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第九話 消失

「うっ……」

後頭部に鈍い鈍痛を感じながら目を開く。

ここは……?

周囲を見渡す。

コタツ兼用のテーブル、脱ぎ散らかされた服、雑多に積まれたあれこれ、色褪せたカーテン。

見慣れた自分の家のリビングだ。

私はなぜ寝室のベッドではなく、リビングに置かれたソファーで寝ていたのか。

どうにも自分が置かれた状況が上手く把握できない。

昨夜飲み過ぎたような憶えはないのだが。

今は何時だ?

時計を確認して焦る。

午後2時を回っていた。

なんということだ。

どうにも言い訳が出来ないほどの大遅刻、いや、もはや無断欠勤だ。

仕事用のチャットとメーラー、そして音声通話の着信履歴は上司からのもので埋め尽くされている。

ヤバい。

とにかく連絡をしなければ。

しかし、なんて事情を説明すれば良いんだ?

気が付いたら寝こけていましたでは、今後の私の信用と査定に関わる。

いったい何がどうしてこうなったんだ?

その時、奔流のように昨夜の記憶が押し寄せてきた。

椅子に縛り付けられる苦痛

失禁して濡れた下着とズボンが貼り付く不快な感触

体中を不快害虫が這い回る感触

強制的にインストールされたアプリによって自身の認識が書き換えられる屈辱

そして楼池(ろうち)氏のニヤけ顔


「あの野郎!」

怒りにまかせて飛び出そうとするが、その時になって私は自分が素っ裸である事に気が付いた。

流石にこんな格好で外に出る訳にはいかない。

その辺に脱ぎ散らかされていた服を適当に身に着けてから外へ出る。

隣の909号室のインターフォンを押すが、反応が無い。

ドアに耳を押しつけてみるが、内部からは人の気配を感じられない。

留守なのか?

ドアの周囲を確認する。

表札には何も無い。

たしか、ここには「楼池」と書かれたプラスチックプレートが()まっていたと思ったのだが。

どうにも私の手には負えそうにない。

警察に通報する事にする。

職場の方にも犯罪に巻き込まれたが無事だと報告しておこう。


20分ほど後。

警察の立ち会いの元、管理人が合鍵を使って909号室の扉を開いたが、そこはもぬけの空だった。

楼池氏が不在というだけではない。

家具も何も無くガランとした室内は、まったく生活の痕跡のない空き家だったのだ。

そんな筈は無い。

私は何度かこの909号室に楼池氏が出入りしているのを見ているし、昨夜の犯行も前後の状況からしてこの部屋で行われた可能性が高いように私には思える。

しかし、管理人が言うにはこの909号室は以前住んでいた老夫婦が転居して以来、ずっと空室だったというのだ。

そんな馬鹿なことがあるはずが無い。

しかし、近隣の住人に聞き込みをしても、誰も楼池氏の事を憶えていなかった。

警官が私を見る視線も、当初の頃の犯罪被害者を哀れむものから、徐々に虚言癖のある異常者に辟易するようなものに変わっていった。

まさかとは思うが、彼は管理会社のコンピューターに侵入してデータを改竄したばかりか、近隣住民達の電脳からも自身に関する記憶を根こそぎ消去するよう事が可能な凄腕のハッカーだったのか?

警官にその可能性を指摘してみたが「ありえませんよ。そんな事が個人で出来る訳がないですし、仮に可能なほどの凄腕だったら、こんな所で妙な犯罪などしなくても食っていける身分でしょう。」と、真面目に取り合ってくれない。

なおも食い下がる私に根負けして、下の階に住む電脳化処置を施されていない老人に聞き込みをしてくれたが、老人の記憶はかなり曖昧で、楼池氏の実在を立証する証言にはとてもなりそうになかった。

警察の私に対する態度は悪化の一途を辿り、最終的には先日の貼り紙事件さえも私の自作自演ではないかと疑い始めたようだった。

結局、形ばかり被害届を出しはしたものの、警察が真面目に捜査してくれる可能性は望み薄だ。

それでも諸々の事情聴取やら書類作成やらが片付いて帰宅した頃にはとっぷり夜も更けていた。


帰宅してすぐ、リビングのテーブルの上に見慣れない物体が置かれている事に気が付いた。

縦横高さが30x50x30cmくらいの直方体に風呂敷がかけられている。

明らかに私の持ち物では無い。

いつからここにあったんだ?

目覚めて家を飛びだしたときには既に存在していたような気もするが、あの時は混乱の極みにあったので自信を持って断言することはできない。

風呂敷を取り除くと、下から現れたのは見覚えのある飼育ケース。

その中身を見てギョッとした。

透明なアクリル板で囲われた中には、露出の激しい扇情的な衣装に身を包んだ小人とも妖精ともつかない小さな女性達が(たたず)んでいる。

布によって遮られていた光を急激に浴びせられた彼女達は眩しそうに目を細めながらも、狼藉の犯人である私を非難がましい目で見上げてくる。

これが現実なわけはない。

拡張現実(AR)マスクによって上書きされただけの像だ。

一見可憐な彼女達の正体はゴキブリだ。

昨夜の出来事は私の夢や妄想などではなかったのだ。

Project-Gとやらが私にインストールされているし、楼池氏が手塩にかけて育てたとかいうゴキブリ達がここにいる。

楼池氏が実在しないなどという事は有り得ない。


電脳内をチェックする。

task managerを確認すると、起動中applicationのlist内に例の"Project-G"がある。

終了を指示するが、commandが拒否される。

強制終了commandでも受け付けない。

administar(管理者)権限で常駐に設定されていて、user権限では終了させられないらしい。

どうやら厳重にロックされていて、アプリに手を出すことは困難なようだ。

攻め方を変えて、"Project-G"とは別に存在するARエンジン"ALTERNATIVE REAL"に矛先を切り替える。

これは拡張現実を扱うアプリで一般的に利用されているソフトウェアエンジンで、視覚/聴覚/嗅覚/触覚/味覚の五感に対して同時並行的にARマスクを生成し感覚信号に上書きする機能を持つ。

"Project-G"もARマスクの処理など、大部分の機能をこれに依存している筈だ。

無効化した場合、他のARアプリも殆ど全てが機能不全に陥る可能性があるが、背に腹は代えられない。

"ALTERNATIVE REAL"の動作を停止するよう指示する。

しかし先程と同様にcomandは拒否された。

思いつく限りあらゆる方法で"ALTERNATIVE REAL"の動作を停止させようとするが、全て無駄だった。

RAM(メモリ)の制御に介入して"ALTERNATIVE REAL"に割り当てられた領域の強制開放すら試みたが、それも受け付けられなかった。


万策尽きて、どかりとソファーに座り込む。

ふと視線を感じて顔を上げれば、飼育ケースの中の妖精達の内、何人かがこちらを興味深そうに見ていた。

一人で七転八倒している私の姿が滑稽だったのだろうか。

いや待て、さっき私は彼女達の事を"何人か"と考えたのか。

今もそうだ。"彼女達"とまるで人間のように思ってしまっている。

あれはゴキブリだぞ。

混乱する頭に正気を取り戻そうと、必死に自分に言い聞かせる。

あれはゴキブリだ あれはゴキブリだ あれはゴキブリだ あれはゴキブリだ

あれはゴキブリだ あれはゴキブリだ あれはゴキブリだ あれはゴキブリだ

あれはゴキブリだ あれはゴキブリだ あれはゴキブリだ あれはゴキブリだ


譫言(うわごと)のようにブツブツと呟き続ける私を、飼育ケース内の彼女達は不思議そうに首を傾げて眺めていた。



続く

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