191 兄の異変
休憩は一度のみで軽く済ませ、山道はいよいよアトリア側の麓へと向かう下りに入った。
長々と山越えが続き、ライアスは疲労を紛らわすように憑依中の妹と会話を続けた。その話題はやはりイリューアの家庭事情についてだ。
「おふくろさんがああいう人で、親父さんが重役に就いているって言ってたんだっけ?」
(就こう……だったかな?)
「ああ……。それで、自分がその足引っ張っちまうって……」
仲睦まじい家族画を思うほど、故郷に戻らないと決めたイリューアも、二度と会えないかもしれないと思いを託した母親も、その心情が痛ましい。
それと同時に思い起こす騎士のシガイチで聞いたエラセドの事情。
兄妹の会話はなかなか途切れることがなかった。
だが、傾斜のきつい下りが続いたところでその会話もいよいよ滞った。とりわけ話題を切り出すのはライアスなのだが、その息が上がってきたのだ。
(……大丈夫?)
憑依中のフライアが、兄の身体の内から声を響かせる。だが聞こえていないのか、何も返答がない。
ライアスは転がるような勢いでどんどん山道を下っていく。時折その口元から、ひぃ、ひぃと小さい悲鳴のような吐息が漏れ聞こえていた。
(……あれ? ねえってば)
「……ん、なに?」
少し反応を遅らせてライアスが応える。
「遅れちゃ、いけねえんだよ……」
低い声で呟いた兄の声にフライアがどきりとした。
時間のことなんて聞いていないのに、まるで自分を正当化するかのよう。
(違うの。ちょっと、止まって)
「な、な……。なんでだよ……」
明らかに息も上がっている。それなのに、ライアスは自ら足を止めようとしない。
「間に合わなく……なっちまうだろ……!」
もはやそれは妹への返事ではない。自分で自分を追い込むかのようで、周りが見えていない。
……いつも通りじゃない。
(ねえ、止まって……!)
堪りかねたフライアが兄の脳内に合図を送る。
するとライアスはハッとして、ようやくその足を止めにかかる。勢い任せで坂道を下っていたその身体は完全に止まるのに十数歩進んだ。
「ふうっ、ふう……。いっててて……」
途端にライアスは手を膝に付けて固まった。あまりの疲労に太腿とふくらはぎが悲鳴を上げ、爪先も痛みで痺れている。
気付かないうちに脚にかなりの負担を強いていたようだ。
理性を切り分けた《独りの兄妹》である影響で、ライアスはなかなか感情が表に出せない。そんな彼でもこのときばかりは歯を食いしばり、表情を歪めた。
「もうっ!」
フライアが憑依を解いて姿を現した。動けずにいる兄の顔を覗き込み、声をかける。
「だいじょうぶ?」
ライアスは荒い呼吸を必死に整えている。
「……あとちょっとと思ってさ。また、次の壁沿いを曲がればアトリアが見えるかなって……」
兄の言葉にフライアが呆気にとられた。
街道はごつごつとした岩壁の間の平坦な場所を道で繋いでいる。岩壁と点々と立つ木々で遠くの視界が阻まれる中、ライアスはあともう少しで到着するかもしれないと思って歩いていたようだ。
「……まだ、ずっと先」
「そ、そうか……」
下りは楽そうに思えて、身体にかかる負荷が上りより大きい。兄妹はそれをはじめて体感した。なにせシェラタンの坂といえば、なだらかな丘くらいしかなかったのだ。
「代わる?」
妹に問われ、ライアスが顔を向ける。
「お前、行けるのか……?」
不安げにそう尋ねる。往路では脚が痙攣してしまい、山道の途中でギブアップしていた。
山越えは半分を過ぎているだろうが、整備が十分でない山道の下りはまだまだ続く。
すると見くびられたと思ったのか、フライアはぷんっ、と怒ったように唇を尖らせた。少し間があってから、はっきりと頷く。
「……休憩して、ゆっくり行く」
その返答にライアスは思わず「えっ?」と声を上げた。
アトリアから出る最終便に間に合わせようと急いでいたのに、ペースを落とせばそれも叶わなくなる。
……妹は歩きを引き受けたうえ、馬車での移動も諦めるというのか?
だがフライアは、ジッと兄の目を見つめながら口を開く。
「なんで、一人でずっと歩いたの?」
問い詰めるように言うのは、しようと思えば交代できたからだ。山道をすべて兄に任せると決めたつもりもない。
「あ……」
ライアスはふと立場が逆転していることに気付いた。往路では「体力は取っとけ」と自分が妹をなだめていた。今度はそんな自分が同じ轍を踏もうとしている。
「……今、何時だ?」
時間が気になり呟くと、フライアが憑依中に何度も見ていた懐中時計を差し出した。見れば時計の針は一時を回ろうとしている。
往路と比べればかなり早いペースだが、ここで足を止めれば馬車にはやはり間に合いそうもない。
それくらい、はじめから厳しい時間設定だったのだ。
「うう……くっそぉ……」
悔しさに嘆くライアスだが、それでも身体は「ノー」を突き付けてくる。膝が笑い、脚がガクガクと震えていた。




