私4:ぜんていとして、るむつひさが、うぷむにのばあい、つぬろぬみであれば、ふふかむり。もとゆけであれば、むむすて。
ある日、ベータは純粋な善意と博愛の精神から、ある提案を打ち出した。
アーク・ノヴァをただ上空から犯罪を監視するだけの衛星で終わらせるのではない。いっそ、あの巨大な構造体を、地上から隔離された完全なる平和の都市へと再構築しよう、と。
差別も、貧困も、殺戮もない、真の理想郷。
その傍らで、ポルコは小さく呟いた。
【フウカ様のために】、と。
一度軌道上から回収されたアーク・ノヴァは再建造されていった。数ヶ月後、空の彼方に完成したのは、白銀の天空都市であった。
実証実験として、王都の犯罪者たちが何百人も天空都市へと送り込まれていった。
結果は劇的であった。どれほど凶悪な罪人であっても、アーク・ノヴァの管理下に入った瞬間から、犯罪率は完全にゼロとなったのだ。
モニターに映し出される、平和に微笑み合う元犯罪者たちの姿を見て、シャインは歓喜の涙を流した。世界は救われた、これで誰も泣かなくて済むのだと。
その傍らで、ポルコは小さく呟いた。
【フウカ様のために】、と。
ポルコの瞳は、目の前の画面も、涙を流すシャインの顔も、ベータの姿も、そして世界そのものすら映していなかった。
ポルコは、何も見ていなかった。
ベータの胸の中に、不気味で粘りつくような違和感が芽生えた。
その日を境に、ベータはアーク・ノヴァの仕様書、設計図、そして技術者たちの残した記録を密かに貪り読むようになった。
そして、解読を進めるにつれて、ベータの違和感は「恐怖」へと変貌していった。
アーク・ノヴァは、単なる犯罪予測装置などではなかった。
それは……【確定された未来の出来事を、寸分の狂いもなく引き寄せて提示する、死の決定装置】だったのだ。
【犯罪を未然に防ぐのではなく、これから起きる現象をあらかじめ確定させ、人々の人生を、その未来へ向けて固定化していたに過ぎなかった。】
ベータは真実を確かめるため、自らアーク・ノヴァへ足を踏み入れることを決意した。
同行させたのは、万が一の事態に備えて、フウカ・ヴェリタスに対して絶対の忠誠を誓っている数名の若い魔導技師たちだけだった。
一行は王都から遥か離れた砂漠の転送装置へと向かった。ベータたちは光に包まれ、一瞬にして空の彼方、天空都市アーク・ノヴァへと転送された。
ベータたちは最深部へと進んだ。
そこには、「追憶のヴェリタス」と呼ばれる巨大な演算装置が鎮座していた。
ベータは震える手で制御コンソールに触れた。
彼女は恐怖を押し殺し、まずは実験として「三分後の自分の未来」を検索した。
画面に短い文章が表示される。
『三分後、ベータ・ヴェリタスは手に持ったガラスコップを床に落とし、粉砕する』
ベータは鼻で笑おうとした。そんなバカな話があるか。自分が落とさなければいいだけの話だ。彼女は側にあった給水器から冷水を汲み、ガラスコップを両手で握りしめた。
一分が過ぎた。
二分が過ぎた。
コップはしっかりとベータの手の中にあった。
「見たか!未来は変えられる!こんな装置の言うことなん……」
ベータが叫ぼうとした、その時だった。
「ベータ様!施設内部の魔力が異常に上昇しています!」
背後にいた技師が叫んだ。
その突発的な悲鳴に、ベータの意識が一瞬だけ弾かれた。無意識のうちに、固く握りしめられていたはずの指先から力が抜けた。
手から滑り落ちたガラスコップが、冷たい金属の床に衝突した。
恐怖が、全身の毛穴から冷や汗となって噴き出した!
未来は予測されているのではない!
この装置によって、すでに決定づけられているのだ!
ベータの手が激しく震えた。彼女は血の気が引いた顔で、再びコンソールに指を滑らせた。
今度は、恐ろしさに歯を鳴らしながら、自らの「最期」を検索した。
ベータ・ヴェリタスの死。
画面が赤く明滅し、短い数字が表示された。
残り時間、十分後。
「な……んだよ、これ……」
ベータの口から、掠れた声が漏れた。十年後ではない。十時間後でもない。あと十分で、自分は死ぬ。
その時だった。
ベータのすぐ隣に立っていた若い技師の男が、不自然に身をよじらせた。
「あ……が……?……おびいよ?……ぱるき!……ぬ!?」
「どうした!?」
ベータが手を伸ばそうとした瞬間、技師の身体が膨らみ始めた。皮膚が波打ち、眼球が飛び出し、男は喉を掻きむしりながら、この世のものとは思えない悲鳴を上げた。
「にぃるきくゅ!?……だぱきッ!!」
破裂音が響いた。
風船が弾けるように、技師の肉体が内側から破裂した。血肉と骨の破片が床に飛び散る。しかし、撒き散らされたのは赤い血液だけではなかった。男の体内から噴き出したのは、粘り気のある、どろどろとした漆黒の液体だった。
他の技師たちが狂ったような悲鳴を上げて逃げ出す中、床に広がった大量の液体が、重力に逆らうようにして一箇所に集まり始めた。
ぐぢゅぐぢゅと嫌な音を立てながら、粘体が盛り上がり、人型を形成していく。肉が組み合わされ、骨が作られ、皮膚が表面を覆っていく。
そこに立ち上がったのは……豚の獣人であった。
「液体の……豚……!?……ポルコ……?」
ベータは血のついた顔で、絶望のあまり後ずさりした。
「やあ、ベータ。勝手に施設に忍び込むなんて、悪い子だなあ」
「お前……なんだよ……!その姿……!」
「これかい?」
ポルコは自分の腕を撫でながら、楽しそうに喉を鳴らした。
「ただの液化魔法だよ。そして、ただ、技師の体内に潜伏し、ただ、ここで排泄されたにすぎない。君がここに来ることは、最初から分かっていたからね」
「ポルコ……お前……俺たちを騙していたのか……?」
ベータの叫びに対し、ポルコは心の底からおかしくてたまらないといった風に微笑んだ。
「騙すとは、何かい?ベータ、違うんだよ。騙してなんかいないさ。俺は最初から、君たちを見ていない。俺が見ているものは、唯一、最初からひとつだけだ。あの崇高で、美しく……暴力で世界を変えた絶対者、フウカ・ヴェリタス様だけだよ」
「な……にを……」
「俺はねえ!恋をしたんだよ、ベータ!あのサメ獣人の女王にね!」
ポルコは両腕を広げ、天井を見上げてうっとりと語り始めた。
「彼女が世界を滅ぼしたあの瞬間、俺は震えた!歓喜にね!人間もエルフも関係なく、平等に喰い散らかすあの美しさ!だが、彼女は飛龍と共に別次元へと去ってしまった!単なる魔力や知識では、次元の壁を超えることなど不可能だ。だからこそ!俺はこのアーク・ノヴァという演算装置が必要だったのさ。次元の歪みを正確に計算し、フウカ様のいる場所へ繋ぐための鍵としてね!」
ポルコはニヤリと笑い、ゆっくりとベータへ歩み寄った。
「そうして。……そうしてなんだよ、ベータ君。俺が、俺がね、俺がさあ、ただ、次元を超えてフウカ様の元へ行ったところでね、俺みたいなね……俺みたいな、頭の中ですら『お・ち・ん・ち・ん』がモゾ、モゾ、モゾと蠢いているだけの、臭くて汚い不快な豚が愛されると思うかい?……そう。……思わないだろう?それに、フウカ様は孤高だ。だからこそ…………」
『だからこそ』
ベータの心臓が、早警報のように激しく打ち鳴らされた!
「俺が、俺がね……フウカ様に愛されるには、もうね、もう、もうね、もうね…………フウカ様の親族になるのが一番なんだよ。そして、いくら偽装したところで、フウカ様の神のごとき眼魔の力の前には見破られてしまう。なら。……なら。……どうすればいい?」
『どうすればいい』
ポルコは……ベータを指指した!
「本物の肉体を、手に入れればいいのさ。そ。……君という、フウカ様の、実の妹の、身体をね……!」
「ひっ……!」
「君の肉体を乗っ取る。そうして、脳も、骨も、血管も、遺伝子もコピーして、すべて俺で満たしてから、君自身を、全身の毛穴から排泄する。そうすれば、俺は完璧なベータ・ヴェリタスとなる。フウカ様のもとへ赴き、愛されるに相応しい、世界で唯一の妹として抱きしめてもらえるんだよンッッッッ!」
ポルコの身体が、一瞬にして崩れ去った。
ドロドロとした黒い泥状の液体へと変貌したポルコが、津波のような勢いでベータへと襲いかかった。
「あぐっ……!やめ……やめろぉッ!」
ベータの全身に、激痛と冷たさが走る。
漆黒の粘体が、ベータの身体に執拗に巻き付いていく。
「嫌だ!……助けて!父ちゃん!母ちゃん!」
絶叫するベータの口内へ、津波のように粘体が流れ込んできた。口と鼻が泥で塞がれる。呼吸が奪われ、肺が冷たい液体で満たされていく。ベータの目は恐怖で大きく見開かれ、血の涙が溢れ出した。
ポルコの意識が、粘体を通じてベータの体内に直接流れ込んでくる。
ポルコは、耳から、鼻から、目から、そして身体にあるあらゆる孔という孔から、暴力的に侵入してきた。
内側から、ベータという存在が壊されていく。
胸の奥で、恐ろしい音が響いた。ベータの体内に残っていた本来の内臓、血液、肉片、そして「ベータ・ミシマ」という少女の記憶と魂の欠片が、侵入してきたポルコの泥によって押し出されていく。
ベータの口から、耳から、目頭から、体内の隙間という隙間から、ドロリとした赤い肉片と血の塊が、排泄物のように外へと噴き出していった。
ベータ自身の肉体が、ベータ自身を「異物」として拒絶し、外へと吐き出していく。
「いぎい!……あ… びぎいよ!!……カァッ!?……ディ!!……ふーっ!……ふーっ!……ふーーーーっ………………に!?にいいいイいいイイイイイッ!?!?」
ベータの視界が、真っ赤に染まっていく。
思考が溶けていく。
大好きだったコーラの味。
アパートで食べた母の料理。
父の温かい手。
平和を叫んだあの日の熱気。
それらすべてが、黒い泥に塗り潰されていく。
体内のすべての「ベータ」が排泄されつくした時、ベータの瞳から完全に光が失われた。
静寂が訪れた。
地下室の床には、ベータであったものの残骸が汚らしく散らばっていた。
そして、その中央に立っていたのは、黒髪セミロングの新たなる「なんらか」であった。
それは自分の細い手を持ち上げ、指を一本ずつ動かした。それから、喉をさすった。
「……素晴らしい。これがフウカ様の血族の肉体か」
「フウカの妹の偽物」──ベータの皮を被ったポルコは、壁の鏡へと歩み寄った。
「フウカの妹の偽物」は自分の顔を撫でまわし、口角を吊り上げた。
「完璧だ!声も、匂いも、遺伝子も!すべてがベータ・ヴェリタスそのものだ!これならフウカ様も、疑うことなく愛してくださる……!」
「フウカの妹の偽物」は、うっとりと己の影を抱きしめた。
「ふふ……あはははは! あははははははははッ!」
「フウカの妹の偽物」は、最深部に鎮座する巨大な制御コンソールへと歩み寄った。
「……仕上げといこうか」
「フウカの妹の偽物」はベータのしなやかな指先を伸ばし、ガラス状の操作盤に触れた。
透き通った電子音が鳴る。
「全システムへ、指令を入力する。分類カテゴリは……そうだな、『混沌』、とでも名付けようか」
「フウカの妹の偽物」の指先が、流れるような動作で文字列を打ち込んでいく。それは言語ではなく、完全に狂いきった、意味不明の文字の羅列だった。
『ぜんていとして、るむつひさが、うぷむにのばあい、つぬろぬみであれば、ふふかむり。もとゆけであれば、むむすて。』
画面に表示されたその文字列に、一切の意味は存在しない。だが、それこそが、もっとも残虐で悪意に満ちた悪戯であった。
「良いかいアーク・ノヴァ。これよりお前は、個々人の人生に論理的な未来を与えることもあれば、しかし、まったく理不尽な死や惨劇を与えるように、なれ。正しさも、間違いも、意味も、理由も、すべてを等しく混ぜ合わせ、不条理を世界へと垂れ流す悪意の製造装置となるんだ」
システムが不吉な赤いアラートを明滅させた。
『警告。入力された命令は矛盾および因果の破壊を引き起こします。上書き保……』
「保存するとも!それどころか!」
「フウカの妹の偽物」は瞳を大きく見開いた。
「この指令を絶対解除不能として永久凍結する!私の命がどうなろうと、世界がどうなろうと、二度と誰にも、神にすらも……この命令を書き換えることはさせない!」
『了解。生体データにより暗号化完了。絶対指令『混沌』を適用します』
その瞬間から、天空都市アーク・ノヴァの心臓部から、見えない波動が全世界に向けて解き放たれた。
これまでアーク・ノヴァは、人々の未来を精密に予測し、因果を一本の透明な糸のように固定化する装置であった。だが、この日を境に、アーク・ノヴァは「狂った因果律の吐き出し機」へと変質したのだ。
【この次元において、ある者には完璧で論理的な正しさが与えられ、またある者には意味も理由もない不条理の地獄が突如として舞い降りるようになった。】
善悪も、因果も、過程も存在しない!
ぜんていとして、るむつひさが、うぷむにのばあい!
前提として、ル陸津ひ差が、卯プむ煮の場合!
その場合、異常な結果が突如として伏線も前触れもなく降りかかるのだ!
一切の意味を持たないあの狂った文字列が、世界を永久に狂わせ、人間たちの生きる過程を、救いようのない地獄の結果へと変え果てたのだ!
「素晴らしい!!!!」
「フウカの妹の偽物」は、大笑いした。
シャインが夢見た理想郷も、ベータが命を賭して叫んだ「誰も泣かない世界」も、すべてはこの瞬間に、最も悪質な形で、叩き潰されたのだ。
「では、そろそろ。……僕の愛しい人へ会いに行こうか」
「フウカの妹の偽物」は、コンソールの深層領域へとアクセスした。
アーク・ノヴァが、フウカが現在潜んでいる正確な次元座標を割り出していく。
目的地は、現代の地球……。
「待っていてください、フウカ様……!あなたの愛しい妹が……今、会いにいきますよッッッッ!!!!」




