第20話 仮面の下
高級住宅街の一角にある絵に描いたような立派な邸宅である豊嶋邸。高い塀に囲まれ、庭には手入れされた多数の木が植えられている。
美優の母親が、美優の部屋の前で金切り声を上げた。
「美優、警察の方が見えられるそうよ。お話聞きたいんですって。あなた、いったい何したの? 休む前の日、塾に行ってたんじゃなかったの? ねえっ!?」
部屋からは何も反応がなかった。
「まったく……ご飯も食べてないし……」
母親はため息をつくと、乱暴な音を立てながら階段を降りていった。だが、そんな音も耳に入らないくらい、美優は布団の中で震えていた。
(どうしよう……どうしよう……)
あの夜、路地裏で人を吹き飛ばした感触が蘇る。全能感と、その後に訪れた吐き気がするような恐怖。
警察が来た。ママにもバレる。怒られる。学校にも行けなくなる。私の人生、もうおしまいだ──美優の胸の内を絶望が渦巻いた。
「いや……いやだ……」
美優は耳を塞いだ。だが、恐怖に呼応するように、右手首のミサンガがドクンと脈打った。
『イライラした時、もうダメと思った時、そのビーズを強く握りしめてごらんなさい。きっと楽になるわ』
脳裏に誰かの柔らかな声が聞こえた。
その瞬間、美優は無意識のうちにミサンガを握りしめていた。
熱い。焼けるように熱い。
ミサンガが、まるで生き物のように手首を締め付けてくる。
『助けてあげる──』
ふと、脳内に甘い声が響いた気がした。幻聴なのか、記憶なのか分からない。声に導かれるように美優は布団から抜け出し、部屋の窓を開けた。
『こっちよ──』
虚ろな目で下の物置の屋根を見る。いつもなら、降りようなどと思いもしない高さだ。だが美優は、まるで何かに操られるように窓枠を乗り越え、スッと手を離した。
バタン──物置の屋根に、尻もちをつくように着地した。そのまま物置から飛び降り、庭木の間を抜け、裸足のまま裏口から走り出した。
しばらく街路を彷徨った。いや、彷徨っているようで、どこかに導かれているような気もする。
やがて美優の視線の先に、一台の高級外車が停まっているのが見えた。
美優が近づくと、助手席のドアが開いた。美優は無意識のうちに、転がり込むように車内へ入った。
運転席には、いつもの白衣のようなジャケットを着た西園寺が座っていた。車内には、あのカモミールの香りが充満していた。
「よく来たわね、豊嶋さん」
「先生……私……、私……」
美優は西園寺にすがりつき、わっと泣き出した。
西園寺は優しく美優の頭を撫でた。
「もう大丈夫。誰もあなたを傷つけたりしないわ」
車は静かに走り出した。
先生がいれば大丈夫。先生がなんとかしてくれる──美優は安堵感で全身の力が抜けそうだった。
だが車は、美優の自宅から少し離れた公園の入口で止まった。
「よく頑張ったわね。……データも十分よ」
西園寺の声から、ふっと体温が消えた。
「え……?」
西園寺がポケットからスマホを取り出した。何かを操作している。
次の瞬間、先ほどまであれほど感じていたミサンガの熱がふっと消えた。途端に目の前か霞んでいき、美優の体から力が抜けていく。支えを失ったように、強烈な虚脱感が襲ってきた。
そして、徐々に意識も遠のいていく。
「セ、ンセ……?」
「これはもういらないわ。役目は終わったの」
西園寺がミサンガに手をかけたところで、美優の意識が白く塗りつぶされた。恐怖も、罪悪感も、西園寺への依存心も、すべてが白い霧の中へ溶けていった。
西園寺は、美優の瞳が宙を彷徨うのを確認すると満足げに頷き、ミサンガを彼女の手首から外した。
「さあ、お行きなさい」
西園寺の声に反応したのか、それとも無意識なのか、美優は目の光を完全に失ったまま、操られているかのように車を降りた。公園の方へフラフラと歩を進める。
西園寺はその後ろ姿を冷たく見つめていた。




