03 - 魔法?
四か月が過ぎた。
決して長い時間ではない。
それでも世界は、一度たりとも立ち止まることはなかった。
季節は巡り、風は吹き続ける。
太陽もまた、毎朝変わることなく空へ昇っていた。
そして、この小さな家には今日も笑い声が満ちている。
ただ一つだけ――
彼の世界は、まだ狭かった。
「くそっ」
「この体、本当に役立たずだな」
イツキは這っていた。
いや――
正確には、這おうとしていた。
「ふんっ……」
右手を前へ。
続いて、思うように動かない左手を引きずる。
服を木の床に擦りつけながら、ようやく数センチだけ体が前へ進んだ。
イツキは満足そうに小さく頷く。
(よし)
(これが成長ってやつだ)
だが、そのささやかな達成感に浸る暇はなかった。
突然、腕から力が抜ける。
べちゃっ。
顔面から床へ突っ伏した。
「くそ……」
顔を横へ向け、大きく息を吐く。
「赤ん坊って、こんなに大変なのかよ……」
この世界に生まれて、四か月。
頭の中では、とっくに家中を探検する計画を立て終えている。
だが、肝心の体がまるで言うことを聞いてくれない。
現実は厳しかった。
まだ居間すら攻略できていないのだから。
「これじゃ、いつになったら外へ出られるんだよ……」
イツキはもう一度体を押し出す。
少しずつ。
今度はさっきより力強く。
目標は一つ。
扉だ。
(この部屋さえ出られれば)
(あとは何とかなる)
少なくとも――
そう思っていた。
その時だった。
ドアノブがゆっくりと動く。
ゆっくり。
そう思った頃には、
もう扉は開いていた。
ギィ……。
軋む音が部屋に響く。
「ダニエル、お客様をお願い」
扉が開くのと同時に、ベロニカの穏やかな声が聞こえた。
(やばっ)
イツキは慌てて顔を床へ押しつける。
見つからないように。
ベロニカに見つからないように。
「……」
「……あら?」
ベロニカの声色が変わる。
視線はまだ、イツキが眠っているはずのベッドへ向けられていた。
だが、そこには誰もいない。
何気なく床へ目を向ける。
一秒。
二秒。
三秒も経たないうちに、その瞳が大きく見開かれた。
「イ、イツキ!?」
(しまった)
(見つかった)
イツキはぎゅっと目を閉じる。
もう遅い。
脱走計画は、ここに正式に幕を閉じた。
「イツキ!」
ベロニカは慌てて駆け寄る。
その場に膝をつき、小さな体をそっと抱き上げた。
「まあ……いつの間にここまで来たの?」
イツキはぷいっと顔を逸らす。
まるで、自分には何の心当たりもないと言わんばかりに。
ベロニカは目を細めた。
「知らないふり?」
イツキは何も答えない。
代わりに天井を見上げる。
(認めなければ)
(俺は無罪だ)
ベロニカは小さく息をついた。
「本当に……変わった子」
「まだ四か月なのに、もう脱走しようとするなんて」
扉の向こうには、一人の男が立っていた。
茶色の髪。
引き締まった体つき。
その腕の中では、小さな女の子が静かに眠っている。
「突然のお訪ね、失礼いたします」
どこか甲高く、不思議な響きを持つ声だった。
男はダニエルを頭の先から足元まで一瞥すると、穏やかに微笑む。
「ご子息がお生まれになったと伺いました」
軽く一礼し、
「お祝いを申し上げたく、お邪魔いたしました」
ダニエルは言葉を失った。
無意識のうちに、ズボンを握る手へ力が入る。
ゆっくりと一度、瞬きをした。
「……お祝い?」
思わず、その一言だけが口をついて出る。
男は静かに頷いた。
「ええ」
「ご子息のご誕生をお祝いに参りました」
ダニエルはベロニカへ視線を向ける。
イツキを抱いた彼女は玄関先に立ち、小さく微笑んだ。
二人の視線が交わる。
言葉はない。
それでも、ベロニカはその意味を理解していた。
小さく頷く。
それを見たダニエルは、再び男へ向き直った。
「……どうぞ」
そう言って、居間のソファへ手を差し伸べる。
「ありがとうございます」
男は軽く頭を下げ、家の中へ足を踏み入れた。
腕の中の赤子は、相変わらず静かな寝息を立てている。
大人たちの会話など気にも留めていないようだった。
身なりは質素。
豪華でもなく、みすぼらしくもない。
それなのに――
なぜか、ダニエルは男から目を離せなかった。
(……何かがおかしい)
胸がわずかにざわつく。
(この村には長く住んでいる)
(だったら、この人に見覚えがあってもおかしくないはずなんだ)
額を一筋の汗が伝う。
一方、
ベロニカの腕の中では、イツキも男をじっと見つめていた。
(ん?)
(この人……)
ダニエルは静かに扉を閉める。
男の歩き方は落ち着いていた。
急ぐでもなく、
かといって遠慮する様子もない。
まるで他人の家ではなく、自分のよく知る場所を歩いているかのようだった。
「……」
「おかしい」
思わず漏れた呟きに、
男が足を止める。
「何かございましたか?」
ダニエルは数秒黙り込んだあと、小さく首を振った。
「……いや」
疑う理由はない。
服装も普通。
話し方も礼儀正しい。
赤ん坊を抱く手つきも、とても優しい。
何一つ不自然ではない。
だからこそ――
あまりにも自然すぎた。
「どうぞ、お掛けください」
今度はベロニカが声をかける。
「ありがとうございます」
男はソファへ腰を下ろした。
腕の中の女の子は、相変わらずぐっすり眠っている。
時折、小さな指先だけがぴくりと動いた。
ベロニカも向かいへ腰を下ろし、イツキを膝の上へ乗せる。
イツキの視線は、すぐにその赤ん坊へ向かった。
(俺と同じくらいか?)
そう思った、その時――
「まだ名乗っておりませんでしたね」
男が穏やかに微笑む。
「私の名は、ワカトシ」
「この村で村長を務めております」
部屋の空気が止まった。
ダニエルはすぐには返事をしない。
目を細める。
(……村長?)
(違う)
(村長の顔なら知っている)
(この人じゃない)
暖炉の薪が弾ける音だけが、小さく部屋へ響いた。
その沈黙の中、
イツキは首を傾げる。
(……え?)
(ちょっと待て)
(ワカトシ?)
眉がぴくりと動く。
天井を見上げながら、記憶を探る。
(その名前……)
(めちゃくちゃ日本人っぽくないか?)
(ここって異世界だよな?)
(なんでそんな名前なんだよ)
もう一度、男を見る。
黒髪。
落ち着いた顔立ち。
話し方にも違和感はない。
一瞬だけ、イツキは手を上げかけた。
(すみませーん)
(日本に住んでたことあります?)
あと少しで手が上がる――
その寸前。
(……あ)
(俺、まだ赤ん坊だった)
そっと手を下ろす。
部屋の誰一人として、
生後四か月の赤ん坊の頭の中で繰り広げられている壮大な葛藤など、知る由もなかった。
一方で、ダニエルはなおもワカトシから目を離せずにいた。
「……すみません」
ようやく絞り出した一言だった。
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
ワカトシは穏やかに頷く。
「ええ、どうぞ」
ダニエルは静かに息を吸った。
「先ほど……」
「ご自分を村長だと、おっしゃいましたね?」
ワカトシの微笑みは崩れない。
「はい」
「皆は、そう呼んでおりますので」
――妙な返答だった。
問いに答えているようでいて、
何一つ答えていない。
ダニエルは目を細める。
「……そうですか」
ワカトシの表情には、一切の迷いがなかった。
嘘をついているようにも見えない。
だからこそ、
胸の奥に引っ掛かる違和感だけが消えなかった。
「どうやら、混乱させてしまったようですね」
ワカトシは苦笑を浮かべる。
ダニエルは肩をすくめ、小さく頭を下げた。
「すみません」
「知っている村長とは、どうしても別人に見えてしまって……」
「それも無理はありません」
ワカトシは静かに頷く。
「長い間、この村を離れておりましたから」
それだけだった。
理由も、
経緯も、
それ以上は何も語らない。
ダニエルも、それ以上踏み込もうとはしなかった。
今、問い詰めるべき相手ではない。
そんな気がしたからだ。
ワカトシは懐へ手を入れる。
取り出したのは、小さな布袋だった。
「こちらを」
「イツキくんへの、ささやかなお祝いです」
ダニエルは慌てて首を振る。
「い、いえ、そこまでお気遣いいただかなくても――」
「どうか」
ワカトシは穏やかな口調のまま言葉を重ねた。
「この子が健やかに育つことを願う、ほんの気持ちです」
その一言に、
ダニエルは断る言葉を失う。
「……ありがとうございます」
両手で布袋を受け取る。
ワカトシは柔らかく微笑んだ。
「神の祝福が、このご家族にありますように」
ダニエルは深く頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
ベロニカも静かに会釈した。
ワカトシは一度だけ彼女へ視線を向ける。
そして、
その腕の中にいるイツキへ目を移した。
――その瞬間だった。
今まで一度も崩れることのなかった微笑みが、
ほんの一瞬だけ消える。
理由は分からない。
何も言わない。
ただ静かに踵を返し、
玄関へ向かって歩き出した。
まるで最初から、
祝いの言葉だけを届けるために訪れたかのように。
部屋は再び静寂に包まれる。
響くのは、
遠ざかっていく足音だけだった。
ギィ……。
扉が静かに閉まる。
足音も、
気配も、
やがて完全に遠ざかっていった。
それでもイツキは、
しばらく閉ざされた扉を見つめ続けていた。
――セレナ。
その名前だけが、
なぜか頭の片隅に引っ掛かっている。
もちろん、
彼はまだ知らない。
ほんの数秒だけ交わしたあの視線が、
二人にとって最初で、たった一度きりの「出会い」だったことを。
(まあ……)
(変な奴じゃなきゃいいけど)
ワカトシたちが帰ってから、しばらくして。
家の外から賑やかな声が聞こえてきた。
イツキはベロニカに抱かれたまま、その方へ顔を向ける。
家の前では、大勢の村人たちが広場に集まっていた。
その中心に立っているのはダニエルだ。
大きく腕を振り上げ、
村人たちも同じ動きを真似している。
(……ん?)
イツキはぱちぱちと瞬きをした。
(ラジオ体操?)
その光景をしばらく眺め、
思わず心の中で呟く。
(へぇ……)
(この世界にも体操ってあるんだ)
どこか妙な親近感を覚えてしまう。
異世界らしさとは程遠い光景だった。
だが――
「あっ!」
一人の男が顔をしかめ、その場にしゃがみ込んだ。
足首を押さえ、苦しそうに息を漏らす。
「大丈夫か!」
ダニエルが慌てて駆け寄る。
村人たちの間にも、小さなどよめきが広がった。
その様子を見たベロニカは、
イツキを抱いたまま迷うことなく歩き出す。
「少し見せてください」
男の前に膝をつく。
「どこが痛みますか?」
男は苦笑しながらズボンの裾を少しだけまくり上げた。
足首は赤く腫れ上がっている。
一目で痛々しいと分かるほどだった。
ベロニカは傷を見るなり、
安心させるように微笑む。
「大丈夫ですよ」
「これくらいでしたら、すぐに治ります」
男はほっと胸をなで下ろした。
「お願いします」
ベロニカは小さく頷く。
その様子を見つめながら、
イツキは思わず口元を緩めた。
(無料で名医の治療見学か)
(今日はツイてるな)
ベロニカは深紅の髪を耳へかき上げる。
ゆっくりと右手を持ち上げた。
その指先は、
男の足首へ静かに向けられる。
村人たちは誰一人として口を開かない。
風だけが、
静かに草を揺らしていた。
ベロニカは静かに目を閉じる。
そして、
澄み渡るような声で詠唱を紡ぎ始めた。
「天と地を巡るマナよ――」
「傷つきし命に、その慈しみを。」
「砕けた痛みを癒やし、穏やかな息吹を与えたまえ。」
「生命の流れを、今ここに。」
一瞬――
何も起こらなかった。
イツキは小さく首を傾げる。
(……ん?)
(お祈り?)
(治療じゃなかったのか?)
次の瞬間――
ベロニカは静かに瞳を開いた。
「――《ヒール》」
その一言とともに、
淡い緑色の光が掌から溢れ出す。
眩しい光ではない。
それなのに、
どこまでも優しく、温かな光だった。
まるで春の日差しのようなぬくもりが、
辺り一帯を静かに包み込んでいく。
光は男の足首へ降り注ぐ。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
赤く腫れ上がっていた皮膚は、
少しずつ本来の色を取り戻していく。
強張っていた筋肉も、
静かにほぐれていった。
数秒後――
傷は、
まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。
男は恐る恐る足を動かす。
一歩。
もう一歩。
「……痛くない」
信じられないというように目を見開く。
「本当に治った……!」
村人たちから安堵の声が漏れた。
ベロニカはただ穏やかに微笑むだけだった。
一方――
イツキは言葉を失っていた。
さっきまで浮かんでいた軽口は、
跡形もなく消え去っている。
その視線は、
宙へ溶けていく緑色の残光だけを追っていた。
(……は?)
(今の……)
(まさか……)
(魔法……なのか?)
最初のイツキ「ダニエル、ラジオ体操のお兄さんだったのか……] (笑)




