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04 - 火の雨

緑色の淡い光が、ゆっくりと空気へ溶けるように消えていく。


眩しくもなく、派手でもない。


だからこそ、その光景は妙に現実味を帯びていた。


いつきは、ただ見つめることしかできなかった。


瞬きもせず。


息をすることさえ忘れたように。


(……待て)


(今の……)


(あれって……)


(魔法?)


さっきまで痛みに顔をしかめていた男が、ゆっくりと立ち上がる。


足首を動かした。


一度。


二度。


そして、その表情がぱっと明るくなる。


「なおっ……た?」


目を丸くしながら、男は何度も足を踏み鳴らした。


「本当に痛くない!」


村人たちが一斉に安堵の息を漏らす。


小さく拍手する者までいた。


「やっぱりヴェロニカはすごいな。」


「君がいてくれなかったら、明日は仕事にならなかったよ。」


そんな言葉に、ヴェロニカは照れくさそうにはにかむ。


なぜか痒くもないこめかみを、ぽりぽりとかいた。


「ただの捻挫ですから。」


「骨まで傷んでいなくて、本当に良かったです。」


村人たちは笑顔のまま会話を続けていた。


だが――


いつきには、もう何一つ耳に入ってこなかった。


頭の中では、ただ一つの言葉だけが何度も何度も反響している。


(あれは絶対にトリックじゃない。)


(手品でもない。)


(幻覚でもない。)


(じゃあ……)


(魔法だ。)


夜になった。


昼間は賑やかだったダニエルの家も、今は暖炉の薪がぱちぱちと爆ぜる音だけが響いている。


いつきは揺りかごの中で仰向けになり、ぼんやりと天井を見つめていた。


(寝る?)


(寝られるわけないだろ。)


(魔法を見た直後にぐっすり眠れるなら……)


(その精神力は素直に尊敬する。)


昼間の光景が何度も頭に浮かぶ。


詠唱。


手の動き。


そして――あの緑色の光。


いつの間にか、小さな手が宙へ持ち上がっていた。


(天と地に満ちるマナよ……)


うろ覚えの詠唱を必死に思い出す。


(魔王に祝福され――)


(違う違う。)


すぐさま自分でツッコミを入れる。


(何だったっけ……)


眉間にしわが寄る。


(長ぇよ……。)


(あんな長文、覚えられるか。)


小さな手が力なく下がった。


(「ヒール!」だけなら簡単なのに。)


一段落まるごとあるような詠唱だ。


覚えられるわけがない。


……それでも。


もう一度だけ試してみることにした。


小さな手をゆっくりと持ち上げる。


(よし……。)


目を閉じる。


視界が暗く染まった。


「ヒール。」


小さな唇から、その一言だけがこぼれる。


ゆっくりと目を開く。


……


静寂。


何も起こらなかった。


いつきはぱちりと瞬きをする。


(もう一回。)


「ヒール。」


今度は手までぶんぶん振ってみる。


……


やはり何も起こらない。


いつきは自分の掌をじっと見つめた。


(うーん……。)


(言うだけじゃ駄目か。)


(じゃあ何が足りない?)


その時だった。


偶然なのか、それとも必然なのか。


居間からダニエルの声が聞こえてくる。


「いつきのゲートって、何歳くらいで開くんだろうな?」


その瞬間。


いつきの動きがぴたりと止まった。


天井を見ていた目が、そのまま扉の隙間へ向く。


(……ゲート?)


食器を片付けながら、ヴェロニカが答えた。


「さあ。」


「それは子どもによって違うものだから。」


「早い子もいれば、遅い子もいるし。」


少しだけ声を落とす。


「無理にどうこうするものじゃないわ。」


「その時が来れば、自然に開くものだから。」


(ゲート……。)


いつきは、その言葉を頭の中で何度も繰り返した。


(つまり……。)


(ゲートが開いてないと……。)


(俺はまだ魔法を使えないってことか?)


深いため息が漏れる。


もともと寄っていた眉間のしわは、さらに深くなる。


二十代で借金まみれになった青年みたいな顔だった。


トンッ。


小さな拳で、揺りかごの横にある小さな台を叩く。


(くそっ。)


小さな歯をぎゅっと食いしばった。


(スタートラインにすら立ててないじゃないか。)


「……ん?」


「今、何か音がしなかったか?」


ダニエルがふいに話題を変えた。


いつきの部屋の方へ視線を向ける。


ヴェロニカも顔を上げた。


「え?」


ダニエルは部屋の扉を指差す。


「さっきさ。」


「コツッ、って。」


そう言いながら、近くの机を軽く指で叩いてみせた。


「こんな感じの小さい音。」


頬をぽりぽりとかく。


「家鳴りかもしれないけどな。」


「最近、この家よく鳴るし。」


「そういえば、そうね……。」


ヴェロニカも小さく頷く。


だが次の瞬間、ふっと笑った。


「でも、まさかいつきが鳴らしたわけじゃないでしょう?」


「はは、それもそうだ。」


ダニエルも苦笑する。


「もし今の時点で机を叩けるなら、逆に感心するよ。」


二人は顔を見合わせ、小さく笑った。


そのまま何事もなかったように家事へ戻っていく。


一方、その頃。


部屋の中では――


いつきがそっと顔を横へ逸らしていた。


(……危な。)


(あと少しでバレるところだった。)


視線を小さな台へ向ける。


さっき、自分で叩いた場所だ。


力なんてほとんど入れていない。


それでも居間まで聞こえてしまったらしい。


(今後はもっと気を付けないと。)


(こんなの続けてたら……。)


(そのうち「この赤ん坊、おかしい」って思われる。)


ゆっくり息を吐く。


そして、もう一度自分の掌を見る。


変化はない。


光もない。


マナの気配もない。


……何も。


(ふむ。)


(やっぱり。)


(詠唱だけの問題じゃない。)


(発音でもない。)


(決定的に何か足りない。)


頭の中で情報を整理する。


(魔法は存在する。)


(マナも、おそらくある。)


(でも……。)


("ゲート"っていうものがある。)


(そして、俺のゲートはまだ開いていない。)


ゆっくりと目を閉じる。


この世界へ生まれてから初めて。


いつきは、自分が本当の意味でスタートラインにも立っていないことを思い知った。


赤ん坊だからじゃない。


この世界には、この世界の"ルール"がある。


そして、そのルールを――


自分はまだ何一つ理解していなかった。


しばらくして――


廊下の向こうから、小さな足音が近づいてきた。


コツ……


コツ……


やがて。


ギィ……


部屋の扉が静かに開く。


ヴェロニカが、小さなオイルランプを手に入ってきた。


その柔らかな灯りが、部屋を優しく照らす。


眩しすぎることもなく、眠気を邪魔することもない。


彼女はゆっくりと揺りかごのそばへ歩み寄った。


「あら?」


「まだ起きてたの?」


優しく微笑みながら、温かな指先でいつきの髪をそっと撫でる。


「もう夜なのに。」


いつきは母の顔を見上げた。


(寝たくないわけじゃない……。)


(今ちょっと脳みそがフル回転してるだけだ。)


そんなことを知る由もなく。


ヴェロニカは小さく笑う。


「うーん……。」


「それじゃあ。」


ふと視線を部屋の隅へ向けた。


木製の本棚。


そこには何冊もの本が静かに並んでいる。


「ずいぶん読んでなかったわね。」


そう呟くと、彼女は本棚の前まで歩いていく。


一冊ずつ背表紙を指でなぞりながら探していくと――


一本の指が止まった。


古びた茶色の表紙。


「まだあったのね……。」


ほとんど独り言のように、小さく呟く。


ヴェロニカはその本をそっと取り出した。


表紙を優しく撫でる。


長い年月を経た本だった。


表紙は色褪せ、ページの端は黄色く変色している。


それでも大切に扱われてきたことが伝わってくる一冊だった。


再び揺りかごの横へ腰を下ろす。


ページを破らないよう、ゆっくりと本を開いた。


「よし。」


「少しだけ読んであげるね。」


いつきがちらりと本を見る。


(絵本?)


(ふーん。)


(眠らせる作戦か。)


口元が少しだけ緩む。


(懐かしくなるだけなんだけどな。)


ヴェロニカは微笑んだ。


「これね。」


「昔、おばあちゃんがよくお母さんに読んでくれたお話なの。」


返事はない。


いつきはもう興味を失ったように顔を横へ向ける。


ヴェロニカは一ページ目を開き、


そこに書かれた題名を目で追った。


ふっと微笑み、


少しだけ声を張って読み上げる。


「――『火の雨』」


その瞬間。


閉じかけていたいつきの瞼が、ゆっくりと開いた。


(……火の。)


(……雨?)


(なんだ、そのタイトル。)

いつきはまだ魔法を使えませんが、作者はそろそろ寝たいです。

次回もよろしくお願いします(笑)。

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