プロローグ
部屋は白すぎた。
あまりにも白くて、アリカはいつの間にか「他の色」という概念を忘れていた。
どれだけ見つめても何も変わらない。壁も、天井も、ベッドも――すべてが同じ無機質な光へと溶けていく。
空虚。
冷たい。
まるで自分の人生そのものだった。
アリカ・サトリアは天井を見つめていた。
十四歳。
それが彼の人生のすべてだった。
――ピッ。
――ピッ。
――ピッ。
心電図モニターが、何の感情もなく時を刻む。
彼が望んだことのない時間を、ただ測り続けている。
昼と夜の区別はとうに失われていた。
残っている真実はひとつだけ。
――彼は、この部屋から出られない。
観察用のドアが開く。
ガラスの向こうに二つの影。
兄と、医者。
「……アリカは、あと数日しか持たないかもしれません」
医者の声は平坦で、慎重だった。
壊れかけたものに、これ以上壊れないよう言葉を選ぶように。
「もしご家族が面会を希望するなら……」
一拍。
「今が、その時です」
沈黙。
兄は俯いた。
医者は視線を逸らした。
アリカは小さく笑った。
面白いからではない。
他にできることがなかったからだ。
「意味のない場所に、埋められたくないな」
兄の顔がはっと上がる。
「意味のない?」
アリカはすぐには答えなかった。
――ピッ。
――ピッ。
――ピッ。
視線が、腕の紫のリストバンドへ向かう。
そこに書かれた文字は、ほとんど擦り切れている。
それでも何度も見たせいで、忘れようがなかった。
「……まだ、ここにいる」
小さくそう呟く。
兄は何も言わない。
そしてアリカは静かに問う。
「兄さんはさ……俺みたいな人間が家族にいて、誇りに思ったことある?」
兄は固まった。
「分からない」
嘘ではなかった。
むしろ、正直すぎるほどの答え。
短い沈黙。
そして――
「じゃあさ」
「俺みたいな人間にとって、価値のある場所ってどこなんだろうな」
アリカは再び天井を見上げた。
白。
ここに来てから一度も変わっていない。
「分からない」
答えは早すぎた。
「本当に、分からない」
――ピッ。
――ピッ。
――ピッ。
「未来って、みんな簡単に語るよな」
「仕事」
「結婚」
「幸せな人生」
まるで、誰もが同じものを掴めるみたいに。
胸の奥が少しだけ締まる。
「でも俺はさ」
「始まる前に終わってた」
怒りはない。
涙もない。
ただ事実だけがそこにある。
「自分が何になるはずだったのかも、分からない」
兄はさらに俯いた。
「意味のない場所に、埋められたくない」
アリカは言葉を切る。
呼吸がわずかに詰まる。
「もし俺の人生が、もう失敗だったなら」
「せめて終わりくらいは、意味のあるものにしてくれ」
沈黙。
――ピッ。
……ピッ……
……ピッ……
音が遠ざかっていく。
小さくなるのではない。
沈んでいく。
水の底に落ちるみたいに。
アリカは軽くなった気がした。
救われたわけじゃない。
死にかけたわけでもない。
ただ、何かに縛られていたものが外れた感覚。
「……愛してる」
声。
あまりにも小さく、存在しないみたいな声。
アリカは瞬きをした。
「……愛してる」
もう一度。
部屋の中ではない。
廊下でもない。
兄の声でもない。
どこか、繋がっていないはずの場所から漏れてくるような響き。
――ピッ……
……ピッ……
「……愛してる」
近づく。
方向が分からない。
「……行かないで」
アリカは動かない。
「……お願い」
指先がわずかに動く。
痛みではない。
恐怖でもない。
ただ、何かがおかしい。
そして初めて――
この部屋は完全には空ではなくなった。
白が伸びる。
何かが向こう側から押し返している。
――ピッ……
……ピッ……
………ピッ………
「……いて」
最後の声。
願いでも命令でもない。
ただ“存在”。
そして――
ドクン。
心臓の音。
モニターではない。
自分の内側。
ドクン。
もう一度。
強く。
部屋が内側へ折れた。
壊れるのではなく、方向が変わる。
「押せ!」
「もう少しだ!」
「出てくるぞ!」
声が重なる。
病院の声ではない。
別の何か。
始まりの場所。
そして――
光。
暴力的な光。
世界そのものが、初めてこじ開けられたような光。
「うわああああ!!」
叫び。
生の衝突。
「男の子です!」
拍手。
パチパチパチ。
祝福。
ずっと待っていた瞬間のように。
アリカは動けない。
思考もない。
ただ一つだけ。
「……俺は」
「……今」
「……生まれた?」
意識は、まだ“思考”と呼べる形にすらなっていなかった。
意味は存在せず、「理解」という段階にも届いていない。
「それが起きた」と認識できる領域にすら、まだ到達していないまま――
その前に、すべてが崩れた。
落下でも、消失でもない。
ただ、突然の“ずれ”。
瞬きが遅れて終わり、その瞬間にはもう世界だけが別物になっている。
そしてその瞬間、「前」は消えた。
あるのは「今」だけ。
「反応がないぞ?」
最初に届いた声。
男の声。
「呼吸してるか?」
「胸を確認しろ」
雑音が重なる。
だがアリカは反応しない。
拒んでいるわけではない。
視界が、完全に暗闇に覆われていた。
ただの暗闇ではない。
内側から押されているような感覚。
まだ目が開ききっていないような世界。
「なんで泣かない?」
声が近づく。
現実に近づいていく。
「ダニエルを落ち着かせろ」
女の声。
アリカには誰の顔も分からない。
だがここは、あの病室よりも“人の気配”が多い。
そして声は――
妙に現実的だった。
ダニエル?
誰だ?
身体が重い。
かつて重い病にいた記憶だけがある。
動けず、ただ横たわるだけ。
だがこれは違う。
別の何か。
まだ形になっていない何か。
「うぇーい」
ふざけた声。
何かを引き出そうとするような音。
何も起きない。
沈黙。
「……は?」
声が変わる。
揺れ。
理解。
起こるはずのものが起こらないという認識。
アリカの内側で何かがずれる。
身体ではない。
まだ名前のない何か。
暗闇の奥で、ひびが入る。
別の世界が押し込もうとしている。
白。
病室の天井と同じ色。
呼吸の仕方すら曖昧。
それでも「呼吸しなければならない」と分かってしまう。
光が広がる。
影は消えていない。
飲み込まれている。
逃げたい。
だが身体はもう自分のものではない。
音が消える。
切断される。
光だけが残る。
そして――触れた瞬間。
認識が止まる。
世界ではなく、“理解する機能”が止まる。
初めて、彼は世界を“聞く側”ではなくなる。
残るのは一つだけ。
――ドクン。
――ドクン。
心臓の音。
近すぎる。
現実すぎる。
それは自分のもののようで、誰のものでもない音だった。




