私3:希求!
王都中央庁舎。
部屋にいたのは三人。
デスクの後ろに佇むエルフの議員シャイン、その傍らに控え冷徹な眼差しを書類に向けている豚獣人の秘書ポルコ・オルギロス。そして、新調された高級な服の襟を鬱陶しそうに引っ張りながら、ソファーに腰掛けていたベータ・ヴェリタスであった。
「ベータ当主。改めて。確認、させていただきます」
シャインが指を組み、高貴で美しい顔立ちにビジネスライクな笑みを浮かべた。
「ヴェリタス家の資産……。現在我々が一時的に管理しているフウカ・ヴェリタスの遺産……。貴女が判を押してくだされば、我々は貴女の遺産を運用し、貴女に一生遊んで暮らせるだけの配当と、王都での名誉を保証しましょう。貴女はただ、そこに座って微笑んでいればいい。ジルゴニールのトートバッグも、ジェネバのハイヒールも、ラルゴ・ラルゴのワンピースも、毎日買える」
シャインの言葉は、この世界の「正しい大人」のやり方そのものだった。
力を持つ者を祭り上げ、裏で利権を吸い上げ、甘い汁を吸う。
かつては右翼政治家として、サメ獣人への虐殺を助長して、人間族とエルフ族の不祥事を揉み消し、政界での地位を不動のものにしてきた。
今回は左翼政治家として、絶滅したサメ獣人の妹を保護して客寄せパンダとして利用し、政界を批判して民衆からの支持率を向上させようと考えていたのだ。
だが、書類をめくる役人たちの機械的な羽音のような音を切り裂いて、鋭い打撃音が響いた。
ベータが小さな拳でデスクを激しく叩きつけたのだ。積み上げられていた書類の山が大きく揺れ、床に散らばる。
「ふざけるなッ!てめえら……!」
ベータは立ち上がり、眼前のシャインを射抜くような鋭い眼光で睨みつけた。
「俺が……俺がそんなくだらないことのために、ヴェリタスの名を引き継いだと思ってんのかよ!」
「ベータ当主、落ち着いてください。これは政治の基本的なルールで」
「せ・い・じ?……はああああ?……黙れッ!」
ベータの怒号が執務室の防音ガラスを震わせた。
「ルール?名誉?クソボケッ!……そんなもんのために、あの人が……世界を滅ぼしかけたとでも思ってんのか!てめえ!冗談じゃねえぞ!」
ベータはシャインとポルコを順番に指差し、胸を激しく上下させた。
「俺はな、見てきたんだよ!毎日な!路地裏で獣人だからって人間に唾を吐かれ、叩きのめされてる子供たちを!エルフどもが冷たい目で笑いながら、俺たちの生きる場所を奪っていくのを!そして!獣人が、仕返しとして、関係ない人間やエルフを傷つけていくのをさ!」
ベータの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「2年前……政府の奴らは、サメ獣人を絶滅させようとした!フウカ姉ちゃんは、たった一人でその復讐をやったんだ!たった一人でやったんだ!あの人が正しかったのかどうか、俺には分からねえ!でもな……俺には、痛いほど分かるんだよ!この世界が、どれほど残酷で、どれほど狂っていたかを!」
部屋の中の誰もが、息を呑んだ。
「エルフが獣人を下に見るのも!人間が日和見してるのも!獣人が暴れるのも!全部、俺が叩き潰してやる!」
ベータは己の胸を強く叩いた。
「俺は!誰もが明日を怖がらずに生きられる世界を作る!獣人も、エルフも、人間も、全員が同じ空の下で笑えるような世界を、俺が作ってみせるんだよ!そのための力なんだ!」
少女は息を荒げ、涙で濡れた顔を拭いもせず、真っ直ぐに大人たちを見据えていた。青臭く、あまりにも無謀で、途方もない夢。しかし、そこには一切の偽りも、計算も存在しなかった。
最初に動いたのは、シャイン・リベル・ダークだった。
エルフという高貴な種族に生まれ、生まれながらに優れた魔導の才能を持ち、常に他人を見下しながら生きてきた男。差別主義者ではないと自負しながらも、醜い政治の泥の中に身を置き、保身と権力のためにベータを利用しようとしていた政治家。
そのシャインの青い瞳から、ツッと一筋の涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
シャインは震える手で額を押さえ、自らの愚かさに声を出して泣いた。高貴なエルフのプライドも、政治家としての計算も、少女の放った圧倒的な光の前には一瞬で瓦解した。
かつて世界を滅ぼしかけた究極の暴力装置、フウカ・ヴェリタス。その遺産と血を正しく継承したのは、紛れもなく目の前に立つこの少女だったのだ。暴力ではなく、極限の博愛によって世界を救おうとする、あまりにも美しく眩しい魂。
シャインは静かにベータの前へと歩み寄り、高級なスラックスが汚れるのも構わず、その場に膝をついた。
「ベータ当主。私は……私は自分が恥ずかしい。貴女のような純粋な魂を、醜い政略の道具にしようとしていた己の浅ましさが……恐ろしい」
シャインはベータの小さな手を取り、頭を下げた。
「誓いましょう。シャイン・リベル・ダークは、この命と、この地位と、我が一族の誇りにかけて、貴女の思い描く理想郷の実現を全身全霊で支援いたします。貴女の夢は、今日から私の誓いだ」
そして、もう一人。
シャインの背後で、ずっと影のように佇んでいた豚獣人の秘書、ポルコ・オルギロス。
「ベータ様……【フウカ様の妹】様……!」
ポルコは床に両手をつき、涙と鼻水で顔を汚しながら叫んだ。
「【俺が】……どれほど……どれほどその言葉を待っていたか……!」
さらに、部屋の隅で書類を抱えていた人間の職員たちもまた、ボロボロと涙を流していた。
彼らはこれまで、エルフと獣人の争いに対して「自分たちは人間だから関係ない」「波風を立てずにどっちつかずでいれば安全だ」と日和見を決め込んでいた。しかし、争いを見過ごし、無関心でいることこそが、どれほど醜く邪悪な加害であったかを、ベータの涙によって突きつけられたのだ。
エルフ、獣人、人間。種族の壁を越え、その場にいたすべての者の心が、たった一人の17歳の少女の熱情によって、今、完全に一つに束ねられた瞬間だった。
ベータは涙を袖でガシガシと拭い、照れくさそうに、しかし誇らしく鼻を鳴らした。
「決まりだ! 全員、俺にしっかりついてこいよ!」
その日を境に、王都の政界に巨大な激震が走った。
かつては自分の支持率と保身のことしか考えていなかったエルフの議員シャイン・リベル・ダークは、まるで憑き物が落ちたかのように変貌を遂げた。
彼は高級な仕立ての服を泥で汚しながら、王都の劣悪なスラム街へと足繁く通い詰めた。反対派の利権政治家どもがどれほど嫌がらせや脅迫を仕掛けてこようとも、一切屈することなく、泥臭い街頭演説を繰り返した。
「我々は過ちを犯してきた!差別と無関心という病が、あの凄惨なホロコーストを引き起こしたのだ!」
そして、ポルコ・オルギロスもまた、秘書としての超人的な能力を遺憾なく発揮した。
ヴェリタス家の莫大な資産を効率的に運用し、腐敗した役人どもへの裏金を一掃し、平和のための新事業への資金ラインを完璧に構築していった。かつて冷たかった豚の瞳には、揺るぎない使命感がみなぎっていた。
そして。
ベータの発案によって始動した国家規模の大プロジェクト。
それは、犯罪と差別と貧困を未然に防ぎ、この世界から不必要な流血を完全に排除するための未来予測システム……犯罪予測衛星「アーク・ノヴァ」の建造計画であった。
魔導産業革命の最先端技術を集約し、魔導OSの根幹に「あらゆる生命の保護」を組み込む巨大な宇宙衛星。究極の暴力によって世界を再構築したフウカとは異なり、ベータは究極の「平和装置」によって世界を守ろうとしたのだ。
・・・・・・・・・・
数ヶ月の時が流れた。
季節は巡り、王都の空には澄み渡るような冬の星空が広がっていた。
王都の郊外、極秘裏に建設が進められている大規模魔導プラントの最上階。
そこからは、夜の闇の中に美しく輝く王都の街並みと、遥か上空の建造ドックで青白い魔導光を放ちながら形作られていく巨大構造物「アーク・ノヴァ」が一望できた。
夜風が冷たく吹き抜ける中、ベータは手すりに体重を預け、冷えた瓶コーラをゴクゴクと喉に流し込んでいた。
「やっぱ夜風を浴びながら飲むコーラは最高だな!」
ベータが満足そうに息を吐くと、その隣に温かい紅茶の入ったタンブラーを持ったポルコが歩み寄ってきた。
「ベータ様。夜風が冷え込みます。あまり無理をなさらないでください」
「ポルコ!俺は闘魚の獣人だぞ?これくらいの寒さ、なんでもねえって!」
ベータはニッと八重歯を覗かせて笑った。ポルコはその笑顔を見て、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
少し離れた場所では、長広舌の演説を終えたばかりのシャインが、優しく慈しむような眼差しで二人を見守っていた。かつて高慢だったエルフの議員は、今やベータとポルコの会話を聞いているだけで、深い幸福感に満たされるようになっていたのだ。
「なあ、ポルコ」
ベータは上空で青く輝くアーク・ノヴァの建造フレームを見上げながら、静かに口を開いた。
「俺さ、時々考えるんだ。フウカ姉ちゃんは、どんな気持ちであの次元の彼方へ消えていったのかなって」
「フウカ様……ですか」
「うん。姉ちゃんはさ、世界を喰い散らかして、凄まじい絶望を与えた。でも最後には、全員を生き返らせて、命の重さを教えたんだろ?それってさ……悲しいことじゃないか。誰も自分を理解してくれない世界で、一人で悪魔になって、一人で愛を教えて、そうして消えていくなんてさ」
ベータは拳を握りしめた。
「俺は、このアーク・ノヴァを絶対成功させるんだ。世界が本当に平和になったらさ……いつか、次元の向こうにいる姉ちゃんに、胸を張って言いたいんだよ。『世界はこんなに温かい場所になったよ』ってさ」
少女の真っ直ぐな言葉には、過去の悲劇すらも包み込む、底知れない希望が宿っていた。
ポルコは静かに夜空を見上げ、遥かなる宙の彼方へと意識を向けた。
ポルコの口から、祈るような、かすかな呟きが漏れた。
「……【フウカ様のために】」




