表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/2

01. もうあの部屋ではない

ドクン。


ドクン。


ドクン。


音は、まだそこにあった。


けれど、もう音ではなかった。


自分の内側で、何かが静かに動いている。


そんな感覚だった。


アリカは動かない。


いや――動けない。


世界は闇に包まれていた。


ただ暗いだけではない。


濃密な闇。


息苦しいほどに満ちた闇。


「何もない」と呼ぶには、あまりにも近すぎる闇だった。


その奥に、白があった。


ほんのわずか。


欠片のような白。


そこに在り続け、


静かに押し寄せ、


まるで世界そのものが、まだ自分の形を決めかねているようだった。


それなのに――


どうしてだろう。


目を逸らすことができない。


「……なんだ、これ」


思考とも呼べないほど小さな問い。


言葉になる前の感覚。


考えるというより、ただ心が震えただけだった。


その瞬間――


ドクン。


鼓動が響く。


今度は外からではない。


内側だった。


胸の奥。


確かに、自分の中から鳴っている。


アリカは、その音を確かめようとした。


手ではない。


触れることでもない。


ただ、意識だけを向ける。


そして気づく。


そもそも――意識とは何だ。


そんな疑問さえ浮かんでいた。


「……これ……」


「……俺の、心臓?」


問いは闇へ溶けていく。


返事はない。


声もない。


音すらない。


残っているのは静寂だけだった。


まるで世界が、「答える」ということ自体を忘れてしまったかのように。


そのときだった。


ぽたり。


何かが頬に触れる。


温かい。


確かな感触。


無視できないほど現実で、


理解できないほど見知らぬ感覚だった。


「……え?」


アリカはすぐには反応しなかった。


まだ身体が、「反応する」という行為を思い出していなかった。


いや――


そもそも、この身体が本当に自分のものなのかさえ分からない。


それでも、


まぶただけが少しずつ軽くなっていく。


開こうとしているわけではない。


どちらかと言えば――


世界のほうが、閉じ続けることを諦め始めているようだった。


白い亀裂が、再び現れた。


だが今度は違う。


闇を飲み込むことはなかった。


ただ、ゆっくりと開いていく。


細い光。


病室で見続けてきた、あの無機質な白ではない。


もっと柔らかく。


もっと温かい光だった。


少しずつ。


ほんの少しずつ。


裂け目は広がっていく。


それに合わせるように、


今までどこか噛み合わなかった感覚が、一つ、また一つと繋がり始めた。


ドクン。


鼓動が大きく跳ねる。


「……どうして、泣かない?」


男の声だった。


張りつめている。


抑えている。


少しでも力を込めれば、何かが壊れてしまいそうなほど慎重な声。


「はぁ……っ」


「はぁ……」


今度は女の息遣い。


荒い。


苦しそうだ。


それでも必死に取り乱すまいとしているのが伝わってくる。


ドクン。


そのときだった。


何かが、自分の中へ流れ込んできた。


光ではない。


音でもない。


空気だ。


重い。


満ちている。


確かな存在を持った空気。


鼻をつく匂い。


炭のような匂いと、アルコールの刺激臭。


薬品ではない。


消毒液でもない。


あの白い病室の空気とはまるで違う。


これは――


世界だ。


ドクン。


胸が動く。


比喩ではない。


本当に動いた。


膨らみ、


縮み、


また膨らみ、


また縮む。


まるで身体そのものが、


ようやく「生き方」を思い出したみたいに。


「お、おい!」


男の声が震えた。


「見たか!?」


「む、胸が……!」


言葉がもつれる。


「動いた……胸が動いたぞ!」


その一瞬だけ、


世界が息を止めた気がした。


突然でもなく、


劇的でもない。


ただ、


すべてが次の瞬間を待っている。


そんな静けさだった。


アリカには分からない。


けれど、感じていた。


何かが繋がっていく。


本来なら交わるはずのなかったもの同士が、


少しずつ、


一つになっていく。


ドクン。


ドクン。


鼓動が、


自分ではない何かと重なった。


空気を吸う。


肺が満たされる。


吐き出す。


また満たされる。


名前すら持たなかった何かが、


そのたびに形を得ていく。


そして――


闇は終わった。


砕け散るのではない。


静かに開いていく。


まるで世界が、


ようやく決断を下したように。


――もういい。


その声が聞こえた気がした。


「……生きてる」


女の声が震える。


もう恐怖ではない。


奇跡を目の前にした人間だけが漏らす、


信じきれないほど優しい震えだった。


そして初めて、


アリカは闇の中にいることをやめた。


闇から、


零れ落ちる。


その瞬間、


世界が変わった。


ゆっくりではない。


滑らかでもない。


長い年月を耐え続けた堰が、


ある日突然決壊するように。


瞼が開く。


眩い光が容赦なく飛び込んできた。


それでも動けない。


落ち着いているからではない。


光が多すぎた。


音が多すぎた。


現実が――


あまりにも多すぎた。


「……分かり、にくいな」


思わず零れた。


声というより、


思考がそのまま漏れたような呟きだった。


視線がゆっくりと上を向く。


天井。


いや、


空。


ずっと、自分が最後に見上げ続けてきた空。


――のはずだった。


だが違う。


何かがおかしい。


アリカは見つめる。


眺めるのではない。


確かめる。


理解しようとする。


どこかに綻びはないか。


出口はないか。


世界の裂け目はないか。


そんなものを探すように。


だが――


そこには何もなかった。


あるのは木。


幾重にも組まれた木材だけ。


確かな質感。


確かな存在。


空と呼ぶには、あまりにも現実的だった。


あの病室の天井とは違う。


十四年間。


看護師が出入りするたび、


何度も何度も見上げ続けた、あの真っ白な天井。


あの頃は、それだけで世界のすべてだった。


けれど今は違う。


視線がゆっくりと動く。


木の天井よりも、もう少し納得できる何かを探すように。


そして見つけた。


花瓶だった。


心電図モニターではない。


無数のコードでもない。


医療機器でもない。


ただの花瓶。


どこにでもありそうな、ごく普通の花瓶だった。


なのに――


この部屋で一番奇妙に見えた。


「……病院じゃ、ない」


結論は静かに胸へ落ちた。


驚きもない。


確信もない。


ただ、その一言だけで、


何かがぴたりと止まる。


闇を抜けてから初めて、


アリカは答えを探すことをやめた。


ただ見つめる。


今まで知っていた答えは、


もう目の前の世界には当てはまらない。


花瓶はそこにある。


動かない。


喋らない。


何もしない。


だからこそ、


この部屋で一番まともな存在に思えた。


アリカはそっと手を伸ばす。


ぎこちなく。


借り物の身体を初めて動かすように。


そのとき、


視界に自分の手が映った。


「……え?」


動きが止まる。


違う。


これは、自分の手じゃない。


色褪せたリストバンドもない。


点滴の痕もない。


骨ばった細い腕でもない。


あるのは――


小さな手。


丸くて、


ぷにぷにしていて、


笑ってしまうくらい短い。


十センチもあるのか怪しい。


アリカはゆっくりと指を開き、


そして握る。


もう一度。


開いて、


閉じる。


「……ちっちゃ」


思わず漏れた。


信じられなかった。


十四年間、病室で生きてきた。


生まれ変わるなら、


勇者とか。


伝説とか。


せめてチート能力くらいは期待していた。


なのに現実は――


人類バージョン0.1。


つまり。


赤ん坊だった。


「……あ」


男の声がした。


さっきより少し震えている。


アリカが顔を向ける。


そこには二人。


男と、


女。


近い。


やたら近い。


というより、


大きい。


顔だけで視界が埋まる。


世界の縮尺がおかしくなったみたいだった。


二人とも瞬きもしない。


何も言わない。


ただ固まったまま、


アリカを見つめている。


……なんで?


見られている理由が分からない。


アリカも見返した。


正直、


どう反応すればいいのか分からないのは、


自分だって同じだった。


沈黙が流れる。


数秒。


いや、


もっと長かったかもしれない。


数えるのをやめた頃には、


空気だけがどんどん気まずくなっていた。


男の表情が少し引き締まる。


まるで、


高価な壺を買ったら最初から欠けていた、


そんな顔だった。


やがて男は小さく咳払いをした。


「……なあ」


視線はアリカから離さないまま、


隣の女性へ声を掛ける。


「赤ん坊って……


こんなふうに見返してくるものか?」


赤い髪の女性は困ったように首を傾げた。


「……たぶん、違うと思う」


男は頭を掻く。


「その答えは安心できないな」


「質問の時点で十分不安だけど」


二人のやり取りを、


アリカはぼんやり眺めていた。


変な会話だ。


それなのに――


胸の奥が少しだけ軽い。


男は医者とは似ても似つかない。


女性も、


病室で見慣れた看護師たちより、


ずっと綺麗だった。


心電図モニターはない。


憐れむ視線もない。


いるのは、


どう接すればいいのか分からず困っている大人が二人。


アリカは小さな手を持ち上げる。


今の身体で届く限り高く。


自然と口元が緩んだ。


たぶん、


生まれて初めての笑顔だった。


指先が、


天井へ伸びる。


あるいは、


もっと遠くへ。


窓から差し込んだ朝の光が、


二人の間を静かにすり抜ける。


暖かい。


眩しい。


それだけで十分だった。


新しい世界。


新しい身体。


新しい家族。


もし本当に異世界なら――


何かあるはずだ。


ステータス画面とか。


謎の声とか。


せめて説明くらい。


期待に目を輝かせたアリカは、


長年ファンタジーを読み続けてきた者だけが持つ確信とともに、


高らかに叫んだ。


「――ステータス、オープン!」


言葉は、口から出ていた。


思考の中ではない。


実際に、声として。


――そして。


何も起こらなかった。


ウィンドウもない。


文字もない。


声もない。


現実は、まるでそれを笑う気すらないかのように沈黙していた。


残ったのは、ただの静寂。


アリカは瞬きをする。


ゆっくりと、天井を見上げた。


二つの顔は、まだそこにある。


だが今度は、明らかに様子が違っていた。


さっきよりも――困惑している。


男が固まる。


女も固まる。


どちらも瞬きをしない。


言葉もない。


まるで「魚が税務申告をする瞬間」を見てしまったかのような顔だった。


「……」


「……」


「……」


沈黙が、妙に失礼な重さを持ち始めていた。


アリカは二人を見た。


二人もアリカを見る。


誰も、この状況から抜け出す方法を知らない。


やがて――


気づきが訪れる。


遅れて。


あまりにも遅れて。


「……あ」


アリカは瞬きをした。


そういえば――


普通の赤ん坊は、生まれて数分でステータス画面を探したりしない。


「……え」


小さな声が漏れた。


その瞬間、二人の大人が同時に肩を震わせる。


アリカは視線を左右に動かした。


そして、素直に尋ねた。


「……泣いたほうがいいのか?」


――こうして、アリカは世界に落ちた。

できれば勇者とかがよかった、と彼は少しだけ思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ