第28話 覚悟の一線
四特は、一連の事件の裏に見え隠れしている人物──西園寺を、大神を中心としてイチから洗い直していた。
「係長、よろしいですか?」
「どうだ大神、分かったか?」
大神が魚住の席へ向かうと、魚住は待ちかねたと言わんばかりに顔を向けた。
「はい。西園寺玲華、三十四歳。子どもの頃から親の仕事の都合で海外を転々としています」
「いつ日本へ?」
「一、二年前みたいですね。帰国して早々に四ツ葉のスクールカウンセラーになっています」
「海外生活が長いのに、わざわざ先生になるために日本に帰ってきたのか?」
魚住が眉を寄せると、大神は手にしていた報告書を魚住へ差し出した。
「そのことなんですが、ちょっと変わった経歴で……」
「というと?」
「大学は工学系を専攻していて、院では心理学に転向しています。その後、帰国するまでは民間の研究機関や学校などで勤務していたようです」
「ずいぶんと多彩だな」
「はい。ただ、海外のことですので、詐称の可能性もゼロではありません」
自席でキーボードを叩いていた二班主任の長浜が身を乗り出した。
「あの、すみません係長。……工学系ってところが引っかかるんですが」
魚住が報告書から顔を上げた。
「お前もそう思うか?」
「はい」
「……その通りだ。報告書には〈神経情報工学〉とある。つまり──〈観念動力〉。そうだな、大神」
大神は表情を崩さず、頷いた。
「はい……その通りです」
フロアの空気が変わった。
やはり西園寺は限りなくクロに近い。あとは繋がりだけだ──大神の言葉で皆の脳裏にそんな思いがよぎる。
「係長。これ、任意同行イケますよね?」
長浜が気色ばむと、魚住も深く頷いた──が、軽く手を上げ長浜を制した。
「まあ待て、管理官には俺から話す。大神は、西園寺の卒業後の足取りをさらに追ってくれ。そうだな……PD社との繋がりがないかどうか、だな」
「分かりました」
魚住は大神へ指示を出すと、七瀬の執務室のドアをノックした。
◇ ◇ ◇
奥の執務室は、あいかわらず甘い匂いが漂っていた。
「──と、いうことです」
魚住は七瀬への報告を終えると、直立不動で七瀬を見つめた。
「ふーん」
七瀬は火のついてない煙草を指でプラプラさせると、報告書をデスクに放り投げた。
「まだ弱いわね。下手に突付くと逃げられちゃうわ」
「私もそう思います」
「なーんかやらかしてくれないかしら」
不穏な台詞を吐く上司に魚住は一瞬眉を動かした。
「それは……」
「冗談よ。まあ、大神の調査をもう少し進めましょう。……仕留めるなら確実に、よ」
「……はい」
魚住へ向けられた七瀬の目は、まるでネコ科の猛獣が獲物を狙うそれだった。魚住の背中に冷たいものが走る。
逮捕のためなら事件の発生さえも渇望するこの上司はやっぱりヤバい──そんな思いが魚住の脳裏に浮かんだ。
(胃薬買っとくか……)
執務室を出ると、内心でため息をついた。
◇ ◇ ◇
日も変わろうとする頃、フロアには大神一人が残っていた。何としても尻尾を掴まなければ。そんな思いが彼の胸中に渦巻いていた。
机には神経情報工学や心理学の資料や西園寺のこれまでの勤務先のデータ、PD社および関連企業の資料などが積み上げられている。
突然、スマホが鳴った。
(誰だ? こんな夜中に)
画面を見ると──絢音だった。
(──!)
スマホを手に持ち固まった。一体何だろうか、こんな夜中に話さなければいけないことなのか、それとも──
色々な考えが同時に湧き出て指が動かない。
一息吸い、ようやく電話に出た。
「──絢音か、どうした?」
努めて冷静な声を出す。だが、電話の向こうから聞こえてきたのはいつもの生意気な軽口ではなく、戸惑いを含んだ低い声だった。
「ねぇ、オジサン。今日、学校でちょっと気になることがあって」
彼女が語ったのは、クリスマスバザーでの合唱部の異例な動き、そして西園寺が独断で用意したらしい〈アクセサリー〉の話だった。
(……合唱、そしてアクセサリー、か)
──西園寺は何を企んでいるのか?
証拠はないが、西園寺があのミサンガを入手し、生徒たちへ配った可能性は非常に高い。
もしかして、今回もミサンガの類なのでは──?
だとすると、それはどういった形で配られるのか。
ふと、あの夜の路地裏が蘇った。
まるで呼応するように同じリズムで脈打つミサンガ。それはまさに〈共鳴〉だった。
(共鳴──合唱か!)
音楽には詳しくないが、合唱は全員の心を一つにし、音程やリズムを合わせ、文字通り〈共鳴〉させるはずだ。
それを何らかの〈アクセサリー〉で増幅、いや、精神操作させることができたとしたら──?
あの夜と同じ──いや、もっと凄惨な事態になる。
「……知ってたの?」
西園寺の名を口にした大神に、絢音が少し怯えたような声を出した。
「オジサン、また何か起こるのかな……あの夜みたいに」
大神は受話器を握る手に力を込めた。
「分からない」としか言えなかった。
言えるはずがない。今、お前の学校で、お前のすぐそばにいる教師が、生徒を〈被験体〉として使い潰そうとしているなんて。
刑事であれば、ここで「学校を休め」と言うべきか。あるいは「警察が何とかするから安心しろ」と。
だが、「証拠が弱い」という七瀬の言葉が頭の片隅にチラつく。
現時点で警察が動こうとしても、西園寺の〈実験〉を止める決定的な法的根拠はない。バザー当日、何かが起きるその瞬間まで法は無力なのだ。
「……絢音。それ、大事な情報だ。ありがとう」
不器用に出たその言葉は本心だった。彼女がこれを伝えてくれなければ、自分たちは無防備なままクリスマスの惨劇を迎えていた。
喉の奥まで出かかった「行くな」という言葉を飲み込んだ。
右手の人差し指──指環の場所に目をやった。法を司る刑事の手。だが、その指先が守れる範囲はあまりに狭い。
それでも、もうあの夜の再来は御免だ。
声を絞り出そうとするが、どうしても出ない。
「……絢音、よく聞け」
沈黙の後、やっと出たその声は自分でも驚くほど低く、そして掠れていた。
「そのバザーの日、指環を持っていろ」
電話の向こうで、絢音が息を呑む音が聞こえた。
言っちまった──脳内で、理性を司る何かが音を立てて崩れた。もう後戻りはできない。
だが、法が彼女を守れないのなら。自分が現場に間に合わないのなら──
(……自分の身は自分で守ってもらうしかない)
「……どうしたの? やっぱり何かあるの?」
不安げな問いかけに、大神は皮肉な自嘲を飲み込み、力強く答えた。
「そこまではまだ分からん。だが──何か臭う。それだけだ」
嘘だ。臭うどころか死の香りすらしている。だが、それを告げることは彼女をいたずらに恐怖させるだけだ。
「……分かった。持っていく」
その小さな、けれど確かな返事を聞いて、静かに通話を切った。
スマホをデスクに置き、深く椅子にもたれかかる。
天井の蛍光灯がチカチカと不規則に瞬いている。
自分の下した決断が彼女を救うのか、それともさらに深い闇へ突き落とすのか。その答えは分からなかった。
ただその決断は、刑事として後戻りのできない一線を踏み越えた──そのことだけは、はっきりと自覚できた。
「……クソが」
誰にともなく吐き捨て、再び神経情報工学の分厚い資料へ手を伸ばす。だが、その指先はわずかに震えていた。




