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02 - 僕の名前は

温かい。


 ……けれど、どこか滑稽だった。


 十四年間、一度も離れることのなかった病院のベッド。


 そこから、私は初めて持ち上げられた。


 誰かの両腕が、壊れ物でも扱うようにそっと私を抱き上げる。


 長い間横たわるだけだった身体が、ふわりと宙へ浮いた。


(……え)


 身体が傾く。


 少し。


 そして、さらに。


(え……?)


 何の前触れもなく、そのまま空中へ持ち上げられる。


(この人……)


 視線が合った。


 黒髪の青年は、石のように硬い表情で私を見つめている。


 その腕は震えていた。


 本当に、少しだけ。


 まるで赤ん坊ではなく、今にも割れそうなガラス細工でも抱えているかのように。


 思わず口元が緩む。


(おいおい)


(赤ちゃんを抱いてるんだぞ)


(米袋じゃないんだから)


 どうやら私の表情が少しだけ伝わったらしい。


 青年――ダニエルはぎこちなく笑い返した。


「ヴ、ベロニカ……」


 声まで震えている。


 腕と競争でもしているのかと思うほどだった。


 彼は部屋の隅にいる女性へ視線を向ける。


 深紅の髪を持つその女性は、まだ産後の疲れが残っているのだろう。


 息は浅く、それでも優しくこちらを見守っていた。


 ダニエルは恐る恐る私の身体を持ち直す。


 褒めてもらいたい子どものような顔で。


「こ、これで合ってる?」


「違うわ」


 返事は短い。


 けれど冷たくはなかった。


 ダニエルの肩が目に見えて落ちる。


 それでも諦めず、もう一度抱き方を直した。


 今度はさっきより少しだけ上手い。


「……これなら?」


 ベロニカの口元がわずかに緩む。


 まるで、不器用な子どもを見守る母親のように。


「少し高すぎるわ、ダニエル」


 小さく息を吐く。


「貸して」


 両手をベッドにつき、ゆっくり身体を起こす。


 だが立ち上がった瞬間、


「っ……」


 小さな痛みが、先に声となって漏れた。


「ベロニカ!」


 ダニエルは慌てて私をベッドへ寝かせ、その身体を支える。


「無理するな」


 小指にそっと触れ、安心させるように微笑む。


 その仕草に、ベロニカも視線を返した。


 けれど彼女の目は静かだった。


 ダニエルの手が、彼女の腹部へ伸びる。


 触れる寸前で止まり、


 すぐに引っ込めた。


「ベロニカ」


 さっきまでの頼りない声とは違う。


 少しだけ真剣な響きだった。


「これからは……」


 ベロニカが顔を上げる。


 結っていた赤い髪が肩からさらりと流れ落ちた。


「お、俺が……」


 ――また声が震える。


 さっきより酷い。


 ダニエルは深く息を吸った。


「……」


 コツン。


 拳で胸を叩く。


 一度。


 そして、もう一度。


 心の奥に巣食う弱さを追い払うように。


 ゆっくり顔を上げる。


 今まで逃げ続けていた灰色の瞳が、


 真っ直ぐベロニカを見つめた。


「これからは」


「俺が学ぶ」


「俺が……君たちを守る」


ベロニカは、少しだけ微笑んだ。


「……なら」


 両腕をゆっくり差し出す。


「私が教えてあげる」


 ダニエルは何度も頷いた。


「う、うん」


 その時だった。


「……待って」


 二人とも動きを止める。


 赤ん坊が、渡されていない。


「……」


「……」


 二人の視線が、ゆっくりとベッドへ落ちた。


 そこには――


 ひっくり返った私がいた。


 小さな足だけが、ぱたぱたと宙を蹴っている。


 顔は布団へ埋まっていた。


「……」


「……」


 ダニエルとベロニカは顔を見合わせる。


「……いつから?」


(あー)


(こういうの嫌いなんだよな)


(本来なら、ここは少女漫画のクライマックスだろ……)


(なんで私だけ窒息しかけてるんだ)


 必死に首を横へ向ける。


 あと少し。


 あと少しだけ。


(酸素……)


(酸素をください……)


 ◇


「ここ」


 ベロニカがダニエルの腕へそっと触れた。


「肘を少し上げて」


「……うん」


「それから」


「首を支えて」


 言われた通りに腕を動かす。


 もう震えてはいなかった。


 私の身体が、もう一度彼の腕へ収まる。


 今度は違う。


 首はきちんと支えられ、


 背中も安定している。


 落ちそうな気配はない。


 ぴたり、と収まった。


 ベロニカは何も言わない。


 少しだけ眺めて、


 静かに微笑んだ。


 それだけだった。


 だが、その小さな笑顔だけで十分だった。


 ダニエルの肩から力が抜ける。


 深く息を吐き、


 安心したように私を見下ろした。


 じっと。


 本当にじっと。


 今のうちに覚えておこうとでもいうように、私の顔を見つめ続ける。


 震えていた指先が、


 そっと私の黒髪へ触れた。


「髪は……俺に似たのかな」


 続いて目元を見る。


 その表情が少し柔らかくなった。


「でも」


「目は、ベロニカだ」


 私は見返す。


(……何)


(そんなに見るな)


 気付けば唇が少し尖っていた。


 眉まで寄っている。


 どうやら不機嫌な顔になっていたらしい。


 ダニエルが固まる。


 数秒後、


 困ったように笑った。


「ベロニカ」


「なあ」


「俺……」


「怒られてる?」


 ベロニカは私を見る。


 その瞬間、


 肩が小さく震えた。


 次の瞬間には、


 くすり、と笑っていた。


「ええ」


「きっと怒られてるわ」


 その一言で、


 二人は同時に吹き出した。


 笑い声が小さな部屋いっぱいに広がる。


 久しぶりなのだろう。


 二人とも、


 笑うことを忘れていたみたいに笑っていた。


 ダニエルの肩が揺れる。


 腕も少しだけ揺れる。


(……ん?)


 身体が滑った。


 少し。


 もう少し。


(……あれ?)


 首を支えていた手が離れる。


 視界がゆっくり傾く。


(ちょっと待て)


(待って)


(まだ転生したばっかりなんだけど!?)


「ダニエル!」


 ベロニカの笑顔が消えた。


「赤ちゃん!」


 ダニエルが振り向く。


 時間が止まる。


 私の身体が、


 ふわり、と宙へ浮いた。


 そのまま床へ落ち――


 ようとした、その瞬間。


 ダニエルの足が動いた。


 一歩。


 身体が自然に回る。


 足先が円を描き、


 左腕が水の流れのように滑らかに動く。


 力みはない。


 淀みもない。


 まるで川が流れを変えるように。


 ふわり。


 私はもう一度、その腕の中へ戻っていた。


 衝撃は、ない。


 柔らかい。


 静かだった。


 部屋に響くのは、


 私の小さな呼吸だけ。


「……え?」


 ダニエル自身が、一番驚いていた。


 両手を見る。


 それから私を見る。


「……え?」


 本当に受け止めた。


 傷一つない。


 その事実が信じられないようだった。


「……ダニエル」


 静寂を破ったのは、ベロニカだった。


「……うん?」


「今の」


「え?」


「あなた……」


 ダニエルは首を傾げる。


「何かした?」


「……」


 ベロニカの視線は、


 彼の足元へ落ちる。


 そしてもう一度、


 腕へ。


 さっきの動きを頭の中で何度もなぞるように。


「……いいえ」


 結局、小さく首を振った。


「気のせいかもしれないわ」


 ダニエルは苦笑する。


「俺も分からないんだ」


「体が勝手に動いた」


 そう言って、


 もう一度私を見る。


 どこか申し訳なさそうに。


「……ごめんな」


「落としかけた」


(ほんとだよ)


(私は米袋じゃないんだけど)


(今日だけで何回落とされそうになったと思ってる)


 思わず唇を尖らせる。


 それを見たダニエルは、


 苦笑しながら私の頬へ指先を伸ばした。


 ぷに。


「……はは」


「怒ってるな」


 その笑顔は、


 さっきまでのぎこちなさとは少し違っていた。


「まだ父親になって数十分なのに」


「もう君には怒られてばかりだ」


(いや、それ以前の問題なんだが)


 部屋の隅で、


 ベロニカは二人を静かに見つめていた。


 その眼差しは、


 どこか安心したようで、


 どこか泣きそうでもあった。


 やがて、


 ゆっくり口を開く。


「ダニエル」


「ん?」


「……そろそろ」


「名前を」


 空気が少し変わった。


 ダニエルが固まる。


「名前……」


 その一言だけ繰り返す。


 ベロニカは静かに見つめた。


「……まさか」


 嫌な予感がした。


「考えてないの?」


 ダニエルの肩がぴくりと震える。


 視線が泳いだ。


 頬を掻く。


 額に汗が浮かぶ。


 沈黙。


 聞こえるのは、


 指が頭を掻く音だけ。


 ベロニカの笑顔が消えた。


「……ダニエル?」


「えっと……」


「うん?」


「…………」


「考えてなかったのね」


「……はい」


(終わったな)


(この人)


(南無)


 私は心の中だけで手を合わせた。


 ダニエルは慌てて両手を振る。


「ち、違う!」


「ちゃんと考えてたんだ!」


「本当に!」


 ベロニカはじっと見つめる。


「じゃあ」


「教えて?」


「…………」


 ダニエルは窓を見る。


 花瓶を見る。


 天井を見る。


 最後に私を見る。


「……忘れた」


 沈黙。


 今度は、


 本当に長かった。


(あーあ)


(もし前世だったら)


(今日はソファ確定だな)


 ダニエルは乾いた笑いを漏らす。


「は、はは……」


 誰も笑わない。


 ベロニカはゆっくり目を閉じ、


 こめかみを押さえた。


「ダニエル」


「……はい」


「外へ行って」


「名前を考えてきて」


「今すぐ」


「はいっ!」


 反射的に返事をすると、


 そのまま私を抱えたまま玄関へ向かう。


 しかし、


 扉の前で足が止まった。


「……」


 風が吹く。


 窓の外では、


 一本の大きな木が静かに枝を揺らしていた。


 春風を受けながら、


 ただそこに立ち続けている。


 ダニエルはその木を見つめる。


 長い間。


 やがて、


 ぽつりと呟いた。


「……イツキ」


 ベロニカが目を開く。


「イツキ?」


 ダニエルはゆっくり頷く。


「ああ」


「この子には」


「強くなくてもいい」


「誰より優れていなくてもいい」


「でも……」


 もう一度、


 窓の外の木を見る。


「帰って来られる場所になれる人であってほしい」


「誰かが疲れた時」


「安心して寄りかかれる木みたいに」


 部屋は静まり返る。


 ベロニカは私を見て、


 ダニエルを見て、


 また微笑んだ。


「……イツキ」


「いい名前ね」


 私は二人を見上げる。


(へえ)


(アリカじゃないんだ)


(今日から私は――)


(イツキ、か)


 胸の奥で、


 不思議なくらい自然にその名前が馴染んだ。

アリカとしての人生は終わった。

そして――イツキとしての物語が、今、始まる。

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