素晴らしいわ、みなさん。完璧な仕上がりよ」
畠山の柔らかな笑みに、張り詰めていた生徒たちの肩がようやく解けた。互いに顔を見合わせ、満足げな微笑みが音楽室にさざ波のように広がっていく。
その調和を破るように重い引戸がガラリと鳴った。逆光の中に立っていたのは、腕に小さな小包を抱えた西園寺だった。
「そろそろ時間ですよ」
「あ、西園寺先生! その荷物は……?」
生徒の一人が好奇心に瞳を輝かせて尋ねる。
西園寺は教壇へ歩み寄ると、恭しく包みを解いた。中から現れたのは、緻密な装飾が施された銀色のロザリオだった。窓からの光を反射し、鋭い輝きを放っている。
「うわぁ……」
「綺麗、本物みたい……」
感嘆の声が上がる。西園寺はそれを一つずつ手に取り、生徒たちの首へと丁寧に掛けて回った。
「これは、練習を頑張ったみんなへのクリスマスプレゼントよ」
西園寺がそう告げると音楽室は歓声に沸いた。
「西園寺先生、何から何までありがとうございます。歌詞の発音まで細かく見ていただいたのに」
畠山が恐縮したように頭を下げた。西園寺は最後の一人にロザリオを掛け終えると、指先でその十字架の表面を愛おしそうに撫で、しなやかな動作で振り返った。
「とんでもないです。私も副顧問ですから。それに、ラテン語は履修してましたので」
「ああ、そうでしたわね。海外の生活が長かったとお聞きしていましたけれど、本当に心強いわ」
西園寺は生徒たちの方を向き、慈愛に満ちた笑みを湛えた。それは、誰もが疑うことのない〈聖母〉の微笑みそのものだった。
「みんな、本当によく似合っているわ。ロザリオを胸に、原詞のラテン語で祈りを捧げる……これこそが、本物の〈聖歌隊〉だと思わない?」
「はい! 先生、ありがとうございます!」
純粋な感謝の唱和。その無垢な声を聞きながら西園寺は満足げに頷いた。
「さあ、時間よ。礼拝堂へ移動しましょう」
礼拝堂へと続く渡り廊下。冬の風が吹き抜けるこの場所で西園寺はふと足を止めた。その様子に畠山が眉を寄せ、西園寺の方へ振り返る。
「西園寺先生? どうかされました?」
「それが……お恥ずかしい話なのですが、急ぎの事務作業がありまして。私はこれで失礼します」
「まあ、本番を聴いていかれないの? それは残念ね」
畠山の言葉に、西園寺は口元だけを微かに動かした。
「ええ。ですが……あの子たちが奏でる完璧な〈共鳴〉。その結果だけは、しかと楽しませていただきますわ」
音楽用語としてはどこか場違いな「結果」という言葉に畠山はわずかに視線を泳がせたが、すぐに丁寧に会釈をして生徒たちの後を追った。
渡り廊下に一人残された西園寺がカウンセリングルームへ向かって踏み出した一歩は、先ほどまでの聖母の柔らかな足取りとは似ても似つかない冷徹な響きだった。
(そう、存分に響かせなさい)
彼女の脳内では、すでに生徒たちの歌声が波形や周波数スペクトルにしか見えていなかった。
◇ ◇ ◇
大型ワンボックス車の車内には、冬の冷気を撥ね付けるような電子機器特有の乾いた熱が立ち込めていた。
魚住はパイプ椅子を軋ませ、計器盤の端にある時計に目をやった。
「……九時か。そろそろミサが始まるな」
魚住が呟くと、隣で通信機を弄っていた烏丸がマイクに顔を寄せた。
「木藤主任、一般の保護者や来場者の状況は?」
『一般開放はミサが終わってからですんで、昼前です。今はまだ招待状を持った関係者と、生徒たちだけですね』
三班主任の木藤から応答が入る。
「大神、外はどうだ?」
魚住が問うと、大神のノイズ混じりの声がスピーカーから返ってきた。
『……ええ。正門付近、不審な動きはありません。生徒の登校は完了。……静かすぎますね。裏口へ向かいます』
その静けさこそが嵐の前触れであることを、この車内の全員が理解していた。
魚住は視線を正面のメインモニターへと移した。
「猫田、感度はどうだ。拾えるか?」
「……はい、礼拝堂に生徒が入りました。ミサの開始に合わせてスキャンレベルを上げます」
猫田はいつもの幼さを消し、プロのエンジニアの顔になっていた。彼女は銀色の小さなパッチを取り出すと、慣れた手つきで自分の右のこめかみに貼り付けた。パッチから出ている線はコンソールに接続されている。
イヤホンデバイスは猫田の聴覚拡張の能力を増幅させ、まるで高性能なソナーのように彼女の脳内に緻密な映像を紡ぎ出す。パッチはその映像を脳波からスキャンし、出力するものだった。
「モニター、繋ぎます……」
猫田がコンソールのキーを叩くと、モニターに映っていた見取図に米粒のような小さな光点が映し出された。この一粒一粒が生徒たちを表している。
バザーの準備のためか、体育館や校舎にはまだ多くの光点があった。だがやはり、礼拝堂にはびっしりと光点が集まっている。
そこへ渡り廊下を数十の光点が移動し、礼拝堂へと入ってきた。
「これ、合唱部ですかね」
「……映ったわね」
後ろで腕を組んでいた七瀬が、獲物を見つけた猛獣のように目を細めた。
「渡り廊下で一人離脱。校舎に戻ったやつがいるな」
「どこへ向かっているのかしら」
魚住が一粒の光点を指差すと、七瀬が眉を寄せた。
彼女は手にした資料とモニターを見比べる。
「あそこは……カウンセリングルームね。蜘蛛が巣に戻ったわ」
モニター上のたった一つの光点が校舎へと消えるのを見届け、七瀬が氷のような声で呟いた。魚住が鋭く猫田へ指示を飛ばす。
「猫田、その一粒をロックしろ。おそらく西園寺だ。……礼拝堂の状況は?」
「はい。ミサが始まったようです。神父の入祭の言葉が聞こえます」
「聖歌は次だな……」
魚住が顎に手を当てた。
やがて無線越しに、荘厳なラテン語の聖歌が響いてきた。
猫田がこめかみのパッチを指で押さえる。彼女の視界には肉眼では見ることのできない〈音の世界〉が広がっていた。その様子はパッチを通じてモニターに色の揺らぎとして映し出される。
「何も起きないな……」
烏丸が呟いたその時、聖歌の響きが鋭いナイフとなって空気を切り裂いた。無線に激しいノイズが乗った。
「──ッ!?」
指揮車内のモニターが、一斉に赤い警告色のへと塗り替えられた。猫田がはめていたイヤホンデバイスから火花にも似た青白い光が走り、サブモニターに映し出されていたスペクトル解析の波形が計測限界を垂直に突き破る。
──車内に耳を裂くような高周波のハウリングが吹き荒れた。
「あ、あああああああっ!?」
突然、猫田が椅子ごとのけぞり、狂ったようにイヤホンデバイスを床へ叩きつける。耳孔から、どろりとした鮮血が溢れ出し、彼女の白いブラウスに無残な斑点を作った。
「猫田! 大丈夫か!?」
魚住が崩れ落ちる彼女を抱き止める。猫田は焦点の合わない目で宙を仰ぎ、ガチガチと歯を鳴らしていた。
「……あ、熱い……脳の中に、直接、誰かが……。歌が、入って……くる……っ」
「おい、猫田! しっかりしろ!」
魚住が猫田の肩を掴むが、彼女はうわ言のようにブツブツと言葉にならない何かを呟いていた。
車内が怒号に包まれる中、七瀬だけは動じず、真っ赤に染まったモニターを見据えていた。
「……なるほど。単なる精神干渉じゃないわね。聖歌をキャリアにして、何らかのデバイスで増幅し合っている、と。ネコちゃん、干渉波をまともに喰らったわね」
その時、スピーカーからノイズを切り裂くような怒声が響いた。礼拝堂内部に潜入していた二班主任、長浜からだ。
『指揮車、こちら長浜! 礼拝堂の生徒が……!』
「どうした!?」
魚住が吠えるように応じた。
『生徒たちが……全員、おかしくなりました! ……隣の奴を殴り飛ばし、自分の顔を掻きむしってる! なのに合唱部の生徒は平然と歌い続けてる! ……いや、目が……目が、真っ赤です! おそらく自我を失ってます!』
長浜のボディカメラ映像がモニターの端に映し出されると、そこには凄惨な光景が広がっていた。
つい先刻まで聖母のような微笑みを浮かべていたであろう少女たちが、今は獣のような咆哮を上げ、互いの髪を掴み、椅子をなぎ倒し、血まみれになって暴れ狂っている。
「長浜! 合唱部の子たち、何かアクセサリーを着けてる!?」
七瀬も長浜へ鋭い口調で尋ねた。
「ロザリオ! ロザリオを着けてます!」
「……それよ! 長浜、合唱部の子たちを拘束して! ロザリオを奪いなさい!」
『無理です! 近づくだけで頭が割れそうだ……! ぐ、ああああっ!!』
長浜の悲鳴とともに、通信が途絶した。
魚住が無線機を掴み、怒鳴るように叫んだ。
「長浜! おい、長浜ッ!! ……クソッ……! 三班、聞こえるか!? 礼拝堂へ向かえ!」
『了解!』
校舎や体育館を警戒していた三班から鋭い応答があった。
「係長、応援を要請しなさい。学校を囲むわ。出入りの一切を封じるのよ」
七瀬は冷たく告げた。




