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第七話 虜

闇に閉ざされた視界は何も映さない。

視覚が役に立たない以上、他の感覚で情報を得るしかない。

耳を澄まして周囲の僅かな音を探る。

電脳の音響deviceの設定を変更し、感度を最大にする。

微かにモーターが回るような音がしているのはエアコンの作動音か?

ここが野外ではなく、どこかの室内であるのは確実だろう。

カサカサと何かが擦れるような音。

何だ?何の音だ?

紙か何かにエアコンの風が当たって音を立てているようにも聞こえなくも無いが、それなら等間隔の周期性がある筈だ。

周期性は感じられないし、音源が私を囲うように複数あるかのようにも思える。

カサカサ…

ゴソゴソ…

音は確かにしている。


ギシッ ギシッ ギシッ

謎の音の正体を探るよりも、より優先度の高そうな音を検知した。

明らかに人間の足音だ。

踏みしめられたフローリングの床が軋みを上げている音が背後から聞こえてくる。

こちらに誰かが近づいてくる!

大声を出して助けを求めるべきか?

いや、この状況ならば、この足音の主こそが私を誘拐した犯人である可能性の方が高いだろう。

どうするべきか?

私が決めかねている間に、足音は私の背後数メートルの位置で止まった。

ガチャリ

ドアノブを操作する音。

ギィィィィィィ……

背後から軋んだ音が響き、光が差し込んでくる。

扉が開いて、光が侵入してきた。

暗闇に順応しかけていた目には眩しい。

思わず顔をしかめてしまう。

足跡の主はズンズンと室内に侵入してきて、私の顔を覗き込む。

「やあ、気が付かれましたか?なかなか起きないので、ちょっと強く殴りすぎたんじゃないかと心配しましたよ」

聞き覚えのある声だ。

誰だったか。

薄目を開けて、私の顔を覗き込む脂ぎった小太りの顔を見て、やっと思い出した。

隣の909号室の住人である楼池(ろうち)氏だ。

「いやぁ、先日は失礼しました。サクラたんを殺された恨みに我を失って、ついあんな破廉恥な真似をしてしまいました。我が身の不徳を恥じるばかりです」

こいつ、何を言っているんだ?

「私もね、思い直したのですよ。貴方に踏みつぶされて理不尽に殺されたサクラたんの無念を晴らすのに、あんな子供の悪戯みたいな事では、とても彼女に顔向けできないと」

だから、いったい何の事だ?

サクラたんって誰だ?

どうやら女性のようだが、その彼女を私が殺した?

踏みつぶして?

何を言っているのか皆目見当がつかない。

「ですから、私は考えたのですよ。貴方にも同じ苦しみを味わってもらおうかと。幸い、今年は気温も湿度も適正値に近くて、結構なペースで繁殖と成長を遂げてくれましたからね。我が身を切られるような想いではありますが、少しばかり貴方に分けてあげられるくらいには余裕があります」

楼池氏が私からいったん離れて壁際に向かう。

パチンッ

楼池氏がスイッチを押すと、室内の照明が点灯した。

さらに強い光に晒されて目が眩む。

それでも私は驚愕に目を見開かざるを得なかった。

壁を覆うように設置されたラックにはアクリル製の飼育ケースがズラリと並んでいる。

その中では体長2~3センチの黒や茶色の昆虫が這い回っている。

明らかに、カブトムシやクワガタムシではない。

「どうです美しいでしょう、私の娘達は」

楼池氏は飼育ケースの一つを手に取り、それを私の眼前へと持ってくる。

目の前でアクリル板一つ挟んだ向こうで動き回っているのは、ゴキブリだ。

何の変哲も無い、チャバネゴキブリ。

それが視界いっぱいに広がり、グロテスクな腹部を見せつけてくる。

「うっぷ」

苦い胃液が食堂を迫り上がってくるが、どうにか堪える。

「飼育ケースの手入れ中にサクラたんを逃がしてしまったのは私の手落ちですが、何の罪もない可憐な彼女を無惨にも踏み殺したのは貴方の罪です」

混乱しそうな頭をどうにか整理する。

ようやく理解できてきた。

要は、楼池氏はゴキブリを偏愛する狂人で、逃げ出したゴキブリをたまたま私が殺したという事らしい。

サクラたんとか言うのが、この男がそのゴキブリにつけた名前なのだろう。

しかし、たかがゴキブリじゃあないか。

この男の執念と偏愛は異常過ぎる。

「言ったでしょう?貴方にも同じ苦しみを味わって貰うと。まずは、彼女たちと戯れてみてください。きっと貴方も彼女達の魅力に気がつけますよ。と言っても、最初は手加減も必要でしょうね」

そう言って、楼池氏は別の飼育ケースを手に取った。

その中には、少なくとも十数匹のゴキブリが入っている。

「いきなり彼女達の愛撫は刺激が強すぎるでしょうからね。まずは同性同士でお友達になりましょう。なに、これは繁殖用に確保してある雄ですから、多少何かあっても恨んだりしませんよ」

そう言って楼池氏はケースの蓋を開けると、それを私の頭上でひっくり返した。

「………!!!!」

あまりの事に悲鳴も出なかった。

全身にゴキブリの群れが振り掛けられる。

突然の天変地異に見舞われてパニックに陥ったゴキブリたちが、裾や襟から私の服の中へと潜り込んでくる。

私の肌をヤツラの節足が這いずり回る感触に怖気が走る。

ヤツラが顔といわず、手脚といわず、背中も腹も、私の全身を這い回っている。

逃れようと藻掻くが、椅子にガッチリと縛り付けられた身体はビクともしない。

あまりにも(おぞ)ましい感触に私の理性が焼き切れた。

「あああああああああああああ………!!!!」

口を開いたのがいけなかった。

顔面を這いずっていた一匹が口の中へと侵入してくる。

口内の異物を反射的に吐き出す。

唇に感じるゴキブリの身体の凹凸と、脂ぎった表面の感触。

吐き出されたヤツは床に叩き付けられたが、それでも尚、何事もなかったかのように私の方へ向かってきて、靴下を這い上ってズボンの裾から内部に潜り込んでくる。

ソイツが臑毛(すねげ)を掻き分けてよじ登ってくるのが分かる。

「しばらく彼らと遊んでいてください。次の準備ができるまで、まだ少し時間がかかりますから」

「ま、待ってくれ!」

私の懇願に耳を貸すそぶりも見せず、楼池氏は照明を消して外へ出て行った。

再び訪れた真っ暗闇の中、全身を這い回る悍ましい感触とカサカサゴソゴソという音だけを感じる。

「う、うわああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」

私の絶叫が暗闇に空しく響いた。



続く

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