日本の現状
2話目です。引き続きアドバイスお願いします。
世界を隔てる境界を越えた瞬間、霞の身体は柔らかな月光に包まれた。
視界いっぱいに広がっていた無数の世界は消え、代わりに重たい空気が全身を包み込む。
「……空気が重いわね。」
霞はゆっくりと目を開いた。
眼下に広がっていたのは、日本――東京都。
かつて世界有数の大都市として栄えた街。
しかし今、その面影はほとんど残っていなかった。
高層ビルは途中から折れ、ガラス張りだった外壁は砕け散っている。
道路は巨大な何かが踏みつけたように陥没し、ところどころには黒く焦げた跡が残っていた。
高速道路は支柱ごと崩れ落ち、折れ曲がった鉄骨がまるで墓標のように空へ突き出している。
街全体が静まり返っていた。
人の笑い声も。
車の走る音も。
子どもたちの遊ぶ声もない。
聞こえるのは風が瓦礫を転がす音だけだった。
「これが……ダンジョンに侵された世界。」
霞は静かに呟く。
その黄金色の瞳は悲しみではなく、ただ世界の現状を受け止めるように景色を映していた。
彼女は空中を滑るように進む。
足が地面に触れることはない。
神である霞にとって、重力は意味を持たなかった。
崩れた交差点へ降り立つ。
そこには数台の戦車が放置されていた。
砲身はへし折れ、装甲には巨大な爪痕が刻まれている。
車体の側面には、かろうじて「陸上自衛隊」の文字が残っていた。
「最後まで戦ったのね。」
霞は指先で戦車に触れる。
神には物に残った記憶を読む力がある。
一瞬だけ、戦車の記憶が霞の脳裏へ流れ込んだ。
夜明け前。
突然地面を突き破って現れた巨大な魔物。
戦車部隊の一斉射撃。
何発もの砲弾が命中しても傷一つ付かない巨体。
仲間の悲鳴。
逃げ惑う民間人。
最後まで退かなかった隊員たち。
そして――巨大な爪が振り下ろされ、視界が暗転する。
「……。」
霞は静かに目を閉じた。
「勇敢だったわ。」
その一言だけを残し、再び歩き始める。
やがて、コンビニだった建物の前で立ち止まる。
店内は棚が倒れ、商品は散乱し、窓ガラスはすべて割れていた。
霞は苦笑する。
「さすがにスイーツは残っていないわよね。」
冗談半分で冷蔵ケースを覗き込む。
当然、中は空だった。
「少し期待した私が悪かったわ。」
肩をすくめながら店を後にする。
その時だった。
霞の耳が、遠くから聞こえる低いうなり声を捉えた。
「来たわね。」
瓦礫の向こうから姿を現したのは、全長三メートルほどの狼型の魔物だった。
漆黒の体毛に覆われ、赤い瞳が獲物を見つけた喜びに輝いている。
口元からは鋭い牙がのぞき、石畳を踏み砕きながらゆっくりと近づいてきた。
その後ろから二体、三体と同じ魔物が現れる。
群れだ。
魔物たちは霞を取り囲むように広がる。
普通の人間なら、数秒で命を落としていただろう。
しかし霞は逃げない。
いや、逃げる必要がなかった。
「あなたたち、人を食べて生きているの?」
狼型の魔物は答えない。
ただ本能のまま飛びかかる。
一頭が地面を蹴った。
音速にも迫る勢いで霞の喉元へ牙を突き立てようとする。
その瞬間。
「止まりなさい。」
霞が小さく呟いた。
それだけだった。
魔物の身体が空中で完全に静止する。
続いて飛びかかった仲間たちも、一斉に動きを止めた。
まるで時間そのものが止まったかのようだった。
「これが、この世界では強い部類なのかしら。」
霞は興味深そうに魔物を眺める。
神の力を使えば、一瞬で世界中の魔物を消し去ることもできる。
だが、それでは意味がない。
神が与えるべきは救済だけではない。
人が自ら未来を切り開ける希望もまた、必要なのだから。
「今日は見逃してあげる。」
霞が指を軽く鳴らす。
次の瞬間、魔物たちの身体は淡い光に包まれ、数百メートル先の廃墟へと転移していた。
彼女は殺さなかった。
それは慈悲ではない。
ただ、この世界をもう少し見てから判断したいと思っただけだった。
霞は再び空へ舞い上がる。
その視線の先には、地平線まで続く巨大な白い壁が見えていた。
「……あれが人類最後の砦。」
高さ百メートルを超える防壁。
その上には無数の砲台が並び、監視塔や対空兵器が設置されている。
壁の内側には、まだ人々の営みが残っているのだろう。
煙突からは細い煙が立ち上り、太陽光発電施設がわずかに光を反射していた。
霞は穏やかに微笑む。
「ようやく会えそうね。」
「この世界で、最後まで抗い続けている人たちに。」
そして彼女は、白い防壁へ向かって静かに飛び始めた。
その姿を、遠く上空で一機の無人偵察ドローンが捉えていたことを、この時の霞はまだ知らなかった。




