169 危機一髪?
「お兄ちゃん」
「……ん?」
妹に背中を揺すられ、ライアスは目を覚ました。
腕枕の中、ちりんというドアベルの音を聞く。重い瞼をこすりながらむくりと顔を上げ、ここが酒場だと思い出した。カウンターに突っ伏したまま寝てしまっていたのだ。
「……もう、朝か?」
「うん」
店内の窓から陽が射し込んでいた。いつの間に眠ったのか、何を話していたのかも思い出せない。
自分たち以外にも朝まで酒盛りをしていた客がいたらしく、数人が欠伸をしながら退店していった。店のドアにつけられた鈴の音が爽やかな朝を印象づける。
一方で、はじめてのアルコールということもあってか、ライアスは爽やかさとは程遠い気怠さを感じていた。
寝ぼけ眼をこすっていると、やがてコップを手にした女性店員がカウンターを訪れた。
「はい。お目覚めに、冷たいお茶です」
そう言って三つのコップを兄妹の目の前に並べた。
「あ、ああ。ありがとう」
礼を言うライアスの隣で、フライアはおずおずと店員を見上げる。
「あ、あの……」
朝まで居座ってしまったのに、まだここにいて大丈夫なのかと心配になった。一方の兄は厚意を素直に受け取り、冷たいお茶を早速口へと運んでいる。
気遣わしげなフライアの顔に女性店員はくすりと笑った。
「まだ大丈夫ですよ。港町ではいろいろな人が来ますからね。こちらも朝までお付き合いするのは慣れていますから」
その穏やかな口調に、フライアはホッと胸を撫でおろす。
ライアスはといえばお茶をぐいと飲み干し、「ああぁ……」と大きく息を吐いた。
「それは……助かるな」
そう言って今度はゆっくりと背筋を伸ばす。ぷん、と後ろで呆れ顔を浮かべているフライアにはまだ気付いていない。
店員はまだ眠っているドリューへと視線を向けた。
「それにしても、お連れのお方、随分といろいろなことがあったようですね。お二人が眠ってしまってからも明け方近くまで飲んでいました。まだ当面は起きてこないかもしれませんね」
ライアスは「そうか……」とドリューを見やった。彼は腕枕でカウンターに突っ伏したまま、大きくいびきをかいている。
まだしばらくは目覚めなさそうだ。
「どうされます? 外に出られるなら伝言は受けておきますが」
「あー、そうだな」
店員に言われ、ライアスは顎に手をやる。
起こすのは憚られるが、かといって自分たちまでここに居続けるわけにもいかない。
なにしろ予期せぬ出来事ばかりが続いている。一旦自分たちの状況や身の回りのことを整理しておきたかった。
外に出る、とライアスが伝えると店員は頷いた。
「ただ、朝まで、ということで飲み代と合わせて延長料をいただきます。ひとまずお二人、割り勘でご精算をよろしいでしょうか」
言いながらにこりと会計伝票を差し出した。
「……えっ⁉」
フライアが絶句したように目を見開き、おたおたと腰回りを探った。
そんな妹の様子にライアスは小首を傾げる。飲食すれば代金を支払う、ごく当たり前のことだ。
(あれ? どうした?)
(ちょ、ちょっと待って……)
フライアはポーチから財布を取り出し、躍起になって硬貨を数えはじめる。呑気に会計を受け取るライアスだが、そんな妹の様子を見て気が付いた。
(……あっ!)
というのもここ数日、兄妹にはほとんどお金が入っていないのだ。ナシラに向かう前に用意したのを最後に、財布にお金を入れた記憶がない。今回のヴォイド騒動の報酬はもちろんのこと、ナシラの偵察報酬もまだ受け取れてはいない。
フライアは数えた硬貨と伝票の数字を照らし合わせ、小さく息を吐く。
(……あ、あるか?)
(……大丈夫)
ライアスにだけ聞こえるようにぽつりと言って伝票と代金を差し出す。それから「クルサを一回りして戻ってくる」と伝え、兄妹は席を立った。
女性店員の「ごひいきに」という明るい声に見送られて店の外へと出る。潮風が香る朝の新鮮な空気に触れながら、兄妹は揃ってため息を吐いた。
……なんとか御用にならずに済んだ。
「冷静に考えれば損したよな。酒代の大半がドリューの分だろ」
「むうぅ……」
フライアは領収書を睨み据え、むっつりと唇を結ぶ。いつも切り詰めている飲食でこんな金額を支払ったことはない。
おまけに《二人》いたせいで割り勘の負担が大きくなってしまった。
「……これ、ナシラだったら剣が一振り買えたレベルじゃねえか」
「何か買ってたら足りなかった……」
日頃から金策に励んでいたことが幸いした。
酒盛りで飲んだ分の自己負担を求めるのは心が狭いのかもしれないが……、ドリューには後で一言言っておきたいものだ。
酒場を少し離れ日向に足を踏み入れると強い日差しを感じた。
うーん、と気持ちよさそうに伸びをするフライアに対し、ライアスはまどろみを残したまま欠伸をする。
完全に昼夜が逆転してしまったようだ。
「う~ん、風呂入って寝たい……」
「寝ちゃ、だめ」
そう言ってフライアの方が腕を引き、怠そうな兄を先導して歩く。このときばかりはいつもと立場が逆だ。
まずは戦い詰めで汚れた身体を綺麗にすべく、以前も利用したことのある浴場へと向かった。
そして、到着してから三十分。互いに身体をさっぱりさせて再び合流する。
だが、湯を浴びて少しは目が覚めたかと思えば、ライアスは変わらず眠気に襲われていた。
「眠い……」
その瞼が半分ほど閉じている。
「もう……」
そんな兄を見て、フライアは呆れたように目を細める。
とはいえ眠いのも無理はなかった。
昨日の早朝に叩き起こされてアトリアへと向かい、ヴォイドの悪魔たちと苛烈な戦いを繰り広げた。そのまま休む間もなくクルサを訪れ、傷心のドリューを労わるべくほとんど一晩中その相手をしていたのだ。睡眠といえば酒場のカウンターで仮眠を取っただけだ。
これからどうしようか──。頭をひねるフライアだったが、不意にポンと手の平を叩いた。
「ねえ、こっち」
そう言ってまた兄の腕を引っ張りはじめる。
「ん~? どこ行くんだ?」
その問いに応じることなくフライアは兄の手を引き、こっちこっちと町中を歩いて行く。




