192 『あの時』から抱く決心
「ほら、こっち」
脚が震える兄に対し、フライアは近場の岩を指差して座るよう促した。
それから革水筒を手渡し、ファブマーレンが持たせてくれたサンドイッチも鞄から取り出す。
「ああ……。ありがとうな」
ライアスは水筒をくいと傾け、水を一口流し入れると堪らず「はぁー……」とため息が零れた。
キンキンに冷えた水が気持ちよく浸透していくのが分かる。山道の空気は冷たいが、身体は随分と火照っていたようだ。
ホッと息をつく兄を横目に、フライアも腰を下ろす。隣り合いながら、二人でサンドイッチを頬張った。
耳を澄ませると自然の音が聞こえた。山岳を吹きつける強い風、揺れて擦れる木々の音、小動物が枯れ枝を踏む気配。
騒然とがさつく音を聞きながら、ふと故郷のことを思う。シェラタンではそよぐ草花に羊や牛の鳴き声が呑気に交じり、もっと優しく素朴な音だった。
さっきまで焦りを募らせていたライアスだったが、次第に落ち着きを取り戻し、自分の身に起きていたことに考えを巡らせる。
「……フライア。また俺は暴走してたかな」
ぽつりと尋ねると、妹は小さく頷いた。
「……たぶん、してた」
ライアスは「そうか……」と呟く。
「……ちゃんと返事、しなかったから」
妹の言葉を受け、ライアスは視線を落として腕組みをする。
「……時々、自分の身体なのにわからなくなるんだよな」
しみじみと呟いた。
身体は限界を迎えているのに、自分で自分を抑えられない。ライアスはしばしばそうした暴走状態に陥る。
後でそれに気付くのだが、どうにも事前に感じ取るようなことができない。フライアに止められない限り、目の前のことをやり続けようと夢中になり、我を失う。
そんな危険な状態を妹がいつも止めてくれる。今回も危うく身体を壊すところだった。
「普通の人なら、このへんをもう少し調整できるもんなのかな」
ため息交じりに言うと、フライアは「……さあ」と首を横に振った。
兄妹には「普通の人」の感覚がよく分からない。
「……でも、フライアは気付けたんだろ? なんで、外から、というか俺の……見た目だけでわかるんだ?」
普段はここまで深入りして訊くこともないのだが、ライアスは敢えて尋ねてみた。
シェラタンを発ってからこれまで、いろいろな人と出会った。表情の変化や言葉の強弱で、相手がどう感じているか推測できるようにもなってきた。それでも、その人の百パーセントを読み取るようなことはもちろんできない。
それは《独りの兄妹》であっても同じだ。たとえ理性が繋がっていても、それぞれが意思を持っている。互いが大事に思っているものにしても、それぞれの優先順位は異なるのだ。しかも、自分はそうした感情を明るみにすることもない。
それでもフライアは、手遅れになる寸前できっちりと自分を止めてくれる。
そんな兄の問いに対し、フライアはただ「うーん」と唸っていた。しばらくしてようやく口を開く。
「……なんとなく。ずっと見てたから」
ライアスはなるほど、と頷いた。
「ずっと、か。」
長い時間を過ごすうちに見通せるようになったのか、と納得する。
だがフライアは不意に顔を俯けると、絞り出すように言葉を継いだ。
「心配になるから。見てなきゃいけないから。目を離したら、どこかいっちゃうから」
「……え? えっ?」
それにライアスは目をぱちぱちとさせる。
目を離したらどこかに行ってしまう──。妹の言葉に戸惑いを覚えた。
「お、おい。そんなに俺、置いてけぼりにしてるか?」
にわかに不安が募り、問いただすように尋ねる。
すると妹は慌てて首を横に振った。
「違う、ちがうの! ただ……」
だが次の言葉が出てこない。
フライアは言葉でうまく表現できないのだ。その様子を見て、ライアスは小さくため息を吐いた。
「……いや、ゆっくりでいいって」
言いながらその顔色を窺う。自分とは真逆に妹は感情が表に出やすい。
フライアは口元をやんわり微笑ませながら、その瞳は呆れか困惑のような色を宿していた。取り澄ましているようで心は揺らいでいる。だが少なくとも、怒ったり悲しんだりしているわけではなさそうだった。
兄を見つめたままのフライアだが、やがて気持ちを落ち着かせるように、ふうとため息を吐いた。
「……ずいぶん、遠くまで、歩いてきて。でも、やっぱり『あの時』から、変わらないものは変わらないって……」
「……?」
すぐにはその意味が分からなかった。言葉に拙い妹の真意を汲み取るべく、兄なりに考えてみる。
とりあえず、エラセドの奥地まで往復した話でないことは分かる。
変わらないものは変わらない、とフライアは言った。そしてさっきまで陥っていた自身の暴走状態──。
ふと、ライアスの脳裏にひとつの出来事が浮かび上がる。
「それは……シェラタンの、『あの時』か」
フライアはゆっくりと頷いた。
「……ああ。あの夜のことだよな」
そう呟いて、ライアスもまたゆっくりと、けれども心の奥底に残り続ける記憶を辿った。
「こいつ……化け物かっ!」
「狂ってる……! く、狂ってるぞこいつ!」
「いい加減くたばれっ! おめえのせいで何人が死んだと思ってる!」
──今でも記憶を辿れば思い起こす。
怒号と罵声を投げつけられながら死に物狂いで野盗と戦い、傷だらけになってシェラタンを発ったこと。
あれほど死を覚悟したことはない。死闘と呼ぶほかがなく、ライアスは生き残るために我を失って剣を振るい続けた。
(お兄ちゃん……っ!)
脳裏ではフライアが悲鳴を上げ、大粒の涙を流し続けていた。
そしてその後も――。
「夜が明けちまう……! 手を動かせって……!
「もう、こうするしかないんだ……!」
「泣くな……。泣くなよ……!」
瀕死の身で、何度もそう自分たちに言いつけながら野盗の死体を片付けるまで――。
狂気のまま兄が事を片付けていく姿に、フライアは傍で涙に暮れるしかなかった。
「あの時、どうしたらいいか、わからなかった」
そう妹に言われ、ライアスは自身の手の平を見つめる。
死闘の最後に、野盗の親玉を剣で突き刺した感覚は今でも鮮明に覚えている。フライアがひどく怯え、憑依している中でガタガタと震わせていたことも。
「……そうだろうな。結局どうするのが一番よかったんだろうな?」
どう自己弁護しようとも付きまとう罪の意識。思い出す度、ライアスはそうした思いに囚われる。
だがフライアはそうではない。記憶として脳裏に留め、その出来事をいつでも心に刻み続けている。
「……記憶できるってつらいよな」
ライアスがちらりと妹を見て労う。フライアは浮かない表情だが、口元は少し笑ってこくりと頷いた。
「うん。でも……。記憶できるから、見ていなくちゃいけないって」
妹のその言葉にライアスが「えっ?」と驚く。
心から深く傷ついたというのに、その記憶と向き合っているというのか。
だが、妹が嘘をつくわけがない。あの時の出来事からフライアが自分を見ていなきゃいけない、と言っているのだ。
「そうか、お前は……!」
妹が本当に伝えたいこと。それがようやく明確になっていく。
ライアスはフライアへと顔を寄せた。
「……『あの時』の失敗を、二度と繰り返したくない、と」
そう尋ねると、フライアが今度は柔和な笑みを浮かべ、頷いた。
分かってくれて嬉しい、という表情をしていた。
──自分のことは自分でコントロールしなければならない。
ただ一緒にいるだけではない。《独りの兄妹》である二人は、互いに向き合いながら行動を共にしている。
自分たちの居場所を見つけようと兄が奮い立てば、同時に自分自身を見失わないようにと、妹も固く決意していたのだ。
「時々、不安になって……。だから、止めるの」
不器用に、途切れ途切れに話す妹に、ライアスはゆっくりとニ回頷く。
「なるほどな……。こういうのがまっすぐ伝わらないのが、相変わらず素直じゃねえよな。俺たち」
兄の言葉に、フライアは苦笑交じりに頷く。
自分自身を理解するのに、なんとまどろっこしいやり取りをしているのだろう。
けれども――。
知ったかぶりしない。本音をぶつけ合って、お互いが納得し合ってきたからこそ、ここまで来れたことは間違いなかった。




