第四話 怒りと殺意
今年はやたらとゴキブリ出現頻度が高いので、近所のドラッグストアで対策用品を買い揃える。
ゴキブリ専用の殺虫剤、食毒剤、捕獲器など。
同時に購入した食料品などと一緒にそれらをエコバッグに詰めるのは何となく嫌だったので、有料ではあったが袋をもらってゴキブリ対策用品はそちらに入れる。
マンションの前まで戻って来たところで、隣の909号室に住む楼池氏とバッタリ出くわした。
「こんにちは。今日も暑いですね」
「いや、まったく。まだ梅雨入り前だというのにこの陽気ですからね」
空虚な挨拶の応酬。
楼池氏の表情は一見にこやかだ。だが、その目は笑っておらず何やらネットリした視線を向けてくるのが、少しばかり気味が悪い。
適当に社交辞令を切り上げて部屋に戻ろうとしたのだが、楼池氏の視線は私が手に提げたビニール袋に向けられる。
「おや、お買い物ですか」
買い物袋を提げて帰る姿を見れば明白だろうに、なぜわざわざそんな事を訊ねるのか。
これも隣人と擦れ違った際の社交辞令的挨拶の一環なのか。
ドラッグストアのロゴが入ったビニール袋は半ば透けており、私が何を買ってきたのかは外から見ただけでも丸見えだ。
「最近多いですからね。余計な出費を強いられましたよ」
ゴキブリ対策用品の詰まったビニール袋を持った手を掲げてみせる。
その瞬間、楼池氏の表情に変化があった。
一瞬浮かんだのは、激しい憤り。憤怒の形相と言っていい。
しかしその悪鬼のような表情は一瞬で薄れ、取り繕うかのように能面のごとき無表情に変わる。
「ああ、ええ、そうですね…それじゃあこれで………」
楼池氏は何か口の中でブツブツ呟きながら乱暴な仕草で私の横を抜け、そのまま歩き去って行った。
たった今、私の目の前で起こった彼の表情と態度の豹変が理解出来ず、私は歩み去って行く彼の背中を呆然と見送った。
いったい何だったんだ?
私が何か彼の機嫌を損ねるような事をしてしまったのだろうか?
まあ、何となく薄気味悪い人物ではある。
正直なところ、妙な形ではあったが別れる事ができてホッとしている。
自室の910号室に戻り、買い込んできた食料等を整理する。
生ものは冷蔵庫へ。冷食は冷凍庫へ。レトルトやカップ麺は流し下のスペースへ。
最近は温度湿度が上がってきている。念のため、パンも常温保存は避けて冷蔵庫に入れておこう。
これだけあれば数日は自宅から出なくても過ごせるだろう。
その後はゴキブリ対策用品の設置。
既存の殺虫剤は振った感じ三分の一くらいは残っていそうなので、デスク脇のいつでも手に届く場所に。
新しく買ってきた殺虫剤は『人体に有害な成分を含まず、小さなお子様のいるご家庭や調理施設でも安心安全にお使いいただけます』というのが売り文句なので、これは台所に置いておく。
食毒剤と捕獲器はゴキブリが好みそうな台所の奥まった場所や家具の隙間などに設置していく。
その過程で家具の隙間から、何年前に設置したのか憶えていない毒餌が出てきた。
既に有効期限はとうに過ぎているだろう。
埃まみれになっている上、これをゴキブリが囓ったりしたかと思うとどうにも汚らしく、素手で触るのが躊躇われる。
いったん台所へ行き、調理用のゴミ手袋を嵌めてから古い食毒剤を摘まんでゴミ袋に入れていく。
メタルラックの下にあった古い食毒剤を回収しようとしていた時だった。
組み合わされた金属線の向こう側に転がっている食毒剤に、隙間から指を入れて摘まもうと試みるが微妙に届かない。
くっ…後もう少しなのだが…
手首の角度を変えたり色々と試行錯誤している内に、指先が食毒剤の黒いプラスチック製カバーに触れた。
「うわっ」
その瞬間、思いもしなった物が視界に入り、仰け反って尻餅をついてしまった。
指が触れた毒餌の位置がズレて、死角になっていたその背後に干涸らびたゴキブリの死骸があったのに気が付いたのだ。
気分が悪い。最悪だ。
いったい、いつからそこに転がっていたのか。
私は何ヶ月か、いや下手したら何年もゴキブリの死骸が転がっている部屋で生活し、ゴキブリの死骸に触れた空気を吸っていたらしい。
「うえっぷ」
急激に胃液が喉に迫り上がってきた。
「うっ…」
我慢出来ず、口元を押さえてトイレに走る。
便器に向かって屈み込むと同時に嘔吐した。
胃液が喉を焼く痛みに涙が滲む。
クソッタレ!
人類はこれまで何万種もの動植物を絶滅させてきたというのに、なぜ未だにゴキブリなどという気色の悪い虫が存続しているのか。
今すぐにでも対策のための国際機関を立ち上げて、人類の持ち得る英知と化学工業力の全てを動員してヤツラを1匹残らず地球上から抹殺すべきだ!
胃液と鼻水と涙でグチャグチャになった顔のまま、私はトイレの壁を殴りつけた。
続く




